第3話
宙クジラが泳いでくる前触れのひとつ。今年も秋の星たちがお別れの立琴を奏ではじめました。
丘の近くの森には山の頂からテュッキュヒルビ(雪大ジカ)たちがおりてきて、空から雪が降ってくるのを今か今かと待ちわびております。
ホテルの方も、連日予約がいっぱいで満員御礼です。
ユルはマシューが持ってきてくれた焼きりんごとキッシュ、それからルタバガのスープの朝食を食べて、今日もホテルの仕事へと向かいます。
最近のマシューはすこし変でした。
昨日も、なにかの手紙を読んでため息をついては、それを焚き火にくべて燃やしてしまいました。
ユルはそんなマシューの様子が正直心配でしたが、どうしたのか聞いてもマシューがはぐらかすので、それ以上は聞けないでいたのです。
「あっユル、613号室の電話線クモが逃げちゃったよぅ。あいつは特別すばしっこいから困ったもんだね」
「まかせて、ぼくが捕まえてくるよ」
揶揄うように走っていくクモを追いかけるうち、いつの間にかユルは地下のボイラー室のさらに下、普段だれも入らないホテルの最下層へと彷徨い込んでしまいました。
すると、突然ハッとしたように、クモがその場で止まってしまったのです。
「ほらっ、見つけた。ダメじゃないか、魔法のルビーまで持っていくなんて」
地下の暗闇の中できらきら光るルビーを抱えたまま、右往左往するクモをそっとユルは抱えあげます。どうしてでしょうか、いたずら好きのクモはなぜだか怯えてガタガタと震えておりました。
「だれだい……? ここは立ち入り禁止だと聞いていたのに、ずいぶんと可愛らしい声が聞こえるね」
「だ、誰かいるの?」
振り向いた拍子に、ユルの手の中にいたクモは一目散に逃げていってしまいます。
「あっ、こら!」
「ふぅん、魔法のルビーだね。心配いらないよ、あれを持ったままならあいつは地上へと戻れるからね」
ずずずずっ、と今度は背後で何か大きなものが動く音がしました。
クモは何に怯えていたんだろう……ユルはそう思いあたって、途端に後ろを振り返るのが怖くなりました。
「あらいやだ、ぼくの大嫌いな手袋をつけているよ……きみは、一体だれなんだい?」
今度は真横から聞こえた音にびっくり。思わずユルがそちらを見ると、大きな爛々と輝く——自分の顔よりも大きな目があったのです。
「うわっ」
「あらら、怪物が驚くなんて。さてはきみ、まだまだ半人前だなぁ?」
そこにいたのは、とてつもなく大きな大きなヘビでした。
ばたん、とドアの閉まる音が聞こえ、辺りは真っ暗になってしまいました。どうしよう、たべられてしまうのかもしれない……ヘビがシューシューと舌を出す音だけが暗闇にひびいていて、ユルはとたんに恐ろしくなってしまいました。
「きみの、名前は?」
そんなユルの緊張を知ってか知らずか、ぐるりとユルを囲んでヘビは問いかけます。
「ユ、ユル……」
「ふぅん、へぇっ。そうか、いい名前だ」
シューッとヘビの息遣いがすぐそばで聴こえると、ほのかな光が暗闇の中に灯りました。べろりと頬を舐め上げられ、けれどユルはへたり込みたいのを必死に堪えておりました。
「そんなに萎縮しないでいいよ。そうだ、その手袋を外してくれるのなら、ぼくはきみ——ユルに決して乱暴はしないと約束しようか」
「手袋を……?」
「うん」
「でも、これはずっと外さないようにって言われていて」
「ふぅん、じゃあぼくだって約束はできないなぁ〜」
ユルはどうしようかとても迷いましたが、ここで食べられてしまうのだけは絶対に嫌だと思いました。ですから、思いきって長年つけていた鉄の手袋を外してみせたのです。すると地下の部屋の中の空気が、少しだけ寒くなったように感じました。
「おやおや、とっても綺麗な腕じゃないか。それなのに、もったいないねぇ」
ユルは驚きました。今まで、だれもこの腕のことを褒めてくれたものはいなかったからです。ハッとして顔を上げると、片目に大きな傷のある大ヘビが優しそうにこちらを見下ろしておりました。
「ぼくは……そうだなぁ、ヨル——と呼んでおくれよ。きみと似た名前をもつよしみさ、ユル、きみさえよければ外の世界の話を聞かせてくれないかい?」
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