1-3

 彼――ディーンは、小柄なのに足が速かった。パーカーのポケットに両手をつっこんで、うつむき加減ですたすた歩いていく。こちらから逃げたくて足を速めているという感じでもないのに。彼と並ぶには大股で歩かなければならなかった。

 先刻話に出たお兄さんのことや、こんな時間まで外にいても家の人は心配しないのかなど水を向けてみても、返ってくるのは「うるせーな」か「あんたにカンケーねえだろ」、しまいには「あんたが退屈だからって俺にしゃべらせようってのかよ、このクソ坊主!」と言われてしまった。……主よ、修養の足りないばかりに彼に扉を閉ざさせてしまった私を赦したまえ。

 店から出て一時間ほど歩いただろうか。彼の家の住所は警察から聞いていたが、大通りを通らずあちこち曲がったり戻ったりしたせいで、自分が今どこにいるのか正確にはわからなくなっていた。

(やれやれ、これは帰りはタクシーだな)

 あたりは住宅街というより、ガレージや作業場を併設している半商業地域のようだった。もう十一時を回っているので、すべてシャッターがおりている。

 ガタン、と音がしたのでそちらを見ると、犬――かアライグマ――がゴミ箱を倒して闇の中へ逃げていくところだった。

 ディーンが突然、街灯の下で足を止めた。ポケットに入れていた手を出して、怯えたように直立不動になる。目はまっすぐ前を向いたまま大きく見開かれている。

「……兄貴?」

「――え?」

 街灯と街灯のあいだの暗がりの中から音もなく――ごつい編み上げのブーツを履いているのに――現れたのは、体格のいい青年だった。六フィート二インチ〔186㎝〕はあるだろうか、私より頭半分は高いから、ディーンがまるで子供のように見える。軍の払い下げ品のフライトジャケットをひっかけた上半身は、バーの用心棒みたいだ。

 無表情な灰褐色の瞳とむっつりと結ばれた唇がディーンを見下ろしている。

「遅かったな」

 あいさつをする暇もなく彼は言った。

「こんな時間までどこほっつき歩いてたんだ。ロジャーのやつが電話しても出ねえしよ」

「……バッテリーが切れてたんだよ」ディーンがおずおずと言った。「サツにとりあげられちゃったから充電できなくて。家に電話したって言ってたけど……」

「出られるわけねえだろう、この馬鹿。俺らが今日どこにいるかお前わかってんだろうが」

「……ああ、うん、ごめん……」

「ミスター・ラッセル、あのですね――」

 瞬間、彼は目にも止まらぬ腕のひと振りで弟の顔面を殴り飛ばした。ディーンは吹っ飛ばされて街灯の柱に頭をぶつけた。

「――な、いきなりなんてことを……。大丈夫か?!」

 駆け寄って膝をついて様子をみようとすると、ディーンは私の手を邪険にふり払った。派手な音がしたから、気絶するか脳震盪を起こしていておかしくないだろうに!

「無理して起き上がろうとするんじゃない。――ラッセルさん、弟さんを連れ回していたのは私です。警察署から出たあとにご連絡を差し上げるのをつい失念していて――」

「――おいディーン、こいつ誰だ」

「……なんとかって教会の、神父だよ」

 ディーンが顔の右半分をおさえながら答えた。切れかかってまたたいているオレンジ色の光の下でも、みるみるうちに目のまわりが赤紫色に腫れてくるのがわかる。

 彼は血の混じった唾を吐いた。歯が折れていないといいのだが。

 いくら弟が夜遅くまで帰ってこず、心配のあまり苛立っていたのだとしても――あまりにもひどい。やりすぎだ。

「聖ステファン教会のクリス・マクファーソンです。弟さんの高校のカウンセラーでもあります。警察から学校に連絡が入ったので、便宜上私が身元保証人として――」

「余計なことしてくれなくていいんだよ」

 兄弟そろって同じセリフだった。兄のほうがずっと低くて冷たい声だったけれど。

「ディーン、お前まさかこいつにめったなことしゃべってねえだろうな」

「しゃ……しゃべってないよ」

「どうだかな」

 ラッセル氏は値踏みするかのように私をじろじろ眺めまわした。もし殴り合いにでもなったら、百パーセントこちらの負けなのは賭けるまでもない。それは向こうも承知だろう。私は下腹に力を入れた。

「あんたの教会って、坊主はあんたひとりか?」

「……そうですが」

「だってよ、なあ、ディーン」一転して、からかうような響き。弟のほうに頭を傾ける。「どうすりゃいいと思う?」

 ディーンが跳ね起きて、立っている兄としゃがんでいる私のあいだをさえぎった。

「兄貴、ダメだよ! こいつは俺にメシを食わせてくれたんだよ――そ、それにさ、俺と一緒のところをサツと――あと店のやつらが見てるし、学校だって……」

がどうしたってんだよ、胸糞悪ィ。んなとこ行かなくたっていいって俺ァ前から――」

 この短時間でわかったのは、ディーンの兄であるというこのいささか粗暴な人物は、「てにをは」を省略してしゃべる傾向があり、おそらくは基礎教育までしか受けていないのだろうということだ。弟にコンプレックスでもあるのだろうか?

 とにかくラッセル氏は大きく舌打ちをした。

「――ああ、クッソめんどくせえな、わかったよ、チクショウ。いいか、神父だかなんだか知らねえが、てめえの身が大事なら二度とこいつに近づくんじゃねえよ。オラ、行くぞ、このクソ馬鹿野郎」

 四文字言葉のオンパレードでまくしたてると、まるで猫の仔でも持ち上げるように弟の首根っこをつかんだ。そのままものすごい力で彼を引きずるようにして暗がりへ戻っていこうとする。

「ちょっと――待ってください!」

 あわてて立ち上がってあとを追おうとしたときにはもう、数フィート先には人の姿はなかった。

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