If.早瀬川
嫌なら言いなよ。
その時初めて、私は早瀬川がきちんと化粧をしていることに気がついた。丁寧に睫毛を持ち上げて、流行りのリップを塗っている。首筋からは、洗剤に似た、ホワイトムスクの香りがした。
友人の見舞いに費やすには、少しだけ過剰なコストだと思った。
顎に指が触れる。早瀬川の顔が、唇が近づく。
「んっ」
抵抗を認めながらも、その隙を与えない、絶妙な速度だった。ふにゃり。柔らかなものが触れた。はこべのそれよりも柔らかく、苦いスパイスのような香りがした。
あ。こいつ外で吸ってきたな。そう思った。
人前では控えているが、早瀬川は喫煙者だ。
はこべほど無遠慮でも、一果ほど淡白でもない口づけだった。もちろん、舌は入ってこなかった。唇が触れるだけの、長くて控え目なキス。
体温が離れる。
「どう?」
「───ど、どうって」
何がだ。
「嫌じゃなかった?」
「嫌では、ない、けど」
「なら、気持ちいい?」
いや何言ってんだこいつ。だって早瀬川は友達で、友達とのキスが気持ちよかったら問題だろう。だって友達だし。友達はキスをしない。少なくとも、この国では。
混乱したまま、否定した。
「は、や、べつに」
「じゃあ、もう一度」
「やだ、やだ、もういいから───やっ」
嫌なら言えって言ったくせに、早瀬川はもう一度、私へ唇を落とした。さっきよりも長い。舌は入ってこなかったけれど、上下の唇を一度ずつ、仔猫より優しく甘噛みされた。
吸う息が、甘くて苦い。
ようやく離れた早瀬川が、淡々と言った。
「今度は、どう? 興奮した?」
「こうふん、って」
「どきどきしたか、ってことだよ。白頭君と比べて」
はこべと比べて。
「ここまでされて嫌じゃないなら、君は白頭君と同じだよ。『もどき』じゃない。あとは、単純な色恋の話」
どっちがいいか、という話だよ。
何事もなかったみたいに、早瀬川が平然と言った。
どっちが、って。そんなの、比べられるのか。比べて良いものなのか。
比べないと、いけないのか。
───そうなんだろうな。
早瀬川のキスと。はこべのそれ。私は二つを心の天秤の両側に乗せ、慎重にその揺らぎを確かめた。
ためつすがめつ、繰り返し心に問いかける。
確かに、天秤は傾いていた。
あの東屋で私の頭を載せてくれた太腿の感触が、木製のコマを渡す繊細な指先が、テーブルに載りきらないお見舞いの品が、全て鮮明に心に焼き付いていた。
あの夜の、亡霊みたいなはこべの姿を心の底に追いやって、私は潤む視界のピントを目の前の彼女に合わせる。
「したよ」
身体を投げ出すみたいに、私は言った。
「どきどきしたし、興奮した」
硝子越しの早瀬川の目が、痺れたみたいに震えた。いつもクールな頬が、カッと赤く燃える。
可愛いな、と思った。彼女のことを、綺麗だと思ったことも、格好いいと思ったこともあるけれど、そんな風に思ったことはなかった気がする。
私は腕を持ち上げて、そっと彼女の二の腕に触れた。今日も彼女はノースリーブだ。剥き出しの肌を、媚びるみたいにさすり上げる。
「でも、まだちょっとわかんない、かも」
茶番みたいな誘い文句を口にして、私は早瀬川を見詰める。その直後、噛みつくみたいな勢いで唇を押し当てられた。
荒い息が、本当に肉食獣みたいだ。
今度は、舌が唇をノックした。私が戸口を開くより先に、無遠慮な舌先が無理やり侵入してきて、上あごをなぞり上げる。たったそれだけで、ぞわぞわと腰が震えた。
苦い舌が、甘い香りを伴って、私の口の中を蹂躙していく。舌を吸われ、歯の裏を舐められる。
ようやく彼女が唇を離すと、微かにすえた唾液の匂いがした。
身を離した早瀬川は、長い睫毛を伏せて、じっと私の胸元を見詰めていた。視線を追って、気づく。さっきシャワーを浴びた私は今、ノーブラだ。着ているのはTシャツ一枚だけ。
膨らみの中心が、みっともないくらいに尖り、浮き出ていた。さすがに頬が熱くなる。腕でそっと隠して、早瀬川を睨めつける。
「……えろ瀬川」
「キミが悪い」
「あのさ、いつから?」
「舌を入れたあたりかな」
「ばか、あほ、違うよ。目瞑れよ。じゃなくて。その、いつから、私のこと好きだったの」
「ん」
ウェンリントン越しの瞳が、過去を振り返るように細くなる。長く美しい指が、私の頬をなぞった。たったそれだけで、気持ちが良い、と思ってしまう。この指に、身を任せてしまいたくなる。
「入学直後のオリエンで、私に話しかけてきただろ。『その胸、本物?』って」
「……いや、まあ、その節はごめん」
仕方ないだろう。びっくりしたんだから。
「あのときから」
「嘘⁉ ほとんど初対面じゃん。てか、どういう理由だよ。普通は嫌いになるよ」
「顔が好みだったからね」
「……あ、うん。そっか……」
照れる。
「待った。ってことは、一年半?」
「一年半だよばか。三十回くらい襲おうと思った」
「お、おう……えと、なんか、ごめん?」
「いいよ。正直、私もへたれだったから」
早瀬川が、手持ちのハンドバッグに手を伸ばした。何を探しているのだろう。そう思っていると、ギザギザのついた扁平で小さな袋が二つ出てくる。
「なにそれ?」
「フィンドム」
「……なにそれ?」
早瀬川がにやりと口の端を吊り上げた。するりと顔が近づいてきて、私の耳の穴にそっと囁く。
「指用のコンドーム」
「へ」
そんなのあるの、という驚愕と、なんでそんなもん持ってるの、という疑問と、なんで今それを取り出したの、という確認が、私の中で渦を巻く。
「な、───なんで?」
「勿論あるし、持っているのは万が一のためだし、今取り出したのは挿れるためだよ」
息を呑む。心臓が、破裂しそうに高鳴っていた。
早瀬川は、出来損ないの風船みたいなそれを、右手の人差し指と中指に嵌めた。ローションだろうか。透明な液体が、てらてらと室内光を反射している。いつも見ている指が、どうしようもなく卑猥なものに思えた。
固い唾を飲み込んで、問いかける。
「……あの、早瀬川って、やっぱり慣れてる? 昔女の子と付き合ってたの、ごっこ遊びって言ってたけど」
「ごっこ遊びだったよ。まあ、据え膳だったから、やることはやったけど」
「やることやったの⁉」
「一人は途中で泣き出しちゃったけどね。もう一人は結構楽しんでたと思う」
「マジか……」
顎を掴まれた。唇に軽く触れるだけのキスが落ちてきて、それから耳朶を食まれた。
刺激に、背筋がピンと伸びる。早瀬川の、何も付けていない左手が、シャツの上から胸の膨らみに触れていた。親指の腹が、繊維越しに、硬くしこった先端をなぞりあげる。
「んっ」
「白頭妹とは、どこまでした?」
「……っ、キスは、した」
「その先は?」
「…………裸は見せた。あと、胸、触られた」
ひゃんっ。自分のものとは思えないくらい甘い声が、喉から溢れた。痛痒感が明確な痛みに変わる一歩手前くらいの強さで、彼女の指先が私の乳首を挟んでいる。ざりざりとした布地が、私の薄い皮膚を擦りつけた。息が荒くなる。
早瀬川は酷薄そうに微笑み、かりかりと優しく爪を立てた。
全身が跳ねた。
「はやせがわ、それやだっ」
「一応、確認するけど、アレは大丈夫?」
「アレってなに……」
「生理」
もう限界まで赤くなったと思っていた頬が、更に過熱した。
薄い首筋に顔を埋めるようにして、無言で頷く。乳首を離れた早瀬川の指が、シャツの下に潜り込んで、おへその辺りから這い上がってくる。
長くて冷たい指先に、乳房の下側を持ち上げられた。こすこすと手の皮膚を擦りつけられて、鼻にかかった声が零れる。
汗を吸った上着が、乱暴にめくられる。
「やだあっ」
「嘘つき」
手で触れた痕跡を追いかけるように、ぬめる舌先が肌を這った。
早瀬川は充分すぎるほどの時間と気遣いを費やして、私の全身を甘やかした。私の肉の、熱いところも冷たいところも、硬い場所も柔らかい場所も全部使って、私を楽器みたいに奏でた。
多分、上手かったのだと思う。とても。
私はといえば、彼女の一番柔らかい場所に触れる勇気が出ずに、ひたすらその豊かなおっぱいと、滑らかな太腿ばかりを手と口で愛でていた。
それでも早瀬川は満足そうだった。
果ての無い行為が終了する切っ掛けは、彼女の一言だった。
「水」
「私も……」
ベッドに仰向けで転がりながら、辛うじてそれだけを言った。
健全な水音が聞こえる。ぷるぷると震える太腿に力を込めて起き上がり、壁に背を預けた。僅かなカーテンの隙間から、気怠いオレンジの光が差し込んでいる。
渡されたコップ一杯分の水を、じっくりと時間を掛けて飲み干した。なんだかひどく甘い。気づかないうちに、私の身体はカラカラに乾いていたらしい。
「───あのさ、早瀬川」
「うん?」
「明日、ついてきてほしい場所があるんだ」
彼女を選んだことを、私ははこべに伝えなくてはいけない。そのためには、芹に合う必要があった。芹に会って、はこべのいる場所を教えてもらわなくてはいけない。
夜に沈むようなあの瞳を思いだして、心が疼く。
これからも一人、不毛な荒野を歩き続ける彼女を思って、どうしようもない寂寥が胸を満たしていく。
それでも、私は選択に責任を持たなくてはいけない。
早瀬川が、私の頭を抱き寄せた。裸の胸に頬を寄せる。謝罪の言葉は浮かばなかった。ただ、荒野を歩く後ろ姿だけが、鮮明だった。
(完)
姉の元カノに脅されている。 深水紅茶(リプトン) @liptonsousaku
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