第27話
充電したスマートフォンは、たっぷりと未読のメッセージを溜め込んでいた。早瀬川、藤堂、二ノ宮。ただ、やはり、はこべからの通知は無かった。
翌日は、きちんと大学へ行った。ほんの数日ぶりなのに、随分と懐かしい気がした。
朝方に藤堂が、「絶対にお昼はみんなで食べようね」とグループにメッセージを送ってきた。やはり彼女は天使だと思う。私は謝罪のスタンプを送り、場所と時間を提案した。
そうして第二学食に集合した三人に対して、私は深々と頭を下げた。
「ご心配をお掛けしました」
「ホントだよ、次乃ちゃん。まあ、病気じゃなくて良かったけどさぁ」
サラダに載ったパプリカにフォークを突き刺しながら、藤堂がぷくぷくと頬を膨らませる。
「既読がつかないと怖いよ。通話も出ないし。ね、らいか」
「まあね」
ショートボブを耳にかけて、二ノ宮が頷いた。その左腕には、ぴったりと藤堂が寄り添っている。
「実家ならともかく、東雲さんは一人暮らしだから」
「これがらいかだったら、わたし、半日後には家まで押しかけてるよ」
藤堂が中々気の利いた冗談を言った。私と早瀬川は笑った。
二ノ宮が、ちらりと早瀬川を見て言った。
「でも、何事もなくて良かったよ。特に早瀬川は、随分心配してたから」
「ふん。第一発見者になるのはゴメンだからね。しかも夏場に」
早瀬川が、ずぞぞと音を立ててざる蕎麦を啜る。汁気を帯びた瑞々しい唇が、するすると麺を飲み込んでいく。
「それで、何があったの? 相談したいようなことなら、話、聞くよ」
「それは大丈夫。もう、早瀬川に聞いてもらったから」
「そっかあ。相変わらず、仲良いね」
「君、今度奢れよ」
早瀬川が、ちと山葵を入れ過ぎたな、と鼻を啜った。
午後の授業を受けながら、一果の言葉を思い出していた。好きになるのも、吹っ切れないのもはこべの勝手。確か、そんなことを言っていた。
冷静になれば、一理くらいはあると思う。恋に加害者と被害者が存在するなら、間違いなく恋に落ちる側が加害者だ。
強い思いはなんであれ、ある種の攻撃力を持つ。私たちはつい、一途でひたむきな片想いを応援してしまうけれど、望まぬ恋ほど受ける側にとって迷惑なものは無い。
だから、悪いのは白頭はこべだ。間違っているのも、捻れているのも。
そんなことは最初から分かっている。
でも、いついつまでも、ただ独り、焼け跡で生きていくのは辛いから。
†
翌日、美浜大の日替わりランチは、三種のフライ定食だった。
私は、油を吸ってひどく重たい衣に齧り付き、胃袋へ詰め込むようにして完食した。とにかくエネルギーが必要だった。そして、そのためのカロリーが。
私がこれから、やろうとしていることのために。
食後、美浜キャンパスの中庭に、一果と芹を呼び出した。中庭というか、小さな秘密基地みたいな場所だ。土の地面が露出していて、小さな石のベンチが二つ並んでいる。周囲の視線を遮るように広葉樹が植えられていて、決闘には丁度よかった。
場所の伝え方が分からなかったので、幾つか写真を撮ってメッセージに添付した。時間は指定せずに、「いいから早く来い」とだけ打ち込む。
いつまでだって待つつもりだったけれど、二人が現れたのは十三時を少し回ったころだった。
私は石のベンチから腰を上げて、二人と対峙した。
「今日は、宣言しにきた」
「宣言?」
一果が首を傾げた。ただそれだけで、私は踵を返してしまいたくなる。
「そうだよ。すぐに済むから、そこで聞いてて」
怪訝な顔をした一果が、そっと腕を組む。
私は息を吸って、足場を確かめるように地面を踏み直した。スニーカーの底で、雨を吸い固まった黒い土を踏みしめる。
息を吸う。
「はこべは、私が貰うから」
そうして私は、生まれて初めて姉に宣戦を布告した。
出来る限り、堂々と胸を張る。怯む必要なんて、どこにもありはしない。
「きっと、一果よりも、私のことを好きにさせてみせるよ」
「……へえ?」
私と同じ色の瞳が、嘲るように細くなる。拳を握って、逃げようとする心を奮いたてた。
早瀬川の顔が、脳裏をよぎる。私は、私の選択に責任を持たなくてはいけない。
一果が、鼻で笑った。
「はこべちゃんは、私の信者だよ。それを、次乃が?」
「そうだよ。どれだけ掛かっても、あんたから奪ってみせる」
口に出すと、その重みに足が震えた。
産道を通って生まれた時からずっと、一果は私の前を歩いていて、それは決して、これから先も変わらないと思っていた。
けれど今、ごくごく局所的ではあるけれど、私は、私の神様を超えようとしている。
「ふうん」
私を見つめる一果の瞳は、どこか焦点がずれていた。今ここにいる私ではなく、もっと別のものを見ようとしている気がした。
やがて一果は、深く長い息を吐いて、素っ気なく言った。
「あの次乃が、言うようになったね」
「いつまでも、妹扱いしないでよ」
「するよ。いつまでも、一生、死んでも、あんたは私の妹だもん」
悔しいけれど、それは一果の言うとおりだ。
血が繋がっているからなんて、そんなことは関係がない。遺伝子だってどうでもいい。ただきっと私は、この先も、どうしようもないくらいに、この女のことを姉として意識し続けるのだろう。
「で、そっちのお姉ちゃんの感想は?」
「いいんじゃないかしら。少なくとも、今よりは前向きで」
芹の言葉に、一果が肩をすくめた。
「だって。やったね。家族公認じゃん」
「別に、誰に公認される必要もないけど」
「そりゃそうだ」
からからと一果が笑った。夏の日差しみたいな笑顔だった。これまでずっと私を照らし続けてきた、疎ましくて妬ましい、大好きな笑顔。
でも。
「あと、もうひとつ。一果、ちょっと屈んでくれる?」
「ん? こう?」
一果が膝に手を当てて、中腰の姿勢になった。
私は手にしたショルダーバッグを思い切り振りかぶり、その横っ面に叩きつけた。ぶべら、みたいな悲鳴を上げて、一果が地面に転がる。
綺麗な藍色のワンピースを土で汚した姉は、ぽかんと口を開けて私を見上げた。
「ごっこ遊び扱いしたことは、これで許し……はしないけど。まあ、勘弁してあげる」
高鳴る鼓動を押さえつけて、精一杯、不遜に聞こえるよう言い放つ。
一果が、黒い泥で汚れた服を見下ろして、再び笑った。
「次乃にぶたれたの、初めてかも」
「実はそうでもない。小学生のとき、プリンを勝手に食べられて、思わず手が出たことがある」
「……それは私が悪いね」
一果はそう言って、過去を懐かしむように目をすがめた。それから首を振り、地面に座り込んだまま、芹に向けて唇を尖らせる。
「ちょっと。親友がぶたれたのに、ノーリアクションって何?」
「自業自得。いい薬ね」
「私、何も間違ってないと思うけど」
私は一果に手を差し伸べた。
「恋に落ちると、人は間違うのが正解になるんだよ」
「何それ」
一果の手のひらが、私のそれと重なる。鏡写しのように、全く同じ形の手。
一果の手は、私と同じ、ただの女の子の手だった。二十歳になったばかりの、柔らかい手だ。断じて、神様の手なんかじゃない。
「恋愛なんて狂ってなきゃできないってこと。私は、はこべと一緒に間違うことにした」
力を込めて、手を引く。一果が立ち上がって、スカートのお尻を叩いた。濡れた泥は繊維の奥にまで染みていて、叩いたくらいではどうにもならない。いい気味だった。
一果は私の顔を見て、「ふん」と横を向いた。
「次乃のくせに、生意気な」
続いて、芹に向き直る。
「実家の住所、教えてあげなよ。あと、合鍵も貸してあげて」
「えっ」
「芹を呼んだのは、そのためでしょ。いいよね、芹」
「構わないけど」
芹がスマートフォンを操作した。私のポケットが振動する。トークルームに、ある番地が届いていた。最寄り駅は、ここからそう遠くない。
「共働きだから、夜まで両親はいないわ。で、これが合鍵」
銀色の鍵が、放物線を描く。夏の太陽を反射して、きらきらと輝く。落とさないよう、両手でキャッチした。
何の変哲もない、ディンブルキー。けれどこれが、私にとっての「さいごのかぎ」だ。
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