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 その日以降、彼は私を避けた。としか思われなかった。学校には来ているのに、一度も姿を見なかったからだ。授業中に呼び出すわけにはいかないから、終業を見計らって行ってみても、すでに影も形もない。死のように避けられている、というのはこういうことをいうのだろうか。

(でもまあ……授業に出席するようになったのは、いい傾向なんだろうな)

 教会の仕事と予算の関係で、ほとんど隔日でしか学校には来られないから、彼の番人でいるわけにもいかないのだが……。

 だから、出くわしたのは偶然といってよかった。シルヴェストル教諭の教科準備室から出てきたところに行き遭ったのだ。

 向こうにとっても想定外だったのだろう、私の顔を認めるとぎょっとしたような表情になった。しかし次の瞬間には憎々しげに眉根を寄せて、

「あんたはジャーマンシェパードかなんかか? ひとのケツを嗅ぎまわるのはやめろよ」

 ……面白いたとえをつかう子だなあ。

「シルヴェストル先生に用事?」

「……」

 彼は答えなかったが、表情から、なにか不本意なことを言われたのだろうと察しがついた。

「このままだと落第だFをつけるとでも言われた?」

「……うるせえなあ」目には光があるが語気は少し弱い。「出席日数が足りねえって言うだけなのに、二十くらいワケのわかんねえ嫌味を言うんだよあのクソジジイは。だから肝心なことが……えーとなんだっけ……ああそうだ、今度の補習とテストで七〇点以上とらねえとマジで放校クビだって――」ちょっとうなだれる。「……やべえ、兄貴に殺される」

 あながち比喩表現とも思われなかった。

「殺されるって……このあいだ君を殴った人に?」

ちげえよ。なほう。怒らせるとこええんだよ」

「そのお兄さんに勉強を教えてもらうわけにはいかないのかい」

「できるわけねーだろ! 兄貴が出してくれんのは金だけだもん。家にいると家の仕事を手伝わなきゃならないから、んな時間ねえし……。ただでさえ兄貴はし……しごとが忙しいのに、俺がこんなめんどうごとを持ち込んだらその場で半殺しだよ」

 私はため息をついた。

「なああんた――この前、兄貴に追いつきたいならなにか方法があるかもって言ってたよな。あんたこのガッコにつとめてるんだし、シルヴェストルの野郎の机からテスト用紙とか盗み出せねえ? 俺マジでヤバいんだよ」

「力になってあげたいのは山々だけど、そんなカンニングチートを許すわけないだろう」

 舌打ちと、「つかえねーやつ」という小さなつぶやきが聞こえたが、こちらを見上げた眼には不安の色がうかんでいた。

「詳しい状況がわからないからなんともいえないけど――なにかできることがあるかもしれない。よかったらカウンセリングルームにおいで」


 彼は意外なほどおとなしくついてきた。相当追いつめられているのかもしれない。

 パイプ椅子の上で膝をかかえている姿は小さな子供のようで――弟を思い出した。

 ……いや違うな、弟はもう少し大人びているし、私や両親のあとを追っているときも、こんなふうに、迷子になったみたいな表情かおはみせなかった。

 おかしな話だが、いつだったかテレビのドキュメンタリーで見た、保護施設で新しい飼い主が現れるのをずっと待っている犬たちの映像イメージが脳裏にうかんだ。

「……なあ、こんなときになんなんだけどさ、なんか食うもんねえ? 心配してたらよけい腹減ってきた」

「すまないが今日はなにもないよ、休み時間に来た子たちにあげてしまったから」

 それを聞いて彼はほんとうにしょげかえったので、なんだか、かわいそうに思うのと同時に可笑おかしくなった。

「さっき、補習のテストで七〇点とらないとと言っていたよね?」

 またあの甘いコーヒーでも淹れようかとコーヒーマシンをセットする。

 こうした行動ことのすべてを私は師父から学んだ。

「……ああ」コーヒーの香りにぴくりと鼻をうごめかせる。そしてまたお腹が鳴った。

 彼の英語の成績はぎりぎりCマイナスだ――形容詞と副詞の区別がつかないって本当だろうか?

「私でよければ協力するよ。出勤している日の休み時間や放課後にカウンセリングルームここに来てくれれば、勉強を教えてあげられる」

 差し出したマグカップを受け取るのに彼は躊躇ちゅうちょした。

「……あんたに借りをつくるのはなんだよ」

「私が神父だから?」

 ディーンはうなずいた。……彼の家は原理主義ファンダメンタル無神論エイシズムなのだろうか?

「前にも言ったけど、私はカウンセラーでもあるんだ。この際だから、使えるものはなんでも使ったほうがいいと思うけどね。お兄さんのことはさておき、高校をドロップアウトするかしないかは、この先の君の人生に少なからず影響があるはずだ。たとえ今ははっきり理解できなくてもね。世の中には、あとからでないと知ることができないことがいくつかある。そしてそのときにはすでに遅いということもある。私の言っていることもそのひとつだよ」

「……やっぱ説教臭え」唇を尖らせる。

「そう、それじゃあ耳に甘いことでも言おうか。真面目に勉強するって約束するなら、サンドイッチでもドーナツでもなんでもいいけど、君の分まで食べるものを持ってきてあげるよ」

「――マジで?!」彼は文字どおり椅子の上で飛び上がった。仔犬みたいなきらきらしたでこっちを見つめる。

 ……ほんとに現金な子だなあ。ここまですなおな反応をされると、こちらが彼の弱味につけこんでいるみたいな気になってくる。

「ああ。嘘はつかないよ」

 それでも彼は少しのあいだ、マグカップと私に交互に視線を送っていたが、

「……わかった」と言った。

「俺だってお――男だから、なんだろうと、戦わずに尻尾巻いて逃げ出すなんてカッコ悪ィもんな。で、明日からでいい?」

「なにを言っているんだい?」私は心をにして言った。「今からに決まっているだろう」


 二時間がすぎて、窓の外が夕闇に覆われるころには、すでに彼は恨めしそうな顔つきで私のことをねめつけていた。原因は憎悪というより……空腹だろう。

明後日あさっても来るんだよ」

「……わかってるよ、うるせーな」初めのときよりさらに語気が弱い。

 私はメモパッドをちぎって彼に渡した。

「なにコレ」

「私の電話番号。なにか困ったことがあったらかけておいで」

「困ったことがあればっつーか、今困ってんだけど。すげえ腹が――」

 そのとき彼の携帯電話が鳴った。

 画面を見たディーンの表情が一瞬にして、緊張を帯びたものに変わる。

「どうした?」

「なんでもねえよ――またな!」

 彼はそのまま、カウンセリングルームのドアに体当たりするようにして走って出ていった。

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