2-3

「俺に構うなっつってんだろこのクソ坊主、死にてえのか!」

 ――あ、と戸惑ったような声をあげたのは私ではなくて彼だった。

 頭痛でもこらえているかのように頭を掻きむしる。と、髪が逆立ち、うなじからこめかみから、みるみるうちに黒い髪がたてがみのように伸びていき、顔から首筋までを――その先は服に隠されているので見えない――覆ってしまった。

 驚いて言葉も出ない私を前に、変化はどんどん進んでいく。長袖のTシャツから出ている手首から先はびっしりと黒い剛毛が生え、しかし手そのものは人間だ。半インチはありそうな太く尖った爪を備えていたとしても。

 少しして、はあ、と息を吐いた口からは、人の歯列の代わりにずらりと並んだ尖った牙がのぞいた。

 悪魔祓いエクソシズムのときに口汚くののしられるのにも、人の表情かおが平素からは想像もつかないほど醜くゆがむのにも、ある程度までは慣れたと思っていたけれど……まさか大がかりな手品でもあるまいに、ふつうの少年がここまで姿を変えるとは……。

 こちらに向けた顔は、人間としてしかるべき位置にあるはずの耳殻が失せて、ふさふさした三角形のそれが、犬のように頭の上方に位置していた。眉も、鼻も、唇も黒い獣毛に隠れ、顔立ちは鼻口部マズルの短い犬種――トイ・プードルやテリア、あるいはレトリーバーの仔犬のようだ。しかし、極めつきは、鬼火のように輝くその黄色い双眸

「……これでわかっただろ」

 ディーンの姿おもかげを残した――犬?――はしゃべりにくそうに言葉を発した。

「俺はまともな人間じゃねえ。狼の一族なんだよ。いわゆる狼男ってやつ。だからもう――ほっといてくれよ」

「……君はまともだよ」私はほとんどあやつられるように口にしていた。

「フカシこくんじゃねえよ」黄色い両眼が地獄のように燃えあがる。

「どうみたってまともじゃねえだろう。人間でもねえし、ちゃんとした狼にもなれねえし――いい加減なこと言ってるとマジでブッ殺すぞ。そのぐらいは朝飯前なんだからな」

「だって君はあのとき私を庇ってくれたじゃないか。それに、しつこく話しかけても暴力をふるったりはしなかっただろう?」

「……」

 剣呑な光がいくらかやわらいだ。

 硬い殻の中のやわらかい種、闇の中の灯火ともしびのように、善なるものはたしかにあるのだ。

「あれは単に――めんどくさかったからだよ。またケーサツ沙汰になったら兄貴は俺をイケニエにするに決まってるし、あんたは飯をおごってくれたし……」

「なにもしていない君を、身代わりに警察に突き出すだなんてそんな……」

「それがだよ。俺が一番よええから、群れのためにギセイになるのはあたりまえなんだ」

 そう口にしたときの彼のは奇妙に澄んでいたが、口調にはそれと裏腹なものが含まれているように感じた。

 ――やはりこんなところに彼をおいてはおけない、と思う。なにか言え、そのあいだに考えろ、できないわけがないだろう、ふだんあれだけ祭壇の上で説教しているんだから、こんなときにそのを使わないでどうする。

「君が、ええとその、“群れ”のためになりたいと思っているのはわかるけれど、ほかに方法があるはずだ。だってこれまでの話を聞いていると、お兄さんは気まぐれに君に暴力をふるっているみたいだし、それでもし、死んでしまう……ようなことがあれば、それこそ無駄死にというもので……群れのためにはならないだろう」

「……」

「だからさっきの話だけれど、児童保護局が嫌なら、一時的にその、ほかの人と暮らすことを考えてもいいと思う。生活費を出してくれるお兄さんは仕事をしているんだろう? その人と一緒に……あるいはほかの親戚でも……。私ではだめだというなら、校長先生から話をしてもらってもいい。君がお兄さんから肉体的な暴力を受けたことは私が証言できる、そのせいで学校を欠席せざるを得なかったということも……」

 彼は疲れたように頭をふった。

「兄貴も群れの一員メンバーだから、離れては暮らさないよ。親戚はいるけど全員人狼だから、できそこないの俺をメンバーにするやつなんかいない」

 鼻先に水滴を感じて空を見上げると、どんより曇った空からついに雨が降ってきた。

 彼は目をらして、じれったそうに足を踏み鳴らした。冷たい雨をふり払うように頭を揺り動かす。

「……なあもういいだろう、マジで帰ってくれよ、あんたにここにいられるとマズいんだ。あんたにカンケーないんだからさ」

「関係ないわけないだろう!」

 ディーンが、びっくりしたようにこちらを見た。

「いやその……一度は身元保証人になった縁があるし……きっとほかに……」

 それ以上言うな、という声がどこかで聞こえたような気がした。これ以上深入りしてはならない、なぜならお前は……。

 

 愚かな者のくちびるは争いを起し、

 その口はむち打たれることを招く。

 愚かな者の口は自分の滅びとなり、

 そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。


「……ムリだよ。兄貴はゼッタイ許さない。俺は群れにいたいんだ。俺の家族なんだよ。ほかにどこ行きゃいいんだ。行くとこなんてない。俺にどうしろっていうんだ。ひとりになるなんて――嫌だよ……」

 彼が泣いているのか(雨のせいで)よくわからなかった。ただ、狼の耳がぺたりと伏せられて、それから、雨に流されてロウが溶けるように人の姿に戻ってゆく。

「じゃあ私のうちに来なさい」

 思わず命令口調で言うと、彼ははじかれたように、赤くなった目を丸くして顔をあげた。

「……あんたの家?」

「私の家というか、教会だけど。部屋がひとつあいている。そこから学校に通えばいい。落ちつくまで」

「……そんなことできんの?」

 たぶん、と口にしそうになったのを呑み込む。

 ――主よ、私にできるでしょうか?

 あなたが空腹のときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、獄にいるときに訪ねることが?

 けれども、寄る辺のない幼子のようにこちらを見つめる狼の仔を前にしては……。

 私が黙ってしまったからだろう、ディーンはちょっとうなだれた。

「……やっぱムリだよ。いくら俺がお荷物でも、坊主の家なんかに厄介になったら群れのプライドにかかわるって――きっと兄貴は怒ってあんたを……」

「私をなんだと思っているんだい」

 こんな衝動的な行動をとってしまったことへの驚きと反省と誰に対するでもない言い訳とそれからなにかよくわからない感情を、意識のすみへ無理やりに押しやりながら言った。

「人狼ごときにびくついていたら、神父はつとまらないよ」

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