第28話
日暮れを惜しむみたいに、油蝉が鳴いていた。
それなりの築年数が経っていそうな、郊外の一軒家だ。ドアの傍に据えられた金属の表札に、「HAKUTO」と彫り込まれている。あくの強い住人とは裏腹に、平凡としか思えない佇まいをしていた。
ドアベルに応答は無い。気づいていないのか、無視されているのか。
どちらでも構わない。鍵を使って、扉を開けた。
玄関は広く、そして仄暗かった。土間に置かれた靴は二足だけ。その両方に見覚えがある。
無人のリビングを覗く。対面型キッチンと、70インチはありそうなテレビ。柔らかそうなソファとガラス製のローテーブル。
モデルケースみたいな部屋だ、と思った。寒々しいほどに生活感がない。
目指す部屋の位置は、芹から聞いていた。階段を昇って、一番手前の部屋。廊下の灯り窓から差し込む夕陽が、フローリングを赤々と照らしていた。
ドアの前に立って、深呼吸した。
何の変哲もないドアが、ひどく重厚に思える。
「はこべ」
応えはなかった。
ただ、部屋の中から何かが動く音がした。
「はこべ、入るよ」
取っ手に手を掛ける。引き下げようとして、つかえた。鍵が締められている。
鍵穴は無く、内側から開けてもらう他にない。
私は廊下に座り込み、ドアに背中を預けた。文字通り、腰を据えたのだ。長期戦の覚悟は出来ている。
「開けてくれるまで、ここを動かないからね」
何分くらい経っただろうか。背中に触れる木のドアが軋み、押し返される感覚があった。扉越しの、くぐもった声が聞こえる。
「……何しに来たんですか」
声には棘があった。あって然るべきだった。私はあのとき、怯えて逃げたのだから。
今は違う。
違うということを、証明しなければならない。白頭はこべに。そして、東雲次乃に。
「先に言っておきますけど、無駄ですよ」
「何が?」
「一果さんを諦めろって、そう言うつもりなんでしょう。実らないことが分かってる片想いなんて、不毛で、意味がないですもんね」
「そうだね。確かに不毛だ」
「やっぱり」
扉越しの声に、湿り気が混じる。しゃくりあげるような呻きが、断続的に聞こえた。
「知ってますよ。分かってるんですよそんなの。分かってるに決まってるじゃないですか。どうあっても恋愛って一人じゃ出来ないんですから、そりゃそうですよ分かってますよ」
「はこべ」
「でも好きなんですよ。放課後にデートしたいし、手に触りたいし、同じ本を読みたいし、変な味のジュースをシェアしたいし、キスしたいし、おっぱい触りたいし、春の海を二人で歩きたいし、えっちしたいんですよ。拾った先輩の髪の毛ジップロックで保存してるし、スマホで撮った写真プリントアウトしてミニアルバム作ってるし、それ使って週一は一人でシてるんですよ。気持ち悪いですかそうですかそうですね知ってますよ。でも、」
鼻を啜る音がした。
「好き、なんですもん……」
うわぁ。真っ先に嫌悪感が込み上げる。ドン引きだ。相変わらず、この女は気持ちが悪い。重くて変質的で性欲強くて、バレンタインのチョコレートに爪を混ぜていそうな性格をしている。
でも。
でもきっと、誰だってそんなものだ。恋愛なんてものは、狂っていないと出来ない。映画の中で、ゾンビになった恋人を愛し抜いたあの少年は、きっと、腐りゆく死体の彼女を抱きたいと思っていた筈だ。
イカレている。
けれど、だからこそ恋なのだ。
エンドロールの先にあるどこかのシーンで、少年は正気に返るかもしれない。一生、死ぬまで、そのままかもしれない。
いずれにせよ、それまでの道程こそが、恋なのだ。
「そのままでいいよ」
私は言った。
「そのままでいい。一果のことを忘れろなんて言わない。好きなままでいたらいい」
そうだ。無理やり忘れようとなんて、しなくていい。だってそれは、私の役目だ。私が、私の、東雲次乃の全部を使って、忘れさせると決めたのだ。
はこべのためではなく、自分自身のために。東雲次乃が、前に進んでいくために。
「あの夜の言葉を訂正するよ。いつか私が、忘れさせてあげる。その日まで、一緒に荒野を彷徨ってあげるから」
一瞬の沈黙を経て、勢いよくドアが空いた。ドアは内開きだった。私はバランスを崩して、背中からフローリングに倒れ込む。衝撃で、肺から息が抜けた。
痛みを堪えて、目を開ける。
視界が、逆さまのはこべで埋まっていた。彼女は高校の制服を着ていた。きちんと学校には通っていたようだ。えらいな、と思った。そんなに目元を赤くしているのに。
私を見下ろす色の薄い瞳に、涙の膜が張っている。
潤み、煌めいてる。
おそるおそる、指の背で目尻を掬った。透明な雫が指を伝う。舐めると、かすかに塩の味がした。
はこべが、唾を飲み込んだことが分かった。
「……今の言葉、もう取り消せませんよ」
「いいよ。後悔するかもしれないけど、嘘じゃないから」
「先輩を好きなまま、次乃さんと付き合うってことですよ」
「それでいいよ。とりあえずは」
「私、重い女ですよ」
「知ってるよ」
それ以外のことも、今は、いくらか知っている。
もっと知りたいとも思う。
逆さまのまま、顔が近づく。唇が触れた。触れるだけのキスだった。たったそれだけで、地獄の窯で煮詰めたような熱が伝わってくる。
色褪せたインディゴブルーの髪が枝垂れ落ちて、私の頬に触れた。
ピリピリとした感覚が、私の首筋から鎖骨の辺りを灼いている。はこべの瞳から、レーザーみたいな視線が放たれている。
興奮に濡れて煌めく瞳。
そこにはまだ、恋も愛もない。ただ、未成熟のまま荒れ狂う、若い獣じみた欲望だけがある。
それでいい、と思う。今はそれで。それだけで。
私の頬の輪郭を、鼻の形を目の位置を、おっぱいの膨らみと腰の高さを、お尻の曲線と脚の比率を、愛してくれたらそれでいい。
この肉と骨とDNAだけを愛してくれたらいい。
そこから先は、これからだ。
「せ───性欲も、強い、です、けど」
「それも知ってる」
はふはふと、自分のものではない呼吸音が聞こえた。浅くて熱っぽい、お腹を空かせた野良犬みたいな呼吸だ。今のはこべは、三〇センチの距離と理性を保つことに必死だった。それはもう、憐れみを覚えるくらいに。
幾度めかの、生唾を飲み込む音がした。
「あの、今日。親、いなくて。それ───お姉ちゃんの合鍵ですよね。じゃあ、もう、後三時間は、ぜったい、誰も家に入ってこないんですけど」
「……それで?」
「分からないんですか?」
胸が苦しくなるような声だった。ねとねとと耳に絡みつく、脳以外の器官が発する声だ。
あまりのがっつき具合に、私の中の嗜虐心が刺激された。
「ちゃんと言いなよ。そうしたら、命令だって聞いてあげる」
私は、はこべの頬を撫でた。指先を使って、出来るだけ官能的になるように。
本当は何一つ知らないくせに、態度だけは大人ぶって、私は告げる。
「一果にしたい事、したかった事、全部させたげるよ」
だからどうか、私を好きになって。
東雲次乃を好きになってよ。
はこべの目から、涙が滴る。
それが私に触れて、愛撫みたいに頬を滑り落ちた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「上手くは、出来ないと思います。初めてなので」
「私もだけど」
「……あの。でも、頑張ります、から」
「お、お手柔らかに」
「それはちょっと、無理ですね……」
はこべの指が、ぷちりと、サマーワンピースの一番上のボタンを外した。性急な指先が、鎖骨を通り過ぎる。ブラの下に潜り込み、膨らみの頂点を乱暴に擦り上げる。
「いたいよ、ばか」
遠くで油蝉の鳴く音がする。
夏はまだ終わっていない。終わらない。なにもかもが、これから始まる筈だった。
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