その翌日から、僕ら学生の集団は、その内部の集団性を強めていった。誰が指示をしたわけでなく、集団の内部では規則が形成されていった。それまでであれば、多少会釈をするくらいですれ違っていた学年が上の学生に対しては、たとえ一瞬のすれ違いざまであったとしても、その都度足を止め、背筋を正し、礼をしなければならなくなった。

 機動隊の突撃に備えて大学の構内を整備するときには、私語は一切許されなくなった。もっとも、私語をすると誰かにこっぴどく叱られるというわけではない。複数人で一定の空間にいると、自然とそこにはある種の緊張感が走り、ごくわずかな物音であっても、圧迫するような雰囲気が、その場を支配するのだ。

 無論、テツに対して疑問を持つものなど発生のしようもなかった。自然形成された規則は、それ自体は人間の反発を誘導するものであったろうが、その規則を守ることに対して、学生らが誇りを感じ始めているのだ。

 そのような傾向が強くなるにつれて、十七番教室に軟禁されている大学院生への拷問は激しさを増していった。激しさを増した拷問は、それ自体何らの目的を持っておらず、拷問それ自体が目的と化している。テツの演説の後二三日で、大学院生の二十あった手足の爪はすべてはがされ、致命傷にならない箇所の骨はおられ、それでいて自殺しないように、猿ぐつわが念入りに施されていた。あるいは、煙草の焼きがついていない肌の面積のほうが、少ないかもしれない。それでも、学生集団の中に一人だけいた、医学部の六年の学生が大学院生を念入りに手当てするせいで、大学院生はその一命だけはとりとめていた。大学院生はその二三日、死にたいという言葉以外を口から発していなかった。が、テツは「人を痛めつけることの訓練だ」と言って、その手を止めなかった。学生らも、彼ら一人一人がどう思っているかは知りようのないことだが、少なくとも粛々とそれに従っていた。


              ☆

 

夜、ふと目が覚めて、汗でまとわりついてくる掛け布団を引きはがし、外を眺めた。教室の窓からは相変わらず中庭を挟んだ教養学部の文科の棟がそびえていて、それの遮りが途切れた上部に、ひっそりとした満月が浮かんでいる。いくつかの教室にはまだ電灯がついていて、中では人が忙しそうに歩き回ったり、あるいは何か書き物をしていたりする。同じ教室に寝ているほかの九人は、皆健やかに目を閉じて、腹のあたりを上下させていて、いくつかのかすかな息遣いが、ばらばらになって物静かに耳を浸していく。

 トイレに行こうと思い寝ていた場所を立ち、教室の横開きのドアを、できるだけ音をたてないように開き、廊下を歩いて行った。廊下を歩く途中、何人かの学生とすれ違ったが、皆僕の儕輩か、後輩であったために、特に気を使うこともなかった。

 教室に帰ってくると、鷸が体を起こして、目をこすりながらこちらを見てきた。

「起きたのか」

「どうも暑苦しくて」

ほかの連中を起こさないように注意深く、できるだけ小さな声でそれだけのやり取りを済ませると、僕はまた僕の寝ていた位置に戻り、目をつぶろうとした。

「おい」

鷸が、先ほどよりも幾分力強く、振り絞るように声に出した。

「おい」

一度横にしてしまった体を持ち上げるのは億劫だったのだが、あまりにしつこいために体を起こすと、鷸は窓際に急いで体を動かして、窓を開け、その下をのぞき込んでいた。

「どうした」

鷸が片方の手を頻りに振って、こちらへ来いとしぐさをするものだから、僕は幾分急いでそちらのほうへ行った。

 鷸に並ぶと、彼はこれを見ろというように、窓の下へ、右手の人差し指を向けた。僕は僕の目の前の窓のカギを開け、下のほうを見た。窓の下は丁度、中庭をぐるりと囲むように植えられた生垣になっていて、そこに電灯などあるわけでなく、月分厚い雲に隠され、暗々黒々として、なかなか見えにくかった。

 そこにじっと目を凝らしていると、段々目が慣れてきて、生け垣のあたりも見えるようになってきた。丁度それと同時くらいに、月を覆っていた分厚い雲も、月の横へ流れていった。大分判然と見えるようになってきた生け垣の中には、何か大きくて、それでいて小回りの利くような何者かが、ごそごそと蠢いていた。

 蠢く影はだんだんと僕の目に明瞭になっていって、やっとそれが、学生の中のだれかだということがはっきりした。

「上から落ちてきた」

「上から?」

「おそらく逃げる気だろう」

鷸が言った通り、生け垣の中で蠢いている学生は、彼の体の衝撃が収まるのをゆっくりと待ちながら、物音をたてないように周りをきょろきょろと見まわし、生け垣を乗り越えようとしている。逃げる気なのだ。

「お前が知ってるやつか?」

「ああ。俺と同じ寮の部屋の奴だ」

鷸は強いて冷静を装っていたが、彼の腹の底から彼の体全体へ流れ出ている、形容しがたい感情を、抑えきれずにいるようだった。鷸は、下の学生に対して嫉妬を抱いているのだろか?

「何起きてるんだ」

僕らと同じ教室の学生が一人、物音に起きだしてきた。僕は先ほど鷸が僕にしたように、その学生に対して手招きをして、窓の外を覗くように伝えた。学生はやはり鷸と同じように眠たそうな眼をこすりながらこちらへ歩いてきて、窓の下を覗いた。

 数十秒の間下を覗いていると、学生は青ざめたような顔で僕らのほうを見てきた。そしてもう一度窓の下を覗いた。

「あいつ、逃げようとしているのか?」

「多分」

僕がそういうか言わないうちに、学生は同じ教室に眠っている連中を起こし始めた。連中はやはり眠たそうに体を起こしたが、先ほどの学生に言われるがままに窓の下を覗くと、彼らは顔を見合わせ、

「捕まえに行かないといけないだろう」

正義感に取りつかれたような調子で彼らはそういうと、教室の窓を力強く開け放ち、大急ぎで教室を出て行った。

 僕と鷸とは顔を見合わせた。最初、僕も鷸も呆然とした表情をしていたが、途中から鷸の表情には、怒りの感情が満ち満ちていった。鷸自身と僕とが、物音をたてて教室の学生を起こしてしまったこと、僕が教室の学生たちに逃げようとしている学生がいることを教えたこと、そして教室にいた学生たちが、逃げようとする学生を捕まえに行ったこと、今の一連の出来事の全てに対して怒りを覚えているのが分かった。

 しばらく下を眺めていると、僕らのいる棟の出入り口から、何人かの学生たちが狂ったように躍り出てきた。彼らはかなり大声を出しながら出てきたものだから、逃げようとしている学生はかなり早い段階で彼らに気づき、大急ぎでキャンパスの裏口のほうへ駆け出して行った。が、残念なことに、昨日の日中、キャンパスの裏口を、内からも外からも出入りがほとんど宿命的にできないように整備したのは、僕らの十人組だったのだ。

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