第8話 とびきりはやい八分間

 倉庫の一番奥、めったに開けない箱を開ける。


(――あった。《ラストオーダー》)


 金色の液体に満たされた小びんを、アンリはしばらくじっと見つめて、ちょっと眉をひそめた。それから両手で慎重に持ち上げる。特殊な保護がかかっている小びんは思い切り投げつけたとしても割れやしないが、気分的な問題だ。

 店に戻ると、バナがすがりつくような目でアンリの手元を見つめた。


「それ……」

「うん。《ラストオーダー》だよ。でも――」

「でも?」


 不安げに聞き返したバナをなかば無視するような態度で、アンリは首を傾げた。


「……やっぱり、光ってないんだよね。必要とされてないみたい」

「彼じゃなくて彼の母親が必要としているんじゃないのか」

「うん、そうかもしれないから一応持っていこう。エルが持っててくれる?」

「ああ、分かった」


 エルはすべて承知しているかのように、何も聞かずアンリから小びんを受け取った。


魔力補充薬ポルトと応急セットと、あとは……」


 バナのことを考えながら店内を見て回る。――と、


「人形?」


 キラキラ光って見えたのは、小さな女の子の人形だった。


「はい、これ持ってて」

「え、何だよこの人形」

「君のラッキーアイテム」


 ほら、持って。と押し付けられて、バナは目を白黒させながら人形を抱えた。


「何に使うんだ?」

「さぁ?」

「さぁって……っていうか、あんたらどこに行くつもりなんだよ」

「君のお母さんのところに」

「えっ?」

「治せるかどうか、《ラストオーダー》が本当に必要なのかどうか、見てみないと分からないでしょ。そういうわけだから、案内よろしく」


 にっこり笑ってみせたアンリに、今度はバナが言葉を失った。


「ここから遠いか?」

「えっ、あ、ああ」


 エルに聞かれて、バナはわたわたと頷いた。


「だいぶ遠いぞ。俺が全速を出せば五、六分で着くけど……人間種フッツの足じゃ丸一日はかかる」

「じゃあ俺が走ればいいな。アンリ、念のためにゴーグルを着けてくれ」

「了解」


 アンリはカウンターの裏から風よけのゴーグルを取り出して頭から被った。

 まだあまり理解していないような様子のバナを店から押し出して、鍵を閉める。

 エルが軽く足を伸ばした。


「少しだけ速度を緩めて飛んでくれ、バナ」

「お、おう。俺はそれでいいけどさ……」

「方角は?」

「西」

「よし、じゃあ行くか」


 そう言うと、エルはひょいとアンリを抱え上げた。


「落とすことはないけど、一応掴まっておいてくれよ」

「うん」

「舌を噛んだらいけないから、口は開けないように」

「分かった。よろしく」

「おう、任せろ」


 横向きに抱え上げられた状態だと、ふわふわの笑顔はいつもと違うアングルになって、いつもよりぐっと近付く。新鮮だなと思ったとき、アンリは自分がちょっと戸惑うのを感じた。エルが前を向いてくれて謎の安堵を覚えたくらいだ。そしてその安堵が本当に謎でしかなくて首を傾げ、エルの肩に頭を預ける。こうやって見ると、顎の線がシャープで美しいことが改めてよく分かる。Tシャツの襟ぐりから覗くのは鍛えられた人の首筋だ。自分の体を軽々と支える腕は、見た目よりも太いように感じられる。

 ふいにエルの目がこちらを向いた。


「アンリ」

「うん? 何?」

「信頼してくれるのはありがたいけど、掴まらなくって平気か? 結構スピード出るぞ」

「絶叫系平気なんだよね、私」

「ぜっきょうけい?」

「いや、なんでもない」


 アンリは適当にはぐらかして、エルの首に腕を回した。


「よし、出発だ、バナ」

「……はいよー、行くぜ!」


 なんだかやけっぱちのような声を上げて、バナが飛び立った。それに一歩遅れて、エルが地面を蹴る。

 アンリは思わず悲鳴を上げそうになったのをぐっと堪えた。かつて味わったあらゆる絶叫系を簡単に超えるスピード! レールのない空を走っていく爽快感! エルの肩越しに見えていた景色がぐんぐん遠のいていく。耳元を風がごうごうと切り裂いていく。


(すごい! 速い!)


 本当は思い切り叫んで楽しみたいところを、エルの鼓膜のために我慢する。

 しばらくして、


「あの森の真ん中だ!」

「了解!」


 エルが徐々に速度を落としていき、やがて目的地に立ち止まった。アンリは詰めていた息を吐き出した。


「到着だ。大丈夫か、アンリ――」

「すっごい速かった! すごいねエル! あんなに速く走れるなんて!」


 思わず興奮気味に言い放ってしまうと、エルが目をぱちくりさせた。


「怖くなかったのか?」

「全然」

「そっか、それならよかった」


 と、エルがアンリを下ろしながら続ける。


「あんまりしっかりしがみついてくるから、怖がらせたと思ってた」

「ごめん、苦しかった?」

「まさか。君の腕力で俺の首が絞まるもんか」

「ああ、それはそうだね」

「さ、急ごう。バナ、どっちだ?」


 バナは空中に浮かんだまま「こっち」と背を向けた。


 そこからもう少しだけ奥まったところにあるツリーハウスがバナの家だった。大きな二本の木の枝と枝が交わるところに、小さな円形の家がちょこんと乗っている。高さはちょうどエルの頭の位置と同じくらいだ。空を飛べる妖人種タタンスの家なので、当然ながらはしごの類いはない。


「これ、俺は入れないな」

「私も無理かな?」

人間種フッツなら平気だぜ。それぐらいの強度はある」

「じゃあお邪魔するね」


 アンリはエルに持ち上げてもらって、バナの家に潜り込んだ。

 中は不思議なにおいがした。悪臭というほどではない。何種類かの薬草を煎じたにおいに、なんだか油っぽいようなにおいが混ざっている。


「母ちゃん、母ちゃん……」


 即座にベッドへ駆け寄ったバナが、人形を放り出して母親の体を起こした。小さなグラスに移した魔力補充薬ポルトを飲ませる。

 母親の状態を見て、アンリは顔を歪めた。酷い。妖人種タタンスはもともと生命力と同時に羽の色を失っていくものだが、彼女の羽はほとんど見えないほど透明になっている。呼吸は弱々しく、いつ途絶えてもおかしくないほどに見えた。


(これは……やっぱり《ラストオーダー》しかないのかな……)


 必要とされているなら見えるはず。アンリはうっかり立ち上がってしまわないように気をつけながら反転して、家から顔を出した。


「エル、《ラストオーダー》を見せて」

「ああ」


 ポケットから取り出された小びんは、木漏れ日を浴びて輝いている。けれどそれは特殊な“キラキラ”ではない。


「うーん……やっぱり違うみたい」

「そうか。それじゃあ、もしかしたら“魔力漏れ”じゃないのかもしれないな」

「可能性はあるね」

「一度医者に連れていこうか」

「うん、そうしたほうが――」


 突然、背後から「うわっ!」とバナの悲鳴が聞こえて、アンリは振り返った。


「どうしたの?」

「あんたがくれた人形が……っ!」


 見れば、確かにそれはアンリが渡した人形だった。それが宙に浮かび、何やら黒っぽい霧のようなものにまとわりつかれている。


「何あれ」

「知らないのか?!」

「知らないよ。だってあれは何の効果もない、ただの人形だから」

「じゃあ何なんだよあれは!」


 混乱しきった様子のバナに問い詰められても、知らないものは知らないのだ。


「どうかしたのか?」


 外からエルに問われて、アンリは再び振り向いた。


「バナに渡した人形があったでしょ。あれの様子がおかしいんだ」

「おかしいって?」

「なんか宙に浮かんでて、黒い霧みたいなのが出てる」

「黒い霧……人形……っ!」


 一瞬考え込んだエルが、はっとしたように顔を上げた。


「バナ、避けろっ!」






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