第25話

 部屋に戻ってきたはこべは、一果の姿を見て石になった。一果が立ち上がり、「久しぶり」と言いながらその頭を撫でても、微動だにしなかった。

 笑えることに、視線だけは分かりやすく一果の下着姿をなぞっていた。執拗なくらいに。

 一果がシャワールームへ向かったあと、はこべは部屋の中央にある座椅子に腰掛けて、ぎゅっと膝を抱えた。薄い壁越しにシャワーの音が聞こえてくる。彼女は深々と息を吐きだし、曲げた両膝に顔を押し付けてから、さらにもう一度とびきり重たい息を吐いた。


「……なんで、今……」

 

 それは私も思った。


「あの。もしかして、私の話してたりしますか」


「まあ、したけど」


「先輩、なんて言ってましたか」


「ごっこ遊びだったって」


 膝に顔を埋めたまま、ぐうぅ、とうめく。聞いているこちらの胸が痛くなるくらいに、悲痛な声だった。

 その姿を見れば、一目瞭然だった。やっぱりこいつは、これっぽっちも一果のことを吹っ切れていない。

 今にも崩れ落ちそうな声で、はこべが言う。


「……キス、させてくれたのに?」


「その話もした。とばっちりで私もされたよ」


 がばっと顔が跳ね上がった。


「え、したんですか、キス」


「されたんだよ。意味わかんない。誰にでもするとか言ってたし」


 いつからあんな風になってしまったのだろう。確かに一年半くらい前まで、同じ屋根の下で暮らしていたのに。一果が変わったのか、私の目が眩んでいたのか。


「あのさ。やっぱりあんなやつ、や、め」


 いつの間にか、はこべが目の前にいた。彼女は私のシャツの襟首を掴み、ぎゅっと絞る。ふわりと石鹸の匂いが漂った。細い指先が私の唇の端を押さえつける。皮膚に、ぎゅうと爪が食い込む。

 呑み込まれそうに深い色をした瞳が、私の目を覗き込んだ。


「グロスの跡。今の話、本当なんですね」


「え、あ───んっ」


 柔らかなものが、私の口を塞いだ。シーツを握っていた手に力が篭る。鼻腔にバニラの匂いが触れ、自分のものではない唾液が舌先を犯す。


「はっ、ふ。んくっ」


 上唇を噛むように吸われた。唇の裏の粘膜に歯が当たる。後頭部に水っぽい音が響いた。全身が、ふるりと震えた。

 唇が離れる。

 離れぎわ、はこべの吐息が肺に落ちた。濡れた唇を腕で拭う。服が汚れると思ったけれど、気にしてはいられない。

 

「……なに、すんの……」


 喉から漏れた声は、自分のものとは思えないほど弱々しかった。とくとくと、心臓が早鐘を打っている。それを自覚して、更に頬が熱くなった。

 ありったけの抗議を視線に込めて、はこべを睨めつける。


「こういうのはナシだって、」


「うるさい。少し黙っててください」


 また、唇を塞がれた。二度目の口づけは打って変わって紳士的で、親愛を示すかのように丁寧だった。

 それなのに、全力で走っているみたいに心拍がうるさい。自由落下に似た浮遊感が心を埋めていく。どこまでも果てのない闇の底へ、墜落していくようだった。

 唇が離れた後、私は言った。


「───もう、諦めなよ」


 はこべが、暗い目で私を見下ろした。拳を握る。くしゃりとシーツに皺が寄った。


「不毛じゃん。フラれた相手に執着して、他人を身代わりにして、それで何になるんだよ」


 一度口に出したら、止まらなかった。さっきまで触れていた桜色が、歪に強張る。それでも、込み上げてくる言葉に歯止めが効かない。


「そんな意味ないことしてんなら、そんなに恋がしたいなら、」


 私にしなよ。

 肝心な言葉に限って、喉につかえて出てこない。私は顔を背ける。たった一言が、どうしようもなく遠かった。

 理由なら分かっている。誰だって、失敗すると分かっている道を進みたくはない。

 やがて一果が戻ってきた。私は超高速でシャワーを浴び、捨て鉢な気分になりながら、二人に向けて提言した。


「ベッドとタオルケットとIKEAの冷感ラグがある。誰がどれを使うか決めよう」


「次乃が家主なんだから、ベッドでいいと思うよ?」


「……いや。最近クーラーの調子が悪いし、今日は熱帯夜になるらしいから、私は冷感ラグがいい。ベッドは譲るよ」


 一果が、はこべの座っているほうを見た。はこべはまだ、曲げた膝に顔を埋めている。


「なら、はこべちゃんがベッド使いなよ。それとも一緒に寝る?」


 俯いたまま、はこべは首を横に振る。


「いちかせんぱいが使ってください」


 そう言うと、彼女は床に投げ出されていたクリーム色のタオルケットを掴み、もそもそとミノムシのように身体へ巻きつけた。消え入りそうな声で言う。


「私は、これでいいです」


 そういうことになった。



 学生用の1Kアパートは、三人が寝泊まりするように出来ていない。脱いだ服とかゲーム機とかゴミ箱とか配信機材が詰め込まれたカラーボックスを避けて床に眠るなら、どうしても寝息が聞こえる距離になる。

 ベッドを譲ったのはそのためだ。私が権利を放棄すれば、はこべは一果に譲るだろうと踏んでいた。

 どれだけ惨めな場所でも、はこべと一果の間に挟まっていたかった。

 消灯して、水色のラグに身を横たえる。床の硬さがダイレクトに伝わってきて、寝心地が良いとは言えない。そのうえ、絶え間ない雨音が耳に障った。

 寝付けずにいるのは、私だけではなかった。

 腕枕が出来そうな距離に、はこべの顔がある。暗闇でも、その目が開いていることが分かった。

 私たちはしばらく無言で、ぼんやりとお互いの顔を見つめていた。

 ややあって、ベッドから聞こえる寝息のテンポが変わった。それで、一果が眠りに落ちたのだと分かった。

 闇の中で気配が動く。

 ミノムシが羽化して、私を覗き込んでいた。垂れ下がった髪が、私の頬をくすぐる。

 闇の中では、青も黒も見分けがつかない。

 ただ、いつも涼やかな目が、熱を込めて爛々と瞬いていた。視線が、舐めるように私の輪郭を這う。薄いナイトウェアの生地を、透かし見ようとしているかのように。


「動かないで、ください」


 息苦しい声だった。

 荒く、熱い吐息が耳に触れた。ナイトウェアの、上から二つ目のボタンだけを外された。布が浮く。その隙間から、指が入り込んでくる。

 指先が、私の膨らみを蹂躙した。顎が跳ねる。手で口を覆う。声を噛み殺すと、代わりに涙が滲んだ。

 潤む視界に、はこべが映る。火照り、必死さを孕んだ瞳。それでいて、どこか夢を見るように浮ついた目。

 こんなの馬鹿でも分かる。

 はこべは今、想像の中で、一果に触れているのだ。

 一果の肌を、好きな人の下着姿を見てしまったから。

 それで抑えが効かなくなったから。

 だから、一果の肌に触れるつもりで私を撫でて、摘んで、さすって、捏ねて、自らを慰めて、そうしてどうにか、欠落を埋めようとしている。

 触れる手の冷たさに、心臓が震えた。今の私は彼女の劣情を満たすための道具で、要は血の通ったラブドールでしかなかった。


 繰り返し、丹念に触られた。はこべが満足するまで、私はただ、瞼を閉じて声を噛み殺していた。

 やがてはこべは深く息を吐いて、私の服から手を引き抜き、言い訳みたいな丁寧さで第二ボタンを留めた。

 彼女の瞳に宿っていた熱狂は、もう消えていた。代わりに、暗い穴のような闇があった。

 唇が動く。


「さっき、言いましたよね。諦めたら、って」


 抑揚のない、冷めた声だった。縋りつくように肩を掴まれて、爪が皮膚に食い込む。けれどそんな痛みよりずっと、目の前の少女から伝わる感情が痛かった。


「───諦めさせて、くれますか」


 固い唾を飲む。

 絶え間ない雨音が、意識から遠ざかる。

 もしここで頷けば、何かが始まるんだろうか。

 私の、欲しいものが手に入るのだろうか。

 でも。

 私に触れる、瞳の熱狂を思い出す。きっと、あれが白頭はこべの恋の形だ。どす黒く、下劣で、生々しい剥き身の衝動。

 あんなにも熱く狂おしく捩れたものに取って代わる何かを、一から築き上げろって?

 私が?

 そんなこと。そんなの。


「───ごめん」


 出来る訳がない。だって、


「私じゃ、一果の代わりにはなれないよ」


 はこべが、水気を帯びた目を伏せる。

 沈むように深い夜の底で、雨はまだざあざあと降り続いていて。今はまだ、止む気配さえなかった。

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