闘争の汐

平岡遼之

 僕と鷸とが、いかにも手持ち無沙汰だというように教室の中をさまよっていると、教壇の上から部屋中を見回していたブントのリーダー格のテツが僕らの方へ歩み寄って来、隣の教室にまとめて詰め込んである机を、この教室まで運び込んでくるようにと指示をした。

 僕らがテツから直接注意されているのを見た、教室にいたほかの学生らは、決して顔を上げようとしないで、雨に降られた後のアスファルトのような、陰湿で粘液質な押し殺した笑いを、ひた隠しにしながら、しかし明らかに僕らに届くようにし始めた。僕は彼らの粘液質な笑いが、僕の頭の中に入ってきてしまわないように注意深くなり、人の少ない、教室の後ろのドアから教室を出ようとした。が、鷸はいらだち始めていた。彼は、彼らの笑いを一つずつ丁寧につぶしていくように、彼ら一人一人をまともに見まわしていった。鷸の刺すような、あるいはどす黒いような瞳にとらえられた彼らは、鷸から見られるとすぐに笑いを、彼らの中から消していった。しかし、鷸が一人を見、また一人に移った時には、もはや先の一人の笑いは、隠すところを知らないように、まともに彼らの表面に出てくる。

 粘液質な、黴臭い雰囲気が教室中に瀰漫し、息もしづらい風になっていくのを、教室にいた人間全員が見守っていた。黴はだれでもない、教室にいた僕らが作り出したものなのに、僕らは、誰一人として黴の出所を知らないような様子でいる。

僕は黴のにおいに耐えられず、鷸の手首を力いっぱい握りしめて、半ば強引に教室の外に出て行った。

僕らが出て行った教室が、更なる黴の臭いで充満していくのを、僕らは背中で感じた。鷸は、その黴の臭いに完全に捉えられようとしていたのだ。

「もう、あいつらと真剣にかかわるのはよしたほうがいい」

鷸は僕がそう言った少し後に、何かの言葉を口に上そうとしたようだったが、そのまま押しとどめた。理解はしても、納得はし切れない、そういうことなのだろう。

僕らは隣の教室の前を通り過ぎて、その隣にある大きな窓の前へ歩を進めた。

その窓からは、芝刈りをされなくなって雑草の伸び放題になった、池を持った大きな中庭を挟んで、教養学部の文科が使っている棟が臨まれる。

二三日前か、あるいはそれ以上前から、その棟の三階にある十七番教室では、大学院生が軟禁されていた。大学の総長と懇意にしていたその大学院生は、総長に頼まれて大学生を説得しに来たらしい。

その大学院生が、大学生に敵意を持たないことを伝えるために手ぶらでこのキャンパスまで入ってきたために、二三歩歩いたところで校門のあたりを警備していた学生ら五六人から囲まれ、特に抵抗をすることもなく、ビニル製のひもでぐるぐる巻きにされて、その教室に運ばれてきた。

 テツの指示によって、その大学院生には向こう二日間は食べ物も飲み物も与えず、情報を引き出そうということになった。

 僕と鷸とが昨日十七番教室までその人質の様子を見に行った時には、彼の股間は何が何やらわからずびしょびしょに濡れていて、彼の周りからは、排泄物の腐った、強烈な悪臭が漂ってきた。一人用の大きさの机を教室の真ん中に集めて楕円形を作っているうえに、科学実験教室から借りてきたのだろうガスコンロと、ものを熱するための容器が置かれているのを見ると、大学院生を監視する学生が、面白がって排泄物をそれで煮て、悪臭に追い打ちをかけたのかもしれない。

 僕らがいる棟からその十七番教室を覗いてみると、中の大学院生が必死になって、自らを小汚いパイプ椅子に縛り付けている太い縄をほどこうとしていた。おそらく、監視の学生が外に煙草でも喫みにいっていないのであろう。

 僕はそれを見ながら昨日見た、かの大学院生の、卑屈で、卑怯で、絶望した、目を、眉を、口を、頬を、その顔全体を思い出した。それはこの世の何よりも、軽蔑に値する表情であり、軽蔑に値する顔を形作るパーツの一つ一つであった。その時、それまで持っていたかの大学院生への同情の念は僕の中からほとんど消え去り、同時に、かの大学院生への、殺意にも近いような侮蔑が僕を襲ったのだ。

 あの時の大学院生と比べると、今窓から望まれる彼は、一縷の望みを、その心の中に抱いていた。そして、大学院生が彼の中に光を持つほどに、僕の彼に対する侮蔑というのが一層、深まっているのを感じた。

 僕が今立っている四階から見える彼の顔は、どこまでも、宿命的なほどに陰湿さがぬぐい切れず、また彼自身も、僕ら大学生を、侮蔑していた。そういう色がより一層、彼への殺意を、僕らにわかせるのだ。

 「もうよそう」

鷸の言葉を潮時にして、僕らは隣の教室の中へ入っていき、机を運び出した。

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