第26話


 もちろん、この夜の話はここで終わる。

 私とはこべはそれぞれの寝床に戻り、眠りについた。

 やがて朝の光が差し込むと、私たちは墓から這い出た直後のゾンビみたくのろのろと顔を洗い、順番に袋からスティックパンを一本ずつ取り出して、もそもそと食べた。

 私ははこべを見ていて、はこべは一果を見ていて、一果は朝のニュースを見ていた。どこかの県のどこかの動物園で、何らかの動物が雄か雌の子供を一匹以上産んだらしかった。

 はこべと一果は、同時に私のアパートを出て行った。駅に着くまでの間、二人で何を話すんだろう、と思った。


 独りになった私は、水道水の蛇口を捻り、マグを手に部屋をぐるりと見回した。生温い水は、カルキの匂いが鼻につく。床に落ちたタオルケットを拾ってベッドへ投げると、かすかにバニラが香った。

 七畳とすこしの部屋が、ひどく広い。

 大学は、サボることにした。


 サボって日がな一日、ゲームばかりしていた。オープンワールドのRPGで、ひたすら雑魚を斬り伏せていた。斬って、移動して、斬って、移動して、そうして元の場所に戻って斬る。堂々巡りだ。

 お腹が空いたらスティックパンを齧って、それが無くなったらカップ焼きそばにお湯を注いだ。それも無くなったので、買いだめしていた歌舞伎揚げを開けて食べた。水だけはきちんと飲んでいた。

 はこべからの連絡は、無かった。そうするともう、私から送るべき言葉なんて、ひとつもありはしなかった。

 この部屋に残された歌舞伎揚が残り二枚になったとき、チャイムが鳴った。


「随分可愛い顔をしてるぞ、君」


 膨らんだビニル袋を手に下げた早瀬川が、呆れた顔で立っていた。


  †


 渡されたゼリー飲料を飲むと、鮮烈な甘さに舌が痺れた。夢中で啜る。それから、プラスチック容器に入った中華粥を渡された。それもペロリと食べた。早瀬川が明太子のおにぎりを剥いていたから、自分で食べるのかと思ったら、それも渡された。食べた。美味しかった。


「早瀬川は食べないの」


「食べるよ」


 そう言って、彼女は別のおにぎりに齧り付いた。

 炭水化物から得たエネルギーが脳に回る。ようやく、疑問が湧いた。早瀬川は何をしに来たんだろう。ビニル袋はまだ膨らんでいる。こんなに食べ物を買い込んで。まるで病人への差し入れだ。


「あの、これ、なんで、」


「はあ?」


 ウェリントンの眼鏡の奥で、怜悧な目が剣呑な光を放つ。


「大学で姿を見ない。LINEに既読がつかない。それが三日も続けば、そりゃあ病気を疑うさ」


「……三日?」


 私はスマートフォンの画面をタップした。画面は暗いままだ。いつの間にか、充電が切れていた。

 体内時計がひどく狂っていた。前に寝たのは何時間前だろう。記憶を手繰っても曖昧で、今更のように恐怖が湧き上がる。

 下手をすれば倒れていたかもしれない。独りきりのままで。


「……ありがとう。助かった。早瀬川、お見舞いに来てくれたんだね」


「ふん、そうだよ」


 ついと横を向いて、指についた米粒を唇に押し込む。


「で、何があったのさ。見たところ、風邪じゃないみたいだが」


「それは……」


「言いにくいなら、言わなくていいよ」


 素っ気ない言葉の奥に、気遣いが滲んでいた。

 ビニル袋に残った中身を改める。経口補給液。栄養補助食品。真っ赤に熟したリンゴと、桃の缶詰。パック入りのバニラアイス。

 その全てに、無言の気遣いが籠っていた。これで早瀬川に全てを打ち明けられないなら、きっと私は、この先誰にも相談できないだろう。


「いや、聞いて欲しい。多分、早瀬川にしか話せないから」


 そうして私は、これまでの説明を始めようとして───ふと気づいた。

 三日経っている。この夏場に。


「その前に、シャワー浴びてきていい?」


 彼女の返事を待たず、私は洗面所へと逃げ込んだ。



 早瀬川は真剣に話を聞いてくれた。時折、両手で顔面を覆っていたけれど、あれはどういう意味だろう。明晰な友人は、最終的には深々とため息をついて、吐き捨てるように言った。


「結局、ビビって逃げたわけか」


「言い方」


「それで? どうしたいのさ。君は」


「……まあ、それが問題なんだよね」


 そうなのだ。

 早瀬川の罵倒は的を射ている。結局私は、一果以上の存在になる自信がなくて逃げ出した。それが事実で、しかし問題はその先にある。

 そもそも私は、はこべとどうなりたいのだろうか。

 自分の気持ちというのは、思った以上に分からない。向き合い、掴もうとすればするほど逃げていく。

 そういう葛藤を素直に口に出すと、早瀬川が、ぽつりと呟くように言った。


「じゃあ、テストでもしてみる?」


「テスト?」


「そう、テスト」


 私は深く、というか何も考えずに頷いた。

 早瀬川はおもむろに立ち上がり、私の肩を掴んで、ベッドサイドへと押しやった。首筋にシーツが触れる。


「はやせがわ?」


 早瀬川は何も応えず、私の正面で四つん這いになった。肩は掴まれたままだ。

 獲物の喉笛に噛り付く、猫科の肉食獣みたいだと思った。けれどジェルネイルをつけていない彼女の爪先は、丸っこく丁寧に手入れされていて、振り解こうと思えば簡単にできそうだった。

 それでも、おそらく出会ってから初めて、彼女のことを、怖いと思った。


「あの、なに、するの」


「だから、テストだよ。君の性的指向と、白頭妹への感情について」


 嫌なら言いなよ。

 その時初めて、私は早瀬川がきちんと化粧をしていることに気がついた。丁寧に睫毛を持ち上げて、流行色のリップを塗っている。首筋からは、洗剤に似た、ホワイトムスクの香りがした。

 友人の見舞いに費やすには、少しだけ過剰なコストだと思った。

 顎に指が触れる。早瀬川の顔が、唇が近づく。


「んっ」


 抵抗を認めながらも、その隙を与えない、絶妙な速度だった。ふにゃり。柔らかなものが触れた。はこべのそれよりも柔らかく、苦いスパイスのような香りがした。

 あ。こいつ外で吸ってきたな。そう思った。

 人前では控えているが、早瀬川は喫煙者だ。

 はこべほど無遠慮でも、一果ほど淡白でもない口づけだった。もちろん、舌は入ってこなかった。唇が触れるだけの、長くて控え目なキス。

 体温が離れる。


「どう?」


「───ど、どうって」


 何がだ。


「嫌じゃなかった?」


「嫌では、ない、けど」


「なら、気持ちいい?」


 いや何言ってんだこいつ。だって早瀬川は友達で、友達とのキスが気持ちよかったら問題だろう。だって友達だし。友達はキスをしない。少なくとも、この国では。

 混乱したまま、否定した。


「は、や、べつに」


「じゃあ、もう一度」


「やだ、やだ、もういいから───やっ」


 嫌なら言えって言ったくせに、早瀬川はもう一度、私へ唇を落とした。さっきよりも長い。舌は入ってこなかったけれど、上下の唇を一度ずつ、仔猫より優しく甘噛みされた。

 吸う息が、甘くて苦い。

 ようやく離れた早瀬川が、淡々と言った。


「今度は、どう? 興奮した?」


「こうふん、って」


「どきどきしたか、ってことだよ。白頭妹と比べて」


 はこべと比べて。


「ここまでされて嫌じゃないなら、君は彼女と同じだよ。『もどき』じゃない。あとは、単純な色恋の話」


 どっちがいいか、という話だよ。

 何事もなかったみたいに、早瀬川が平然と言った。

 どっちが、って。そんなの、比べられるのか。比べて良いものなのか。

 比べないと、いけないのか。

 ───そうなんだろうな。

 早瀬川のキスと。はこべのそれ。私は二つを心の天秤の両側に乗せ、慎重にその揺らぎを確かめた。

 ためつすがめつ、繰り返し心に問いかける。

 確かに、天秤は傾いていた。

 弱っていることに気づいてくれたのも、夏の暑さを掻き分けて家まで来てくれたのも、ゼリー飲料とお粥と果物を買ってきてくれたのも早瀬川なのに。今だって、いちばん頼りにしたい相手は間違いなく早瀬川なのに、確かに天秤は傾いていた。

 その理不尽さが、少しだけ寂しい。


「はやせがわは、」


 追い込まれた姿勢のまま、私は尋ねた。


「こうふんしたの?」


 正直なところ、もしも早瀬川が頷いたなら、それもいいかなと思った。

 慣れていそうだし、優しそうだし、それに───上手そうだし。

 獣みたいに乱暴なだけの、はこべと違って。

 色々と自覚した直後にこんなことを考えているのだから、案外私には、淫乱になる才能があるのかもしれない。


 早瀬川の長い指先が、私の頬に触れて、猫をあやすように丁寧に輪郭をなぞる。くすぐったい。しばらくの間、彼女はそうしていた。

 硝子越しの目に、青い寂寥があったような気もしたけれど、それは私の勘違いかもしれなかった。

 やがて早瀬川は私の額を指で弾いて、からりと言った。


「友達相手にするわけないだろ。ばーか」

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