第29話

 そうして、私たちは互いの身体に触れた。

 初めての行為は制限時間ギリギリまで及び、結果として私は、二階の窓から屋根と石塀を伝って白頭邸を逃亡するというアクロバティックを披露する羽目になった。捻挫ひとつせずに済んだところをみると、パルクールの才能が目覚めたのかもしれない。

 もっとも、帰り道は地獄の一言に尽きた。ひりつく左右の乳首、股下の鈍痛、がさつく喉、水分不足、そして病み上がりのような倦怠感。アパートに着くと同時に、私はベッドへダイブし、そのまま気を失うように眠った。

 夢の中にもはこべが出てきて、正直今だけは勘弁してくれ、と思った。真っ青な若さが怖い。二歳しか違わないけれど。


  †


 夏の終わりは唐突に訪れる。

 ある日突然、アスファルトの道から揺らめく陽炎が消えて、蝉の鳴き声が街から失せる。そして半袖のTシャツでコンビニへ繰り出すことを躊躇うようになると、冴え冴えとした秋が始まる。

 

「次乃さんって、魚好きなんですか?」


「水族館の主役って、実は魚じゃなくない? イルカとかペンギンだと思う」


「じゃあ、イルカとかペンギンが好きなんですか?」


「それなりに」


 そういう訳で、私たちの交際は正式なものになった。何が変わったかと聞かれたら、まあナニが変わったのだけれど、いや私はオッサンか。いずれにせよ、そういう感じだ。目下、剥き出しの青さに振り回されている。

 水族館前でバスを降りると、気の早いソメイヨシノが葉を赤に染めていた。

 春にはきっと、美しい桃色を咲かせるのだろう。

 はこべはスキップを踏むように駆けて、くるりと振り返った。

 弾むように、髪が揺れる。

 彼女のインナーカラーも、紅葉に染まっていた。

 深海のようなインディゴブルーから、燃え盛るヴァーミリオンへと。


「次乃さん、今日のプランは?」


「水族館巡って、館内のレストランでシーフードカレー食べて、お土産見て帰るよ」


「時間、余るじゃないですか」


「そうだね……」


「ホテル」


「金がないからやだ」


「配信、止めちゃいましたからね」


 そう。「ねくすと@」は引退した。引退配信にはそれなりの視聴者が集まり、私は投げ銭で冷蔵庫とベッドを新調した。

 あのぬるま湯のような空間は、心地よかったけれど、今の私には余分だった。

 私の居場所は、今、ここにある。

 いつか立ち行かなくなったときは、もう一度、あの場所に逃げ込むのかもしれないけれど。


「じゃあ、次乃さんの家で」


「……ん」


 爛れている。はこべが私の腕を取り、何かを喚起するように自らの身体を押し付けた。すっかり肌に馴染んだ膨らみが、二の腕に当たる。その感触を思い出しそうになって、頭を振った。まだ昼間で、ここは屋外だ。


「あ、でも。やっぱり、カラオケ行きましょうか。久しぶりに、次乃さんの歌が聞きたいです」


「個室で襲ってこなければいいよ」


「次乃さん、私のこと何だと思ってます……?」


「思春期真っ盛りの性欲モンスター」


「いやいやいや」


 違いますよう。鼻にかかった声を出して、甘えるように身を摺り寄せてくる。

 変なスイッチが入る前に、頭を掴んで引き剥がした。ふぎゃあ、みたいな鳴き声が上がる。

 とっとっとっ。勢いのまま、はこべが数歩跳ねて、振り返った。その顔は、秋空みたく澄んでいる。


「歌が聞きたいだけです、次乃さんの」


「あ、そ」


「照れてますか?」


「照れてない」


 私は上を向いた。青い空の高い場所を、鳥が飛んでいく。

 カラオケという選択肢は悪くない。

 今日は、私の好きな歌を歌おうと思った。

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