第2話『もう一つの世界』

 ざあざあと雨が降っていた。

 ずっとずっと降っていた。

 いつから降り続けているかなんてわからない。

 ずっとずっと降っていた。

 大人たちが皆、泣きそうな顔をして、難しい話をしていた。

 誰かが祟りを鎮めなければと言った。

 一体誰を捧げるべきかと、怖い顔をして言い争っていた。

 大人は大変。皆も大変。

 でも、僕には関係ない。

 僕はこの村にいるけどいない。

 普段から誰も僕のことを気に掛けない。助けてくれない。

 それでも僕は困らない。

 食べ物は毎日お供え物があるから。

 取って食べても誰も叱らない。関わらない。

 寝起きする場所はお堂がある。

 誰かのものを盗まない限り、誰も気にしない。気に掛けない。

 だから、大人たちが何を困っているかなんて、僕も気にしない。

 それなのに、その日僕は、名前を呼ばれた。

 一瞬、それが僕の名前だとは思わなかった。

 それだけ長い長い間、忘れ去るほどに長い間、名前を呼んでくれる人が居なかったから。

 名前を呼ばれたと分かったら、胸の奥がジワリと温かくなった。

 自然と笑顔が出来て、僕は大人たちの中に飛び込んだ。

 いろんな人が僕の名前を呼んでくれた。

 貴重なお風呂に入れてくれた。

 誰かのお古だとしても、僕にとって新しい着物を着せてくれた。

 食べたこともない贅沢なご飯を食べさせてくれた。

 嬉しかった。

 楽しかった。

 ずっと雨が続けば、何故か皆が優しくしてくれると言うのなら、ずっと続けばいいのに。

 その日は朝から夜まで、皆が僕を気にしてくれて、まるで夢を見ているようだった。

 だから、今日はどうだったかときかれて、楽しかったと僕は答えた。

 嬉しかったし、夢のようだと。

 そうかそうかと、はしゃぐ僕の言葉に頷きながら、大人は僕の頭を撫でてくれて。

『じゃあ、もう心残りはないな』

 吐き捨てるような言葉を聞いた瞬間、僕は夢から覚めた。

 次の瞬間。頭から大きな袋をすっぽりと足元まで被された。

 言いようもない恐怖が腹の奥から背筋を通って頭のてっぺんを通り過ぎる。

 早く縛れと誰かが叫んだ。

 首が絞められた。

 担がれる。

 僕は喚く。暴れる。

 怖かった。ただただ怖かった。

 涙が溢れ出た。鼻水も、涎も。足の付け根を生暖かいものが伝って落ちる。

 お父やお母がいなくなっても、たった独りになっても、誰も気に掛けてくれなくなってもここまでの恐怖を感じたことはなかった。

 こんな思いをさせられるぐらいなら、優しくしてくれなくていい。

 名前を呼ばれなくてもいい。独りでいい、無視されてていい。

 暴れる僕を大人たちは怒鳴る。

 何を言われているかなんてわからない。

 わからないままにどこか高いところに運ばれる。

 激しい雨の音以外に、ごうごうと流れる川の音が聞こえた。

 この雨を止めなきゃならん。

 誰かが言った。

 止めるためにはこうするしかないんだ。

 村のためになる。

 お前は祀られる。

 誇りと思え。

 意味がわからなかった。

 わからないまま。

 ボクの体は放り投げられた。

 軽い浮遊感。

 そして――

 ゴギュというおぞましい音と首に掛かる衝撃を最後に、ボクは意識を手放した――


              ◆


《ウワアアアアアア》

「いった!」


 悲鳴と共に暴れた縁の硬い翼が深の顔面を強打して、深は悲鳴と供に目を覚ました。

 ただでさえ、やけに五感が生々しい夢を見たと思っていたところにこれだ。

 直後、ぞわりと髪が逆立つような悪寒に襲われ、反射的に頭に手をやり、いつも巻いている布がないことに慌てる。

 見回せば、枕元に落ちている遮幕朧しゃまくおぼろ。道理で。と納得しながら即座に頭に巻き付ける。行者包みのように巻きつければ、悪寒は嘘のように消え去って。


《シ、シン。シン。こ、こわいユメみた。こわいユメ》


 ヒシッと縋りついて来る涙目の縁の、逆立った鶏冠ごと頭を撫でて落ち着かせる。


「大丈夫だ。ただの夢だ。ほら、お前が怖がるからちゃんとてるてる坊主も作っただろ? 雨の日に出て来る人食い村だとしても、雨を止めるてるてる坊主があれば大丈夫だろ?」

《で、でも、アメ、やんでないぞ》

「そうだなぁ。もっと数を増やすか?」


 怖がって仕方がなかった縁を落ち着かせるために、あり合わせのもので作ったてるてる坊主。

 衣紋掛けに吊るして落ち着かせたものの、雨は実際止んではいなかった。


《でも、きょうはもう、この村でるンだろ?》

「そうだな。出来れば俺は雨が上がってから行きたいんだが……うん。出るよ。昨日よりは雨脚も弱くなったようだしな」


 今にも溢れそうなほどに目を潤ませて見上げられれば、今日も縁を懐に隠して濡れ鼠になることを覚悟する。

 そこへ、おはようございますと少年の声が聞こえて来れば、深は縁を隠して返事を返した。


 別に縁を隠す必要はないような気もしないでもないが、反射的なものだった。

 普段は不平不満を漏らす縁も大人しく従う時は、大体隠していた方が問題が起きずに済むことは学習済み。

 だと言うのに、


「あ、夕餉はきちんと召し上がられていますね。朝餉の用意が出来たのでお持ちしました。まだ雨は上がりませんので、もう一日泊まられてはと村長が――」


 と言ったところで、にこやかだった少年の視線がある一点で止まり、見る見るうちに目を瞠ると表情を強張らせ、カタカタと震え始めるとガシャンと朝餉の膳を取り落とした。

 その盛大な音が上がった瞬間、少年は我を取り戻し、


「す、すみません。ボクとしたことが。あの、今すぐ片付けますので、そのままにしておいて下さい」


 血の気を完全に引かせて部屋を飛び出していく少年を見て、取り残された深は部屋の中を見回した。一体何が少年を怖がらせたのか。


「まさか、てるてる坊主?」


 昨夜なくて今日あるものと言えばそれしかなかった。

 もしかしたらと逡巡し、深は決断した。


「縁。今すぐここを出るぞ」

《え? どーしたンだ?》


 いつもと違う硬い声音に、縁が慌てて出て来ると、すっかり身支度を整えた深は説明もせずに部屋を出た。


                ◆


 室内は暗かった。外では雨が降り続いているのだから当然だろう。

 そして、静かだった。

 人っ子一人いない。それどころか生活感すら感じられなかった。

 少年がどこへ行ったのか見当など付けようがない。

 それでも深は己の昨夜の記憶と感覚を頼りに足を進める。

 縁には予め喋るなと忠告し、またも懐に入れて道中合羽を着込んで姿を隠して進んだ。


 やがて玄関が見えて来た。替えの草履を出して履く。土間に降りて戸口に手を掛けるも、開かなかった。

 どれだけ引いても押しても、木戸はびくともしなかった。


《シ、シン?》


 不安げに縁が名前を呼んで来る。

 宥めるように道中合羽の上から頭を撫でて、深は周囲を見回した。

 直後、深の視界がぐらりと揺らぐ。

 激しい眩暈に、咄嗟にきつく目を閉じる。


《シン? どーした? ダイジョーブか?》


 心細げに縁が心配して来る。


「大丈夫。大丈夫だ」


 普段は傲慢極まりないが、小心者の縁。怖がらせてはいけない。不安にさせてはいけないと、道中合羽越しに再び頭を撫でて、深は進む。


 深の眼には目を閉じる前とはまるで違う景色が見えていた。

 よくよく見れば先ほどまで見ていた屋敷内だ。だが、その屋敷の風景に重なるように、どこか外の景色が折り重なるように視えていた。


 道が、あった。廊下とは別に見える、下草を踏み締めて作られた獣道が。

 ざわざわと胸が騒いだ。

 行きたくないと言う強い衝動に駆られた。

 だからこそ、深は足を踏み出した。


 まっすぐな廊下のはずだった。それでも、深は廊下に沿っているようで獣道を歩いていた。

 平らな廊下のはずだった。だが、深の足は緩やかな坂道を登っていた。

 廊下の左右にあった障子戸が消え失せて、立木がどこまでもどこまで連なっていた。

 雨と土の匂いが、水に濡れた草木の匂いが、深の鼻腔を通り肺腑を満たす。

 足の裏の感触は既に廊下ではなかった。


 雨が降っていた。

 脳裏に今朝方見た夢が蘇る。

 全て雨が降っていた。

 昨夜も今も、夢の中も。ずっとずっと雨だった。


 どれが夢で現実なのか、既に分かったものではなかったが、深は、獣道を進んだ。

 雨に混じり、轟轟と流れる川の音が聞こえていた。

 もう少しであの場所だと察する。

 ぎしぎしと、縄の擦れる音がする。

 このまままっすぐ進めば――


「駄目だ!!」


 絶望の悲鳴が深を呼び戻し、手を握られると力任せに背後へグイッと引っ張られた。

 見れば恐怖の表情を貼り付かせた少年の頭が見えた。

 その足元はまだ、獣道だが、


「なんでこんなところに。だってご飯は食べていたはずなのに……」


 次第に深の耳に、たったったったったと廊下を走る音が聞こえて来る。

 同時に混乱する少年の声。

 夕餉を食べたのは縁で、深は食べなかった。腹は減っていたが、体が疲れ切っていて睡眠をとる方が優先だったのだ。


 食べたら一体どうなっていたのだろうかと疑問が過ぎる。見たところ縁に異常は見られない。

 だが、食べていればこんな状態には陥っていないということは推察できた。


 深は逃げる。少年に手を引かれながら。

 そして、


「そのままその部屋に入って!」


 言われるがままに入った瞬間。


「え?」


 踏み込んだ足は、地面を踏み締めることはなかった。

 浮遊感の後に訪れるのは、落下と言う自然の理だけだった。

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