悪戯書き
久道進
1
ちょっとした悪戯心だった。
弟を危ない目にあわせてやろうと思ってしたことではなかったし、困らせてやろうとか泣かせてやろうなどと考えていたわけでもない。ただ思いつきの悪戯を実行しただけにすぎなかった。その結果どうなるのかなど、深く考えたりしなかった……深く考えていたら、僕は決して、あんな悪戯はしなかっただろう。
父さんの怒声が押入の戸を震わした。母さんの泣き声が戸を突き破って飛び込んできた。僕は耳を両手でふさいで、顔を両膝の間に埋めた。
何も聞こえなくなった。
何も見えなくなった。
怖くなって、薄目をあけた。顔を少し上げ、戸の隙間から遠慮がちに入ってくる光に縋った。その光は弱かった。蛍光灯の明かりだった。家の外はもう夜なのだろう。太陽はすっかり沈んでいるのだろう。西日のたっぷり入る部屋の電灯がつけられているのだから。
そして弟はまだ帰ってきていないのだろう。戸はまだ、父さんと母さんの声で震えているのだから。
ちょっとした悪戯心だった。
お使いに行く弟にわたされた地図に、母さんの手書きの地図に横線を一本ひいたのは、本当にちょっとした悪戯のつもりだった。それがこんな大事になるなんて、想像すらしていなかった。
だってそうだろう? 弟がお使いに行った商店街は家から数百メートルも離れてるわけじゃなかったし、目印となるものも多く、道だって複雑じゃなかった。家の前の大通りをまっすぐ行って、踏切を渡ってさらにまっすぐ。酒屋が見えたら、そこの十字路を左に曲がって、ポストが見えたら、その向こうの角は右に曲がる。そうすればもうそこは商店街だ。いくら弟がまだ小学一年生だって、これで迷子になるとは思えなかった。弟の歩く道は全部大きな通りだし、母さんもしっかり言い聞かせていたのだから、小さな路地に勘違いして入っていくようなこともないはずだった。
だから、地図上のポストの手前に横線を一本ひいたからって、それでどうなるわけでもないと思っていた。ただ弟が、あるはずがない道が地図に書かれているのに気づいて、それで不思議に思って、ちょっと困って、その場で半泣きになったりして……それで終わりのはずだった。いくら地図に書かれていたって、存在しない道に入っていくわけがないし、第一曲がる角は、ポストの向こうで手前じゃない。そんな悪戯で弟が迷子になることなんてありえないと、僕は思っていた。
でも現実は、そうじゃなかった。昼に家を出た弟は、夕方になっても帰ってこなかった。お使いに行った先は数百メートルも離れているわけではない商店街で、買い物の中身は夕飯に使う肉と幾つかの野菜だけ。店の人にメモを見せてお金をわたせば、すぐに済む内容だった。夕方までかかるはずがなかった。真面目な弟が、どこかで遊んでいるようなことも考えられなかった。
だから、弟がいつまでも帰ってこない理由として真っ先に考えられたのは、弟が迷子になったということだった。
僕は怖くなった。もし弟が迷子になったとしたら、それは僕の悪戯のせいに違いなかったからだ。
僕は存在しない道を一本書いたって、それでどうなるわけでもないと思っていた。でももし、弟がその存在しない道を探してしまったらどうだろう? ポストのある角を右に曲がるのではなく、「路地の向こうにあるポスト」の角を右に曲がると思ってしまったら? そうしたら、弟は「路地の向こうにあるポスト」を求めて、どこまでもまっすぐ歩いていってしまうかもしれない。そしてもし、「路地の向こうにあるポスト」を発見したら、そのポストの先の角を右に曲がってしまうかもしれない。そうなったら、弟は完全な迷子だ。僕たちには行き先が分からず、弟は自分では帰ってこられない……迷子だった。
自分の想像に背筋が震え、僕は押入の中に逃げ込んだ。弟が迷子になってしまったことが怖かった。それが自分のせいだと思うともっと怖かった。そしてそのことがばれたとき、父さんや母さんにどれほど怒られるのかと思うと、お腹がぎゅっと締め付けられ、昼に食べたものを吐いてしまいそうになるほど怖かった。
怖かった。とてもとても怖かった。だから僕は、押入の中に逃げ込んだのだ。暗闇に満ちた押入の中に飛び込み、追っかけてくるように聞こえてきた父さんと母さんの声を戸で閉め出した。それでも隙間から声は入り込んできて、僕はそれがまた怖くて、何も入っていない押入の中で一人震えていた……震え続けていた。
ちょっとした悪戯心だった。
その僕の悪戯心のせいで、弟は迷子になってしまった。今どこにいるのか、どんな道を歩いているのか、いつ帰ってこられるのか、何も分からない。
でも、ただ一つだけ分かることがあるような気がした。それは、今の弟の気持ちだ。多分、きっと、今の僕と同じような気持ちでいるのだろう。独りぼっちで不安で、なんでこんなところに居なければいけないのか分からなくて、父さんと母さんに怒られることを想像しては怖くなって……今の僕と、まったく同じ気持ちでいるに違いなかった。
ふと顔を上げると、戸の隙間から入ってきていた光がなくなっていた。電灯は消されてしまったのだろうか。父さんと母さんは、弟を探しに行ったのかもしれない。僕の姿が見えないことは、どう思っているのだろう? 弟を探しに行ったとでも思っているのだろうか。いや多分、僕の悪戯に薄々気づいていて、怒りのあまり放っておいているだけなのだろう。弟が見つかったら、次は僕の番だ。
父さんの性格を考えると、僕の悪戯のせいとはいえ、迷子になった弟を叱るだろう。買い物一つまともにできないのかと叱り、心配をかけやがってと怒るだろう。
そして次は僕の番。家の中に隠れている僕を探し、見つけたら、くだらない悪戯などして恥を知れと、そう怒鳴るだろう。
自分の想像にまた怖くなり、僕は顔を膝の間に埋めた。
とても静かだった。誰の声も聞こえないし、誰かの声が押入の戸を震わすこともなかった。父さんと母さんは、やっぱり弟を探しに行ったのだろう。
弟は見つかるだろうか? 早く見つかればいいのにという気持ちと、永遠に見つからなければいいのにという気持ちが、丁度半々、僕の心の中にはあった。早く押入の外に出たいし、自分の想像に怖がっているのももう嫌だった。でも、父さんと母さんに怒られることはやっぱり怖くて、その時が永遠にこなければいいのにとも思ってしまう。
いっそ、弟が最初からいなかったことになってくれれば、なんてことを考えてしまった。僕が地図に書いた、ポストの手前の、あの存在しない道。あの道に入っていって、本当はこの世に存在しない道と一緒に、弟も消えてしまえばいいのに、と思ってしまった。
自分の想像に小さく笑い、喉に何かが引っかかって咳き込んだ。いつの間にか瞳には涙が浮かんでいた。
押入の中に逃げ込んでからの自分の考えを振り返ると、あまりの身勝手さに情けなくなってしまった。自分に絶望した。
僕はどこまでも、自分のことしか考えていない。延々と自分で自分に言い訳をし、怒られることを怖がり、挙げ句の果てには弟の存在がなかったことになってくれれば、などと考えてしまった。今迷子になっている弟の心配もせず、ただただ自分のことばかりを考えていたのだ。
いくら子供でも、あまりにひどい。ひどすぎる。子供であることを差し引いても、許されないほど僕の心は醜かった。
いっそ僕も消えてしまいたいと、そう思った。
今から走って外に出て、自分が地図に書いた存在しない道に飛び込んだら、僕の存在もこの世から消せるだろうか……そんなバカなことを考えながら、僕は嗤った。
外は静かだった。押入の中にはもう、縋れるような光は見つけられなかった。戸はまるで壁のように固くて、微かに揺れる素振りすら見せなかった。
弟はまだ帰ってきていない。父さんと母さんもいない。外は静かで、光もなくなった。僕が書いた存在しない一本の道。あるはずのない道を地図の上に一つ増やしただけで、あまりにたくさんのものが、僕の周りからなくなってしまったような気がした。
瞼をぎゅっと閉じた。両手できつく耳を押さえ、両膝の間に深く頭を埋めた。
いつかこの闇の中に僕も溶けさってしまえばいい……心の中にあったたくさんの不安も恐怖も絶望も閉め出して、僕はただただそれだけを、深く静かに、願い始めた……。
*****
家の中は、2LDKのマンションの中は静かだった。人の気配はまるでなく、コトリとも音はしなかった。電灯も消され、部屋の中は暗かった。
ただ、窓のすぐ外には街灯があり、その明かりが中に入り込んでいたため、端の部屋だけにはうっすらとだが光があった。ぼんやりと照らされる小さな部屋。壁にはまるで押入の戸のように見える悪戯書きがあった。戸と柱の間の隙間のように見える線と、引き手のような円。クレヨンか何かで書かれたその悪戯書きは、だが壁にかけられたお茶によって、もうほとんどが消えてしまっていた。
家の中は静かだった。人の気配はまるでなく、コトリとも音はしなかった。
そして真実、家の中にはもう誰もいなかった。
悪戯書き 久道進 @susumukudou
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