棟の階段の全てに机を運び込み、バリケードを作り終えたために、僕らは大学の棟の中で日を暮さざるを得なくなった。一教室当たり十人くらいで部屋を与えられて、どこから持ってきたのかわからないが、一人一つ、毛布に近い薄さの掛布団が支給された。

 与えられた教室の中で、何人かのそれなりに仲の良い学生と喋っていると、かなり急いだ様子の学生が教室に顔をのぞかせ、全員が講堂まで、今すぐに来るようにと伝えた。

 僕らの教室にいた学生は、全員が面倒くさそうに立ち上がり、伸びをする者があったり、欠伸をする者のあったりしながら、のっそりと、講堂まで移動した。

「テツは、何がしたいんだと思う?」

寮の、僕の隣の部屋に住まっている学生が、だれか特定の者に聞くでもなく、そう、話し出した。

「大学なんて占拠しても、革命なんて起こせない。……と、思うけれど」

「まったく」

誰にともなく発された問いに答えるのを、全員が躊躇っていたところに、鷸がそう言った。「意味はないよ。美学だ」

背の高い鷸を、問いを発した学生は顔を上げて見たが、また視線を廊下に落とした。

 講堂まで行くためには、今いる棟から外へ出て行かなければならないのだが、階段はすべてバリケードで封鎖している。

 物理学の研究室の奥に備え付けられている、非常階段から外に出なければならない。

 僕らがその非常階段の扉を開けると、地上ではすでに、何組かの学生らの集団が、講堂に向かっていた。その学生らは、全員が何か緊迫した様子を彼らの中に抱え込んで、実体のないものに追われるようにして、講堂まで、走って向かっている。彼らの表情は、その彼らの抱えている何かに恐怖し、疲労しているように見えるが、どこかそれに対する、憧憬を含んでいた。

 僕らが階段を下りながらその様子を見ていると、段々に、走っていた何組かは、示し合わせたようにその組の中で隊列を組んでいった。十人で一組だったところは、3×3に余り1を付けた隊列。小規模な隊列を組み終わった彼らの表情は、先ほど一人一人で走っていた時の表情を、さらに深めていた。彼ら一人一人は、自らの隊列に属しているほかの学生に歩を合わせるように見えるが、そうではなさそうで、各人が、隊列の中に完全に歯車として溶け込み、隊列を動かしている自分自身に酔っているのだ。恐怖が大きく深まり、疲労も、先とは比べるべくもなく深まり、さらにそれに対する憧憬は、押しとどめられないところまで膨張している。その小規模な隊列が組み終わり、しばらく走っていると、今度はそのいくつかの組に分かれていた小規模な隊列が、次第に合わさっていった。十人の隊列で余っていた一人は、十一人の隊列で余っていた二人とくっついて、3×7の隊列に組みあがり、その後ろを追っていた十人の隊列とくっつき、さらにまた、横を走っていた十一人の隊列と結合して、3×14の隊列へと膨れ上がっていく。

 隊列を組んだ彼らは、二百メートルほど離れたところにある講堂まで、足並みを合わせて走っていった。徐々に、そのスピードだけでなく、踏み出す足までがそろっていき、講堂に着く頃までには、彼らは彼ら自身の力だけで、軍のような様相を呈していた。そして彼らの顔に浮かぶ表情は、ついには表情を失い、ほとんど、機械の中に動く歯車そのもののようになっていた。彼らの恐怖は絶望に代わり、疲労は思考停止にまで足を踏み込み、そして憧憬は、彼らの、集団の中の彼らに対する誇りへと昇華していた。

 僕らはその光景を目の当たりにすると、示し合わせたようにお互いを見合わせた。そしてそれが、自分一人だけが見た錯覚のようなものではなかったことを、お互いの目の中に確認すると、それまでとは質の違った沈黙が、僕らの間に流れ込んで来、僕らはお互いの口に手を当てるように、押し黙った。僕らは、突然盲目になったように注意深く、ゆっくりと非常階段を下りて行った。滑り止めのために階段に付けられている細長い凹凸が、何か僕らに対する示唆を含んでいるような気さえしてくる。鉄の乾いた、空虚な音が、僕らを圧迫してくる沈黙をさらに際立たせては、夏の詰まるような空気の中に、押し入るように消えていく。

 気づいた時にはもう、非常階段は終わっていて、そこからは果てしないような地面が続いていた。僕らを包み込んでくる沈黙は、繊細でタフだった。指でつつくだけでそれは、おそろしい速さで渦を巻くように変容していき、それでいて、その渦は沈黙の中だけで完成しているために、それ自身の外様を崩さずにいるのだ。

枷でもつけられたように重くなった足を運び、講堂の大扉の前にまで辿り着いた。僕が、講堂の大扉の前でそれを開くのを少しく躊躇っていると、それまで、僕らの中で最も重く沈鬱な雰囲気をまとっていた鷸が、何かを決したように、扉のノッブにかけていた僕の手を払って、それを、大胆とでも言うように開け放った。

 彼らは、一斉に僕らのほうを振り向いた。動きが一つに重なり、それと同時に音も一つに重なった。大講堂の前方に、かなり高く作られている壇上には、学生服を着たテツが立っている。

 僕はその壇上に立っているテツに、多少冗談の混じった会釈をしたが、テツは依然として壇上に黙然として屹立していて、僕のほうを、真面目に見やることはなかった。それよりかはテツは、遅れて入ってきた僕らのことを一瞥して、蔑んだような雰囲気をまとい、僕らのことを圧迫しているように感じられた。

 彼らの中で、一番後ろの席に、背筋を並々ならぬほどに伸ばしながら座っていた、甚だ背の低い学生が、自分の後ろの席に座るよう、僕らに指示をした。僕らは、彼らの作り上げている大講堂内の異様な空気に、一時的に唖然としていたが、僕らの中の一人が、ゆっくりと一番後ろの席に向かっていくのを潮時に、僕らも、席に着こうとそれに続いた。僕らが席に着くのを待っている間、明らかに暇を持て余していた、全体の中ごろに座っていた学生が、隣の学生に話しかけていたが、どう考えてもその行動は、この講堂内では場違いなものに思われた。それを証明するように、その学生が話しかけた隣の学生は、かけられた声を完全に無視し、返答というよりむしろ、拒絶といった風に咳払いをした。また、その周りに座っていた学生たちも、話しかけた学生を呵責するかのように、腰を落ち着けなおしたり、何らかの行動を伴っていた。

 その中で、僕らが最後尾の席に腰を落ち着けると、壇上でも、かなり端のほうに陣取っていたテツが、中央のほうへ移動した。そして、テツが中央にたどり着いてそこに足を止めると、示し合わせたように、席に座っていた学生らは、一斉にその席を立ち、最大限背筋を伸ばした。あとから入ってきた僕らは、これがどのようなことを表しているのか承服しかねたが、体が反射的に、とりあえず席を立ち、背筋を伸ばしていた。

 席に座っていた学生らの最前列にいた学生の一人が、備え付けられている壇上への階段に足をかけ、壇上へ上った。それから、右足をほんの少し宙に挙げてまた気を付けの姿勢に戻り、勢いよくその頭を垂れた。そしてやはり、それと同時に学生らも、それに倣った。

 壇上に上がった学生が自らの席に戻ると、学生らは一斉に席に腰を下ろした。それと同時にテツは、どこに隠し持っていたのか、マイクをその右手に持ち、乱れてもいない襟を正し、裾を直し、また姿勢を元に戻した。

「五日前、我々が占領しているこの駒場まで、同大学の大学院生がのこのこと侵入してきたことは、全員が既知の通りだと思う。現在、十七番教室にその大学院生は飼育しているが、奴が持っていた、総長の連絡文の内容は到底、我々を納得させるようなものではなかった。それどころか、我々を挑発しているようにさえ感じられる」

言いながら、テツは左のポケットから紙切れを出して、それに目を落とした。

『君たちは今、極めて危ない立場に、自ら身をさらしに行っている。君たちもそこまで、脳みそをソ連に浸食され、判断能力を失っているわけではないだろう。今のうちに大学を今まで通りに戻しておけば、悪いようにはしない。今すぐ降伏したまえ』簡単に言うと、こういう内容だ」

そういうと、左手に持っていた紙切れを、ポケットから出してきたライターで焙り、地面に投げ捨てた。

「こんなもの、だれが受け入れられる?大学側は、自分たちの根拠地のはずの大学キャンパスが奪われても、その傲慢さを捨てようとするどころか、益々それを、醸成している。腐敗している」

一つ間を御置いて、テツは聴衆の学生らを、丁寧に眺めていった。極めて長く感じられた、その時間が終わると、満足そうな顔を浮かべて、また話し始めた。

「我々は、大学側と交渉するという選択肢を、捨てなければならなくなってしまった。もはや旧来からの大学に望みなどなくなった。我々が目指さなければならないのは、大学の完全な自治になった。我々を縛り付けていた大学を、完全にこのキャンパスから追放して、ここに解放区を作らなければならない。そして、旧来の大学の腐敗を醸成していたのは、間違いなくこの国の責任である。戦後間もなくから、アメリカのケツナメ犬として政治をしてきた自民党を、民主主義を、この国から追放しなければ、我々の真の安全はない。ベトナム戦争は、明らかにアメリカから始めた戦争である。アメリカ追従を続ける限りにおいて、この戦争に、我々日本が巻き込まれるのは時間の問題だ。そうなれば、我々だって、戦争に駆り出されかねない」

テツの頬は、今までないほどに上気していた。そして驚くべきことに、それを聞いている学生たちは、テツ以上に、彼らの頬を上気させているのだ。

「我々はこのキャンパスから、旧来の大学を追放しなければならない。そして、この国から、自民党とアメリカと民主主義を、追放しなければならない。真の楽園を追い求めなければならないのだ。暴力革命は暴力を肯定しているのではない。暴力を排斥するための手段として、暴力を用いるのだ」

学生らが、何かに対してそわそわとして落ち着いていないのが、ひしひしと感じられた。彼らの中から何かが、湧き出してきているのだ。

「我々が暴力を用いるなら、国だって黙っていないだろう。彼らは自衛隊という、まったく憲法と矛盾した国家的な暴力装置を持っている。我々はそれを、打ち破らねばならないのだ」

その時、大きな波が講堂内を襲った。テツの演説を聞いた学生らは、だれからともなく席から腰を話し、食い入るように演説を聞いているのだ。それが波のようになって、学生らは、波を描くように立ち上がった。しかしその行動は、それまでの集団行動のような、無機的なものではなく、彼ら一人一人の中に確固として存在していた感情が、個々に作用していった結果なのだ。

 立ち上がった学生らは、頬から始まった上気を、体全体に巡らせて、夏の宵の暑さをも超える熱を、彼らの中に蓄え、ある者は息を切らし、ある者は滝のように汗をかいていた。

 気付くと、席を立っていないのは僕と鷸だけになった。僕らと一緒に講堂に入り、学生らに圧倒されていた者はもはや、熱狂の一部と化して講堂内の大気と一体化しているのだ。

「我々は団結しなければならない。自衛隊は、彼らは、ただ金を得るためだけに〈働いている〉のに過ぎない。烏合の衆を蹴散らすのは、たった一枚の、しかしはるかに強固で大きい岩だけでいい。俺には、お前たちがついている。お前には、我々がついている。それだけを持っていれば、国なんて簡単に変えられる」

 テツの演説が終わると、彼らは、一斉に背筋を伸ばして気を付けの姿勢をした。全員が、体を震わせて姿勢を保っている。体から湧き上がるものを抑えきれていないのだ。

 テツがマイクを左手に持ち替え、右手でその学生帽に庇をつくると学生らはそれに倣い、また元の姿勢に戻った。講堂内を、彼らの手が動く凄みのある音が、大きく反響した。

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