ブントの中枢を占めている学生らと、僕らの十人組と、逃げようとした学生がいる十人組とが、一つの教室に集められた。十七番教室の隣、十六番教室だ。

 逃げようとした学生がいる十人組の残りの九人はものの三十分程で懐疑を解かれ、教室の端に並べられている椅子に座って、僕らが尋問を受ける様子を見守った。ブントの幹部らの矛先は、逃げようとした学生と、僕と、鷸とに向かった。逃げようとした学生は、四階から飛び降りたおかげで右足をこっぴどく骨折していて、椅子に座ったまま、苦悶の表情を浮かべて顔面を殴られながら、話をはかされていた。

 逃げようとした学生が一通り殴られ終わると、今度は僕と鷸とに、ブントの中枢らが歩いてきた。

「なぜ、逃げようとしているのに捕まえに行かなかった」

幹部の中では一番格下なのであろう学生が、僕のほうを向いて尋ねてきた。

「ここから逃げられて、良いわけないだろう」

そういいながら、僕は左の頬を張られた。

 僕と鷸とは、パイプ椅子に縄で両手両足を縛られ、全く抵抗ができない状態にされているのだ。

あ?と言い、右の眉を少し眉間に向かって下げてから、またその幹部は、こぶしを作って僕の顔面をまともに殴った。

 「俺が、そいつに行くなって言ったんだ」

三発目を用意していた学生は、その手を一度下げ、物珍しそうに鷸のほうを向き直ると、

「どういうことだ?」

と、半ば笑いながら尋ねた。

「俺がそいつに捕まえに行くなと言ったし、ほかの奴らが捕まえに行こうとした時も、俺がをいつの手首をつかんで、行けないようにしていたんだ」

学生は、多少困惑した表情を浮かべ、テツのほうを向いた。テツはその学生と目を合わせると、何か指図するように顎を少しくしゃくって、別のほうを向いた。

「本当だな?」

「もちろんだ」

「おめえには聞いてねぇ」

革靴の先端で鷸の胸のあたりをけりつけると、僕らと同じ教室にいた学生らのほうへ、幹部学生は体を向けた。

「おんなじ部屋にいたおめえらに聞いてる。今こいつが言ったことは本当か?」

突然話がまわってきた学生らは、最初お互いの顔を見合わせていた。誰が言い出すということでもない。

「お前が言え」

そう指名された一人の学生は、

「間違いないです。しっかり、そいつは手首を握っていました」

卑劣な表情を露わにしながら、しっかりとそう答えた。

「ほかの奴らも、そうだったか?」

幹部学生がそう尋ねると、学生らは口々に、鷸が僕の手をつかんでいたことを供述した。

「そうか」

幹部学生は端的にそう言うと、僕をパイプ椅子から解いた。


             ☆


 取り調べの翌日、僕らの学年の学生だけが、一つの教室に集められた。全部で二十人くらいだ。

 その中で鷸は、全員の前で、逃げようとした学生を捕まえなかったという罪を晒され、罵倒された。

「お前ら同じ学年だろう。これは俺たち上級生とか、また下級生とかが処理するような問題じゃない。お前らの中で片付けなくちゃいけない」

昨日の取り調べで終始黙り切っていた学生の一人が、前でそう説明した。

「今から、こいつに何をやっても構わない」

それだけを言って、パイプ椅子に縛り付けられた鷸を教壇に残し、教室の後ろに陣取った。

 鷸はさほど多くの友人を持っていなかったために、同じブントの同級生だろうと、会話をしたことのある人間のほうが少なかった。それゆえに、集められた同級生は、親の敵にでもであったかのように、鷸に群がった。

 一番前の席に座っていた学生がまず、腰をかがめて、鷸の左の頬を平手で張った。それの直後に、これまた前方の席に座っていた学生が駆け寄ってきて、勢いそのままに鷸の顔を靴の裏で蹴った。後ろのほうの学生はポケットから煙草を取り出して火をつけ、それを鷸の額に付けた。煙草は小気味の良い音を立て、額に溶けていくようだった。ブントの中で事務の仕事をしていた、ヒールをはいていた女子学生がヒールのかかとで鷸の腹や、太ももや、下腹部を踏みにじった。

 僕はそれを呆然としてみているしかなかった。僕の中には鷸のような、昨日の鷸のような、確固とした感情や情熱が、なかったのだ。

 講堂でテツが演説をした日、最後まで座っていたのは鷸だけだった。僕は、まったく無意識裡のうちに、ほかの学生らとともに席を立って、敬礼をしていたのだ。

 教室の後方で学生らが鷸を虐めているのを見ていた幹部学生は、おもむろにその場を去り、僕らのほうへ歩いてきた。

「こいつにもやらせろ」

僕を指さしながら、幹部学生はそういった。

 僕は幹部学生の目を見たが、そこからは何の感情も読み取れなかった。

 幹部学生の指示があって、鷸のほうへ群がっていた学生らは、一斉に僕から鷸への道を開けた。

 パイプ椅子に縛り付けられ、限りのない暴力にあった鷸は、いつも見ている彼であり、ないようなものだった。彼は、極めて抽象的な、中立的な瞳で僕の目を見た。彼は暴力によって限りなく疲労していて、消耗していた。

 ほら。幹部学生に背中を押されて、僕は鷸の前に出て行った。鷸は首を上に向けるのも難しいように、眼球だけを動かして僕のほうを見た。

 その時だった。僕の体の奥からある一つの感情が沸き上がってきたのだ。

 僕はその感情を、どこかで味わったことのあるような気がした。

 僕が周囲の雰囲気に押されて右手にこぶしを作り鷸を殴ろうとしたとき、その感情の既視感のありかを完全に悟った。僕は右手に作ったこぶしを振り下ろし、鷸の鼻を力の限りに殴った。鼻の骨はすでに折れているのか、かなり柔らかい感覚だった。

 よくやった。と幹部学生が言った気がするが、僕は前後不覚になっていた。続けて鷸を殴った。手を振り下ろすごとに周りにいた学生たちは息をのんで、鷸を殴り続ける僕を鼓舞し、それを助長させた。どこまでも快感で陰湿な行為。

 僕は鷸を殴りながら、まともに彼の目を見た。

 僕という一縷の希望を目前にして、その希望によって彼の希望が打ち砕かれる、希望がそれ自身によって絶望に上書きされる、それがまざまざと現れる鷸の表情の中に、僕はあの、醜い大学院生と同じものを見たのだ。

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闘争の汐 平岡遼之 @1978625southern

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