第9話 あわや九死に一生を


「バナ、避けろっ!」


 その声をアンリは空中で聞いた。何が起きたのか分からなくて悲鳴すら上げられない。エルに腕を引かれて半分投げるように引きずり出されたのだ、と理解したときには、すでにエルに抱き止められていた。

 背後で木材が割れる音と、バナの悲鳴がかすかに聞こえた。


「何……? 何が起きてるの?」

「モンスターだ」


 エルの声色が変わっていた。アンリにはめったに聞かせることのない冒険者の声。


「バナ! そのまま動くな! そいつは動きに反応して攻撃してくる! 動かなければ平気だ、じっとしていろ!」


 よく通る声が森に響いた。彼の手のひらの中に金色の光が生まれ、そこからいつも腰に提げている剣が出てくる。

 アンリの肩を掴んでいた手が、鞘を払うためにいったん離れた。アンリはエルの胸に頬をくっつけたまま、じっと固まっていた。エルが息をする。胸が大きく膨らんで、ぎゅううとしぼんで、冷たい吐息がアンリの髪を揺らした。

 エルが剣を振りかぶったのが分かった。

 その状態でもう一度胸が大きく膨らんで、今度はそこで止まる。背中に回されている腕まで一回り太く膨らんだような気がした。胸と腕に挟まれて、アンリはますます身を固くする。苦しいわけではない。けれど、どうしてだろう、息がしづらい。心臓の音が聞こえる――いや、これはエルの心臓の音だろうか?

 その疑問に答えるために耳を澄ませようとしたときだった。

 エルの上半身がねじられて、


「――フッ」


 一陣の暴風が頭の上を吹き抜けた。

 直後、ほぼ間髪入れずに、何かが大破する音が響き渡って。

 ――静寂。


「……よし。アンリ、もう大丈夫だ」


 エルの声音が元の緩さに戻っていた。最も安全な場所にいながら、恐ろしい風圧を感じて身をすくませていたアンリは、強く瞑っていた目をようやく開けた。


「もしかして苦しかったか?」

「ううん、平気」


 アンリが首を振ってみせると、エルはほっとしたように頬を緩めた。いつものふわふわな笑顔が、いつもよりいっそう柔らかく見える。

 エルはアンリを離し、魔法で剣を呼び戻して鞘に納めた。アンリが振り返って見ると、バナの家の壁と天井には大穴が開いていた。もはや半壊と呼んで差し支えないような状態である。


「バナ、無事だろう?」


 エルが声を掛けると、少し間を置いて、バナがよろよろと顔を出した。


「無事とは言えねぇよ。生きてるけど」

「生きてるなら無事だよ。怪我は」

「最初のがちょっとかすったくらい」

「それならよかった。治療は出来るか」

「出来る」


 むくれた顔になったバナに向かって、エルははっきりと言った。


「これで、君の母親もすぐに目を覚ますよ。魔力補充薬ポルトを飲ませてやれ」

「っ……分かった!」


 バナは素早く踵を返して、半分崩れた壁の向こうに消えた。


「モンスターが原因だったんだ」

「ああ。人に取り憑いて魔力を吸い取るタイプのモンスターがいるんだ」


 アンリに答えながら、エルは家に向かって手をかざした。蛍のような金色の光がいくつも飛んでいき、壊れた壁を包む。


「擬態型の一種で、一人を殺すとそのまま死体に潜伏して、次の獲物を待つ。実体は霧状で不定形だけど、人形に吸い込まれる性質を持っているから、取り憑かれたら人形に移して倒すんだ」


 めったに会うことはないんだけど、とエルが続ける。その間にも魔法は絶えず注がれて、割れた木々や砕けたガラスがひとりでに浮かび上がってはくっついていく。


「初期症状が“魔力漏れ”と似ているから、気が付かずに魔力補充薬ポルトを飲んだりすると、体内でそいつを育てることになる。それで、内側から殺されたりするんだ」

「とんでもない罠だね、それ」

「そう、だから危険なんだ。《ラストオーダー》なんかうっかり飲んでしまったら、手の付けられない怪物が生まれかねない」


 エルが《ラストオーダー》をしまってあるポケットを軽くつついた。そのころにはもうバナの家は元の姿に戻っていた。

 アンリがエルを見上げる。


「ありがとう、エル。エルが一緒に来てくれるときでよかった。もし私だけで来てたら、間違いなく死んでたと思う」

「……君に怪我がなくてよかった」


 エルが噛み締めるようにそう言って、軽くかがんだ。目線が揃う。目が合う。やっぱり綺麗な瞳だ、とアンリはいつものように思う。こうやって話すときに一番綺麗になる瞳。

 その目に疑問符が浮かんだ。


「けれど、どうしてこんなところにモンスターがいたんだろうな」


 アンリも一緒になって首を傾げて、


「あ。もしかして、《ピックホール》が崩れたせいかな」


 エルが目を丸くした。


「あそこ、ついに崩れたのか?」

「うん。コルビックさんが言ってた。そのせいで薬草の採集場が荒らされて、困ってるって」

「じゃあ、そのせいだな。ここから《ピックホール》なら大した距離じゃない」


 ふいに、家の中から「母ちゃん!」とバナの声が聞こえた。それからパタパタと駆けてくる足音。

 直ったばかりの扉を蹴破るような勢いで飛び出てきたバナは、顔中に満面の笑みをたたえていた。


「母ちゃん、目ぇ覚ました! 目ぇ覚ました!」


 やったぁ、と空中を飛び回るバナを見上げ、アンリは顔をほころばせた。

 バナがその鼻先に急降下してくる。


「ありがとう、アンリ。本当にありがとう!」

「ううん。お母さんが助かってよかった」


 にっこりしたバナが、急にその顔をしおれさせた。


「……万引きなんかしてごめん。代金は、その……頑張って働いて、いつか絶対に返すから」

「うん。いつでも――あ、そうだ」


 アンリはふと思いついた。


「よかったら、うちで働かない?」

「えっ」

「朝早いんだけど……あの忙しい時間が一人だとちょっと大変なんだよね」

「ああ、それはいい案だな」


 とエルが頷いた。


「素晴らしい魔法の腕を持っているから、用心棒にもなれるだろう。サダに話しておくから、少し鍛えてもらうといい」

「とりあえず魔力補充薬ポルト四本分だけでも。そのあと続けるかどうかは相談、って感じで、どうかな」

「……いいの?」

「バナがよければ」


 バナは縮めた肩を小刻みに震わせて、目の縁に涙をためて、少しの間我慢するようにしていた。が、やがて、


「ありがとう、アンリ!」


 とアンリの首筋に抱きついた。すっかり涙声になっている。


「俺っ……俺、アンリのためにめっちゃ頑張って働くから! ほんとに、ほんと、……っ、めっちゃちゃんと働くよ!」

「うん、よろしく」


 少年らしい素直さだ。アンリは微笑ましくなって、バナが落ち着くまでその小さな頭を撫でていた。その二人をエルが微笑ましげに――というにはやや複雑すぎる表情になっていたが、無論誰もそんなことには気が付かず――見つめていた。

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