1-5「将来の夢とチョコレート」

「大きくなったら何になりたい?」


 こんなもの、突然、初めて聞かれて、しっかり答えられる訳ないじゃないか。

 "大きくなったら"の意味も、"何になりたい"の意味も、理解出来なかった。


 僕はあのとき何を考え、答えただろう。

 大きくなったら。

 怪獣と戦うとか?小学校に行くんだよ、とか?


 僕が理解出来ていないのを見て、「お花屋さんとか、お嫁さんとか」なんてパスを出してくる。

 それは結果的に、間違ったアシストだった。


 確か一番最初は、大人に質問されたのだったと思う。

 その時は「分かんない」と答えた気がする。

 大事なのは二回目。今度は、友人からの質問だった。

 同じ年齢の女の子から「大きくなったら何になりたいの?」と聞かれて、ついでに「私はお花屋さんになるの!」とも言われた。

 そこで僕は思った。


「大きくなったら、お花屋さんになるのか」


 "その子は"という主語が抜けて、僕の頭に残った。

 その後も色々な子に「大きくなったら何になりたいの?」と聞かれた覚えがある。

 皆、お花屋さん若しくはお嫁さんになりたいと言っていた。

 "大きくなったら"とやらを全く想像出来なかった僕は、その後同じ問いをかけられたら「お花屋さん!」と答えるようになっていた。

 だって皆、僕の周りにいる皆。大人も子供も、「お花屋さん(とかお嫁さん)」って言っていたじゃないか。

 だからそれが"正しい"。

「大きくなったら何になりたい?」の答えは「お花屋さん」が正しい。

 確か、他の答えを言った時は疑問形で返された気がする。〇〇レッドになるだとか。

 でも「お花屋さん」と答えれば、「そうなんだ」で終わる。

 不思議そうにされることも、否定されることもなかったんだ。


 それから、バレンタインというものについて。

 皆はバレンタインというものを、どう学んだのだろうか。

 僕は「誰にチョコ渡すの?」という母の問いが最初だったと記憶している。

 勿論初めての時は、全く理解が出来なかった。

 何の話かさっぱり見当のつかない僕は、「チョコ持ってないよ」なんて返事をした気がする。


「そうじゃなくて、バレンタインには幼稚園の誰にチョコをあげるの?」

「〇〇ちゃん(自分)が、チョコをあげるの?」

「そうだよ。バレンタインは、好きな男の子にチョコをあげる日なんだよ。

 〇〇ちゃんは、幼稚園の誰にチョコをあげるの?」


 この会話も駄目だ。

 僕は頭は、こう認識してしまった。


「バレンタインは好きな男の子にチョコをあげる日で、それは幼稚園の子なんだ」


 これはあくまで、"質問"の言葉に答え方だ。

 正確には


「バレンタインは、幼稚園の男の子の内誰か一人に、チョコをあげなきゃいけない日なんだ」

「その子は、僕がなんだ」


 こう思い込んだ。


 仕方がないじゃないか。

 あんな風に、好きな誰かにチョコを渡すことをとして、何度も「誰にチョコあげるの?」って聞かれるんだぞ。

 チョコをあげることはだ。

 そのうえで、誰に渡すのか。


 きっと母としては、「好きな子にチョコを渡すなら準備をしなきゃいけない」「その子と、その子のお母様に会える日付を確認しないといけない」なんて考えていたのだろう。

 幼稚園の子たちは、大人たちから「バレンタインは誰にチョコをあげるの?」「好きな男の子にチョコをあげるんだよ」と言われたのを真似て、僕を含む友人たちに話し、聞いて回っていたのだろう。


 初めは分からなかったから、母に尋ね返した。


「ママは誰にチョコあげるの?」


「ママは、パパにチョコをあげるのよ」


「〇〇ちゃん(自分)もパパにチョコあげる!」


「そうね、一緒にパパにチョコあげようね。幼稚園の子には、誰にチョコをあげるの?」


 こう聞かれ、誰かを選ばなきゃいけないと思った僕は、悪くないと思う。

 今でこそ「誰にも渡さない」という選択肢を持っているものの、中学時代くらいまでは本当に、誰かにものだと思っていた。


 そう、この問いはずっとずっと続いたのだ。

 小学校に上がっても「誰にチョコあげるの?」

 中学校に上がっても「誰にチョコあげるの?」

 季節が巡る度、毎年毎年毎年聞かれる。

 親に聞かれなくても、級友に聞かれる。

 それは楽し気に、にやにやとしながら。

 そしてずっとからかわれ続けるのだ。


 僕が恋愛絡みの話が嫌いなのも、僕のせいじゃない気がしてきた。

 こんな風に嫌がらせを受け続けたせいじゃないか?


 僕は中学から女子校へ通った。

 だから、もう男の子に"好き"というレッテルを貼り、チョコを渡す必要もなくなるのだと思った。

 だって学校には居ないのだから。

 男の先生にチョコを渡すのは禁止されていた。理由は知らん。

 どうせ教師と生徒の禁断の愛とか、そういう下らない何かだろう。


 だけど、中学に上がってからも母に聞かれた。


「今年も〇〇君にチョコあげるの?」


「…うん。」


 母が挙げたのは、小学校の頃チョコを渡していた相手だった。

 彼は、他に好きな子がいるらしいと、小学校で噂になっていた。

 僕は、「好かれていない」「絶対に振り向いてもらえない」と思いつつ、毎年ただただチョコを渡し続けたのだ。

 もしかしたら本当に、好きだったのかもしれない。好きだと思っていた。

 でも、"好き"になったのはバレンタインのせいだ。


「誰にチョコあげるの?」


 小学校でチョコをあげるなら、〇〇君かなぁ。

 そうして、"好き"として接するようになったのだ。

 心の底から好きだったのか、そう思い込んでいただけなのか、分からない。

 でも、たくさん本を読んで、ドラマを見て、"好き"を学ぶ内に、僕の"好き"は本気じゃなかったんじゃないかって思うようになった。

 "好き"は世界を救うらしい。何よりも尊く、何よりも優先され、いざという時にとんでもない力を発生させ、"好き"があればお金も要らないらしい。

 要らないは言いすぎだとしても、"好き"とお金は、天秤にかけられるものらしい。

 究極の二択の代表、らしい。

 代表と言える程、当たり前のこと、らしい。


 だから中学に上がってからも、彼にチョコを渡しに行った。

 小学校が同じだったのだ。

 どちらも引っ越しはしておらず、家は小学生でも歩いて行ける距離だった。


「はい」


「ありがとう」


 6年以上繰り返されたやり取り。

 それ以上の言葉はない。

 ホワイトデーも。


「これ、お返し」


「ありがとう」


 何と冷めていることか。

 いや、他に言葉が浮かばなかっただけだ。

 何て言えば良いのか。自分を好きではないと分かっている男に対して、"好き"を伝える日に。


「付き合ってるの?」なんて言葉を、小学生でも使っている。

 だから、"好き"と言ったら返さなきゃいけなくて、そして付き合うものなんだ。

 だから、"好き"と言ってもらえない僕は

 それでも他にどうすれば良いか分からなくて、ただ繰り返す。


「これ、チョコ」


「ありがとう」


「これ、お返し」


「ありがとう」


 彼は「嫌いだ」なんて言っていない。

「付き合えない」とも言っていない。

 だから、彼は「好きだ」と言っていないだけかもしれない。

 そう考えて、手紙も書いた。

 "好きだ"と。

 "あなたは誰が好きなの?"と。

 いつも、返事はなかった。


 嘘だ。

 僕は覚えている。

 初めてチョコを渡したとき。

 お返しとしてもらったものは、マシュマロだった。

 何の意味もないかもしれない。

 子供だ。小学一年生だ。そこまで考えるなんて思えない。

 自分の好きなものをお返しにと、選んでくれたのかもしれない。

 でも例えば。

 彼の気持ちを聞いて、彼のお母様がお返しの品を選んでいたとするならば。


 僕は元々マシュマロが好きではない。

 だから今でも覚えている。マシュマロを返されて、困ったことを。

 どんな経緯か覚えていないが、それを伝えることが出来て、今度はクッキーをもらったことがあるとも記憶している。

 どっちにしろ、駄目じゃないか。


 話しは戻り、中学の件。

 親とは別に級友から「チョコ何にした?」と、これまたのように聞かれた。


「バレンタイン?特に何もしてないけど。」


「え⁉先輩の分どうするの⁉」


 なんと女子校では、「バレンタインには日頃の感謝を込めて、部活の先輩にチョコを送らなければならない」というが存在するらしい。

 うちの学校だけ…ではないと思う。

 ときた。これはということだ。


「バレンタインは、好きでもない人にチョコを送らなければならない日」


 そう頭に刻んでしまった僕は、悪くないはずだ。

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