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 その電話があった日のあと、また彼は学校に姿をみせなくなった。来たとしても数日おきで、しかもやはり私を避けている。

 こちらからの電話にも出ない。補習をやりすごしたから、もう用済みということなのだろうか? 警察からの電話もかかってこないところをみると、最悪の事態はまぬがれたのだろうが。

 数日逡巡したすえ、私は彼の家を訪ねてみることにした。日曜の夕方ならさすがに誰かは家にいるだろう。彼とその……話がわかりそうなきょうだいならいいのだけれど。

 ラッセル氏の家は最初に彼の兄――何番目かはわからない――と遭った場所の一ブロック先にあった。

 左隣の敷地を一軒分更地にして、その半分がカーポートになっている。彼の家もその両隣も、ブロック全体の芝生があまりきれいに刈り込まれておらず、右隣の家のカーテンはまだそれほど暗い時間でもないのに中途半端に閉められていて、住んでいるのかいないのかよくわからなかった。

 やたらと駐車スペースが広い以外は、ラッセル家はふつうの二階建てのうえに屋根裏部屋があるつくりで、おそらくベッドルームが五つ以上、バスルームが三つ以上あることはないだろうと思われた。成人男性が六人も同じ屋根の下にいるとはちょっと考えにくいのだけれど……別宅でもあるのだろうか?

 ガレージのシャッターは開いていて、その前にあざやかなメタリックブルーのフォードのピックアップトラックが停まっていた。ジャッキアップされているので修理中なのだろう。確実に誰かはいるということだ。

「こんにちは――ミスター・ラッセル? どなたかいらっしゃいませんか?」

 ガレージに向かって呼びかけると、足下でガラガラという音がして、車の下からディーンが顔をのぞかせた。

 私を見上げて、太陽に目を射られたみたいに眉間にしわを寄せる。

「誰かと思ったら……あんたかよ」

「やあ」

 彼はめんどうくさそうに、ローラーのついた作業台から立ち上がり、黒く汚れた両てのひらをジーンズの腿にこすりつけた。その頬にもTシャツにも、グリースでこすったようなあとがついている。この時期だというのに相変わらず薄着で、風邪でもひきやしないかと心配になるほどだ。それともやはりろくに……。

「元気そうで安心したよ。お家の人はいる?」

「全員出払ってるよ」彼は唾を吐いた。

「いたとしてもあんたと話はしない」

 それならそれでしかたがない。

「このあいだの件だけど……」

「……あんたの言うとおりにしたよ」彼は恨めしそうに言った。「これで俺は兄貴たちを裏切ったことになったんだよ……自分だけ安全なとこにいてな」

「お兄さんは警察につかまったのかい……?」

 彼は首を横にふった。

「んなヘマするかよ。できるだけサイレン鳴らしてきてくれっていったんだ……おっかねえやつらがたくさんいるからって。ケーサツもアホだよな、それじゃ、首輪に鈴つけた猫じゃねえか。兄貴はすぐに気づいて逃げたよ。あとで、こんな大変なときにお前はどこにいたんだってしこたま殴られたけど」

 十字を切りそうになる手を止める。

「それは……つらかったろうね。体は大丈夫なのかい?」

「まだ息するとアバラがいてえけど――んなこたどうでもいいんだよ」昏い両眼に突如として怒りの炎が灯る。

「マジで疫病神だぜあんた。あんたと出会ってからろくなことがねえ。ギルの兄貴はめんどうばっかかける俺にキレてるし、ロジャーの兄貴でさえ俺が腰抜けだと思ってる。的だぜ――だから坊主なんかと関わり合いになりたくなかったんだよ」

「君は臆病者なんかじゃないよ」私ははっきりと、ゆっくりした口調で言った。


 もしあなたが悩みの日に気をくじくならば、

 あなたの力は弱い。

 死地にひかれゆく者を助け出せ、

 滅びによろめきゆく者を救え。

 あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、

 心をはかる者はそれを悟らないであろうか――


「正しいことをするのは臆病なのとは違う。お兄さんたちだってそのうちわかってくれるはずだ」

 できれば、彼らがそれを理解してくれるのをのんびり待つより先に、この末弟を誰か信頼できる大人――親戚か、あるいはきょうだいの中でも比較的“まとも”だという人と一緒に生活できるようにはかってやるべきだと思うのだが……。

「兄貴にはゼッタイわかんねえよ。兄貴は――じゃねえもん」

「それは――」ひどい言いかたではあるけれど、あまり責める気にはなれない。

「それでも、希望はある。人は変われるものだからね」

「知ったふうな口きくんじゃねえよ。あんたになにがわかんだよ」

「君はお兄さんとは違うだろう」

「……ああ。違うよ」どこかなげやりな口調で視線をはずす。

「だったら、君はになれる。実際……」

「――違う!」

 彼は絶叫した。

「俺は兄貴たちとになりたいんだ! ならなきゃいけないんだよ!」

 その心理にはおぼえがあった。忠誠心だ。善悪にかかわらず、自分の所属する集団に対する。それが国家に向けられたものであろうが、暴走族モーターサイクル•ギャングの仲間意識であろうが。本来なら称えられるべき美徳が……。

「ほんとうに同じになりたいのかい」私は静かに話しかけた。「それなら私なんかに電話をかけてくることはなかったんだ。でも君はかけてきた。私だって聖人じゃない。お兄さんはさておき、君にはつかまってほしくなかったんだ。だからそので――もし君が、少なくとも、お兄さんに殴られるような環境からどうにかして抜け出したいと思っているなら、なにか力になれるかもしれない。児童保護局に相談して――」

「てめえがひとりで行きゃいいだろ」

「ディーン――」

「うるせえ、気安く名前を呼ぶんじゃねえよ。俺はあんたの飼い犬じゃねえんだ」

 彼の機嫌と連動するかのように、空が曇ってきていた。

「あんたと話してるとイライラする。さっさと帰れよ。兄貴たちが帰ってきたら、今度こそあんたられるぜ――んで、トランク行きかもな」

 きびすを返して家の中へ戻ろうとする。

 そのときどうしてそんなことをしたのか自分でもわからない。私は彼の肩に手をかけて止めようとした――ひきとめて次になにを言おうか考えてもいなかったし、断りもなしに他人に触れることなんてまったくといっていいほどなかったのに。

 彼は感電でもしたみたいにびくっと身を震わせて、ふりむきざまものすごい目つきで私をにらんだ。

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