『雨宿りの村』
橘紫綺
第1話『雨宿り先を探して』
土砂降りの、雨だった。
分厚い灰色の雨雲が空を覆い、大地憎しと言わんばかりに叩きつける雨粒が世界を白く煙らせている中を、道中合羽を着こんだ薬師が一人、錫杖片手に無謀にも駆けていた。
背負った薬箱も覆っているため裾は通常よりも上がっており、足元がすっかり濡れそぼり、既に小川と化し始めているぬかるんだ地面が容赦なくその足を取った瞬間。
《ギャアアアア、やめろ! シッカリしろ! たおれてオレサマがぬれたら、カクゴしろよ!》
甲高い悲鳴が容赦なく薬師を責めた。
一瞬、薬師の頬がヒクリと引き攣る。
いっそのこと、人の懐に潜り込み、落ちては堪らないと爪を立てている存在を、引っ張り出して放り投げて行こうかとも思案する。
「あの村の人たちの忠告を素直に聞いていれば、今頃は暖かい夕餉を頂いていた頃だっただろうに、誰かさんが我がままを言うから」
《オレサマのせいだってゆーのか?!》
逆切れした相手が喚くせいで、硬く鋭い嘴が胸を叩いて、かなり痛い。
本当に放り出してしまおうかと、どこか冷静に考える。
いくら笠を被り、道中合羽を着ていると言っても、痛みすら伴うほどの激しく打ち付ける雨は、命の危険を否が応にも抱かせる。
足元はもう小川の中を走っているような状態になり果てて、濡れた足元から容赦なく体温が奪われて行くのが男には分かった。
これはマズイと、正直思う。
視線を上げても視界は晴れない。
道中の距離を示す一里塚も見えない。道祖神も見えない。この分だと森の中で野宿も危険。
懐からは、濡れるのを嫌って好き放題喚く輩がおり、そろそろ体力の限界が近づいて来ている中、どこか休息できる場所で一度暖を取らなければと考えたとき、煙る世界にぼやりと浮かぶ影が一つ。
道祖神だと分かった瞬間。薬師の
◆
深が辿り着いたのは、なんとも不思議な村だった。
家屋がなかった。
あるのは水に沈みかけている田畑と、その奥にある村人全員が寝起きできそうなほどに大きな屋敷が一つ。深は迷うことなく玄関の木戸を叩いた。
「すみません! 誰かいませんか!」
だが、この雨音のせいで、中の住人たちに声が届いていないかもしれないと危惧を抱きつつも木戸を叩き続けた結果。
「誰かいるの?」
雨音に混じって、誰何する声が聞こえた。
深は弾かれたように早口で事情を説明した。
これが反対の立場であれば、怪しいことこの上ないが、これでダメなら、納屋でもいいからと交渉しなければならないと思っていると、木戸が開き、深は少年によって招き入れられた。
◆
「本当に災難でしたね」
「村長かご両親にご挨拶をしなくてもいいのかい?」
玄関先で道中合羽と笠を脱ぎ、代わりに手ぬぐいを借りて体や足の水気を拭いた深を、少年はまっすぐに客間へと案内した。
年の頃は十四、五。長めの黒髪を首元で一つにした、水色の縦縞模様の着流しを来た少年だった。
少年は言った。大丈夫ですよと。
「この村にはよくあるんですよ。一夜の雨宿りを頼みに来る人は」
そうなのかい? と問えば、ええ。と苦笑を交えた答えが返る。
そう言って、明かり一つ灯らない恐ろしく静かな廊下を案内された。
「不躾なことを聞くが、ここには他に暮らしている者はいないのかい? 村に入ったとき見えたのはこの屋敷だけだったから、てっきり村の人たち全員が共同で暮らしていると思ったが」
「ええ。そうですよ。こういう日は奥の大広間でどんちゃん騒ぎです。そこで明かりも使いますから、少しでも節約するために他は一切明かりを灯さないんです。おかしいですよね? 今までいらっしゃった皆様も同じことを口にしていましたよ。ちなみにボクは飲み潰れている大人たちの代わりです。いつの間にかボクがお世話係になっていましたが、お部屋はこちらを使ってください。後で食事を持って行きますから、中の浴衣に着替えておいてください」
異様に歩いた気分の後に、少年はニコリと笑って促した。
「あ、行燈は中にありますので、火はこちらを使ってください」
「でも、これを俺に渡してしまっては、君が暗くて困るんじゃないのか?」
「大丈夫です。ボクはここで暮らしてますから、明かりがなくても壁に手を付けていれば迷いませんから。では、今食事を見繕って来ますので、期待をせずにお待ちください」
深は、少年から素直に灯りを受け取って心からの感謝を口にした。
◆
深は部屋の中に入ると、夜具の傍にある行燈に火を灯し、商売道具の薬箱を置いた。直後。
《やっとカイホーされたぜ!!》
深の懐から勢いよく影が飛び出した。
それはこっちの台詞だと胸中で呟きながら浴衣に着替える深の視線の先で、のびのびと極採色の羽根を広げたのは、烏ほどの大きさの人語を解する鳥だった。
《まったく、ホントにヒドイめにあったぜ》
「よく言うよ」
と言う呟きは、不満をぶちまけてうろつく
《ウワアアアアアア!!》
「ぐっ」
嘴が背中に突き刺さる勢いで縁がぶつかって来た。挙句、爪を立てて背中にしがみついて来るから堪らない。
「痛い痛い痛い。痛いから、縁。爪を立てるな。何があった。あんまり騒ぐな」
背中に手を回して引き剥がし、胡坐をかいた膝の上に乗せて叱れば、紅玉の瞳を涙で潤ませて縁は告げた。
《こ、ここ、ダイジョーブなのか?》
「何が」
《あ、アソコ。あのカベの下に、ニゲロって》
「は?」
言われて深は腰を上げ、ギューッとしがみついて来る縁を支えながら壁まで近寄ってみた。
確かにそこには、『タスケテ』『ニゲロ』と小さく刻まれていた。
だとしても、掃除をすれば誰でも見える場所に書かれているものを、あの少年が放置しているものだろうかと訝しむ。
《な、なぁ。ココってもしかして、あのウワサの『アメの日にあらわれるヒトクイ村』なんじゃないのか?》
「…………」
《なんでソコで『ちがう』ってソクトーしないんだよ!》
「何でって」
と言い返そうとした時だった。
「失礼します」
声を掛けられた瞬間。反射的に深は縁を寝具の中に押し込んだ。
「どうぞ」と促せば、食事を持って来た少年は、部屋の隅にいる深をじっと見つめた後、にこりと微笑んでこう言った。
「あ、もしかしてその落書きですか? 村の小さい子たちが旅人さんたちを怖がらせようとして、いつもいつも懲りずに書くんですよ。怖がらせてすみません。でも気にしないで下さいね。何もありませんから。さ。温かい食事をお持ちしました。お口に合うかどうかわかりませんが、お酒も少し。これで暖まったら、今日はゆっくりとお休みくださいね」
その申し出に、深は一言ありがとうとだけ返した。
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