第5話 夢の回廊
あの虚夢空間での出来事があって以降、私はクラスの和に溶け込めた実感があった。
お母……ムネちゃんがこっそりとボディガードをルティナ君達に依頼していたことを後で知った。パートナー契約を結んでからは自然とルティナ君のグループと行動することが多くなり、休日にはみんなで遊びに出かけることもあったのだ。そうそう、五月のパジャマパーティーはとても面白かった。
ルティナ君のアパートにお呼ばれして、後神さんやエフィさん、それにサトシ君達も泊まりに来て、ふふっ、まさかルティナ君がふんどし派だったとは思いもしなかったな。
六月になってルティナ君が女神マスターになるために力を貸してくれって言われて……そしてあの地獄のような特訓を経て……それで、それで……
なんで……なんでこんなことになっちゃったんだろう。
――さめざめと、激しくはないが降り止む気配を見せぬ雨を窓越しに見ながら、司志美は考える。七月から開催された天下一女神武踏会。世界一の女神、そしてその女神を使役するトレーナーを決定する女神協会公認の世界大会である。私はルティナ君のチームメンバーだった。司志美は、背中の真ん中くらいまであるポニーテールの結びをほどき、静かにため息をついた。
あんな――あんなことが起きるなんて誰も想像はしていなかった。女神マスターを決める決勝戦後にルティナ=イラストリアスは消息を絶ち、二学期が始まっても未だに姿を現すことはない。
バツンっ!
突如、図書室の明かりが全て消灯した。
受付にいた司志美はスマートフォンの明かりを頼りに照明のタップのスイッチを何度か切り替えたが、反応はなかった。
「おかしいなぁ、停電かな」
幸いにも図書室の利用者は誰もいなかった。司志美は、職員室へ行き先生を呼びに行こうとした。
「……開かない……何で?」
出入口の引き戸に手を掛けるが、ビクともしない。
「女神領域展開!」
司志美は両手を地面につけ、女神が発動することができる特殊加護領域を展開した。
間違いない、これは虚夢空間だ。司志美は一度囚われたことのある感覚を思い出した。
虚夢空間内での女神の能力は著しく低下する。お母様からそう教わっていた。
図書室内を包み始めていた仄暗いオーラを一時的に停滞させることに成功した。
この隙にこの場から撤退を……。
司志美が再度出入口の引き戸に手を掛けようとしたその時、背後に人の気配を感じた。
「久しぶり」
低くこもった声であるが、司志美には振り向かずとも声の主がわかった。
「……久しぶりだねルティナ君。今更何しに来たの? パートナー契約はそっちが破棄したよね? 私に何の用?」
表情を読み取られまいと、振り向くこと無く返答した。
「力を貸して欲しいんだ。君が持っている潜在的な力を」
「嫌だよ。何があったのか知らないけど今のルティナ君、凄く怖いもん」
引き戸のドアガラス越しに見るルティナはパーカーのフードで顔を隠しているが、雰囲気が以前とは明らかに違っていた。
「僕は解決したいだけなんだ。過去の惨状と現を抜かした現状と来たるべき結末を。解くべき決は誤ってはならない。過ちのない、誤解のない決が僕の望みだよ」
司志美には言っている意味がわからなかった。真意を知りたいという気持ちが勝り、無意識のうちに振り向いていた。
「ねえ、ルティナ君何があったの? 教えてくれたら力を貸してあげなくもないけど」
司志美はルティナへ近づき、フードの奥に隠された表情を読み取ろうとした。
『女神よ――隷属せよ』
ふいにルティナがフードを外したと同時に司志美の頭の中で絶対的な指令が響いた。
警告音は鳴り響く。逃げるかお母様に応援を求めるべき状況であることは十分に理解している。だが、司志美はルティナの面前で跪くと、恍惚の表情を浮かべつつ隷属を誓った。
「ルティナ様、何なりとお申し付けください」
「君は死ぬかもしれないが悪い夢みたいなものだ。悪く思わないでくれ」
「はい、それが私の使命ですから」
ルティナは跪いている司志美に近づくと両頬にそっと手を添え接吻をした。
『解放宣言』
再度、司志美の脳内に指令が響くと、体全体から力が湧き上がった。
司志美がムネモシュネからプレゼントされ、左手首に付けていた女神ウォッチから機械的なガイダンスが突然流れ始めた。
『ピーッ! レベルアップマックス強制ランクアップ! Rランク・図書室ノ女神ハSRランク・禁書庫ノ女神ニ進化シマシタ! 禁書庫が解放サレマス』
――禁書庫の女神? 私が? ルティナ君にキスされて?
図書室の構造がブロックパスルのように組み変わり、見たことのない教科書や書籍、辞書、図鑑が本棚を埋め尽くしていく。ルティナ=イラストリアスは、司志美を放置して出現した本のページを片っ端からめくり始めた。強制的に能力を引き出された反動なのか。司志美は体全体の痛みに耐えることで精一杯だった。
「女神の弱点大全……違う、女神の平凡な日常――ダメだ……禁書では足りないということか」
ルティナは独り言を呟きながら床に座って山となっている本を漁り続けていたが、ゆっくりと立ち上がると出入口のドアにもたれかかっている司志美へと近づいた。
「司さん、いや、カリオペ=ブックマーカー、君の真の力を貸して欲しいんだ。君にしたことの罪は必ず償うさ」
「……はい、ルティナ様、このカリオペはルティナ様が欲している知識と情報、必ず提供することを約束しますわ。ですから私に愛の接吻を、無上の抱擁をくださいまし」
司志美は息も絶え絶えだったが、口からは肯定の言葉しか出てこなかった。
ルティナは司志美をそっと抱きしめながら口づけし、二回目の解放宣言がなされた。
『レベルアップマックス強制ランクアップ! SRランク・禁書庫ノ女神ハSSRランク・焚書院ノ女神ニ最大進化シマシタ。 存在ヲ許サレナイ、存在シナイ書物ノミ存在スル焚書院ガ間モナク開院シマス』
『対象ノ負荷ガ甚大デス! ヒーラー系統ノ女神ヲ要請シテクダサイ!』
『体温、心拍数、脈拍ニ異常ヲ感知シマシタ! ヒーラー系統ノ――』
司志美は遠ざかる意識の中、救助要請を続ける女神ウォッチの声を聞きながらルティナ=イラストリアスを見続けていた。柱は捻じ曲がり天井は渦を巻き、本棚からはタールのような黒い粘質性の液体が床へと流れ始め、禍々しくも歪な空間へ変貌を遂げる図書室の中で、喜々として本のページをめくる彼の姿が最後の記憶だった。
*****
『お母様、短い間でしたけどありが』
ああ、これは遺言だ。司志美の最後の言葉だ。メガミトーカーで送られてきた尻切れトンボのメッセージはムネモシュネを聖女神学園へと走らせるには十分であった。
雨に濡れることを厭わず、肩で息をしながらもがくように図書室へと向かった。
勿忘覚と一緒に行くことも考えたが、不確定要素が多いと判断し単独で現場確認をすることに決めた。ナインズ……ゼウスとの間にもうけた9柱の娘達。女神の設計図どおり転生を繰り返し、ようやく9柱が同じ時代に揃うことができた。その一人が今まさに力尽きようとしている。
『何かありましたか? 校舎内から異常なエネルギーを検知しました』
娘の一人、Rランク・リコーダーの女神エウテルペ=フラジョレットからメガミトーカーでメッセージが届いた。ムネモシュネは走りながらも通信端末を操作して返信する。
『カリオペから不穏なメッセージが届いたわ。それと学校の図書室に虚夢空間が展開されてる』
『ナインズで動けるのは私とウラニア、ポリュムニアの3名です。直ちにカリオペ=ブックマーカーの救助に向かいます』
『却下。聖女神学園内で虚夢空間が生成されてる時点で特S案件だから。女神協会の指示があるまで待機』
女神協会から虚夢案件や世界秩序維持目的で依頼されるクエストはF級からA級までとされている。さらにその上となるとノルン(運命の女神)に選定されているような伝説級の女神を派遣する必要がある。
『了解しました。御母様ご武運を』
エウテルペはすぐに引き下がった。物わかりの良いところは彼女の短所であり長所でもある。
聖女神学園には始祖三柱の一柱が在籍する。それでも侵入を許したということが信じられなかったし特S級の案件であると判断したことに間違いはないと思っていた。校舎三階にある図書室へたどり着く。ムネモシュネの予想通り図書室の出入口からは黒い影が漏れ出していた。
室内には苦しそうに震えながら横たわる司志美と、狂ったように本を読み漁るクラスメイトの少年がいた。
「……なにしてるんですか?」
「ああ、そういうことか。難儀な関係なんだね女神と人類は」
様変わりしたグロテスクな図書室の中央を陣取り、乱雑に積み重なった本の頂上にしゃがんでいたルティナはぱたん、と本を閉じるとゆっくりと立ち上がり出入口に佇むムネモシュネと向き合った。
「僕たちを騙して楽しかったかい? SR女神どころか始祖三柱に匹敵する悪魔の女神さん。理想の世界には……犠牲という土壌がなければなし得ないものなのか。悪徳と悲哀と欺瞞と偽善に満ちたこの世界を変えることが僕の存在証明となるのだろうか。ああそうだ。構わないとも、どんなに複雑怪奇に絡まった運命という鎖の輪だって僕が一つずつ掴んでは引きちぎってやるさ。世界共通の怨敵になろうともね」
ルティナは、怒りを抑えるように自分の顔を両手で覆いブツブツと独り言を呟きながら天井を仰ぎ始めた。かつての彼を知るものであればそれは姿形は同じなれど異形の存在に成り果てていると言っても過言ではなかった。
「何を持って騙したとするのかはわかりませんが志美ちゃんをこんな風にしたのはあなたですか?」
「そうだよ」ルティナは即答した。
「血に塗れし叫喚のメイスよ。過去の痛ましい記憶を彼に捧げて」
ムネモシュネは右手に赤黒い血に染まった巨大なメイスを出現させる。
「君たちのルールでは人間を殺傷することは禁忌じゃないのかい?」
「女神に危害を与える人間は別です」
床を蹴り上げてムネモシュネは跳躍する。一瞬で本の頂上に至るや狂人の脇腹目がけて重厚なメイスを全力で振り抜いた。骨の砕ける鈍い音とともルティナは本の山から崩れ落ちた。
「殺しはしませんよ。拘束した後、処遇は女神協会に委ねます」
ムネモシュネは左手でメイスのヘッドをぽんぽん、と叩き床に倒れ込んでいるルティナを見下ろす。
「……げほっ」
「過去に私が受けた痛みが持続的に続きます。死ぬまでね」
「そっか……もういい……起こしてくれ。必要な情報は手に入れた」
「は?」
自分に向けられたセリフでは無いことに気付いたムネモシュネは、すぐに図書室内を見渡した。しかし、人の気配は一切感じられない。そもそも虚夢の存在も認められない。
「ルティナさん、あなたはどうやってこの空間を……」
彼女が呟いている途中、ルティナの周囲から黒い影が出現する。
「了解したよ」
幼い少女の声とともに、腰よりも長い銀髪の少女がルティナのそばに現れた。瑠璃色の瞳は恒星よりも美しく輝き、それでいてどこか胸中をざわつかせるような妖艶な光を帯びていた。
彼女は、褐色の肌を隠していたぼろ切れのようなマントを広げると、倒れているルティナを風呂敷に入れる贈り物のようにそっと包み込んだ。
「……あなたは」
ムネモシュネの過去の記憶、現在の記憶、未来の記憶ですら存在しない。読み解いた記録にも残されていないイレギュラーな存在。女神なのか虚夢なのかも不確かな存在。
黒いワンピースを身に纏った銀髪の少女は、ムネモシュネに見向きもせず、気を失っているルティナ=イラストリアスを抱きかかえた。
「ボクのこと? ボクはね……」
ムネモシュネは彼女の二の句を聞き終える前に、脳内には規則的なアラーム音が響き渡った。
耳をつんざくような目覚まし時計の音がムネモシュネの意識を呼び覚ました。
時刻は午前七時丁度、見慣れた自室の壁でカレンダーが十月の始まりを伝えている。
「…………夢?」
夢にしては生々しく、現実にしてはリアリティに欠ける。そんな、そんな怖い夢だった。
だが、カレンダーの日付が現実を伝えている。ルティナ=イラストリアスは間違いなく、現在進行形で絶賛失踪中であるということを。
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