第24話
「いや、突然降られちゃってさ。しかも家の鍵が見つからなくって。もう、ほんとに死ぬかと思ったよ」
良く知っている声が遠くに聞こえる。飛行機に乗った直後みたいに、耳がぼやけていた。
「さすがにこの格好でカラオケにも入れないしさ。この辺、ビジホもないし、もうどうしようかと。そこでフッと、次乃のこと思い出したんだ」
一果が何かを言っている。けれど、それを理解できない。なんで、という疑問だけが頭の中を埋め尽くしている。
なんだって今日で、よりにもよって今なんだ。
「だからさ、入れてよ。次乃」
寒いよ、と一果が言った。
「このままだと、おねーちゃん、凍えちゃうよ」
蒼白な唇が微かに震えている。それだけはどうしようもなく真実だった。
否応もなく、私は、そっとドアチェーンのロックを解除した。
†
「シャワー浴びてるの、彼氏?」
玄関で水浸しの服を脱ぎながら、一果の目が好奇に輝いた。
私は首を横に振った。少なくとも、「彼氏」ではないことは確かだ。それを見て、一果が「良かった」と胸を撫で下ろす仕草をした。
「いや、さすがに男の前でこの格好は不味いよね」
上下揃った下着姿を見つめる。確かに不味いな、と思った。考えようによっては、そこらの男に見せるよりもずっと。
私はカラーボックスから引っ張り出したバスタオルと、貯めてあるコンビニのビニル袋をまとめて玄関へ投げつけた。受け取った一果は、タオルを肩に巻いて、ビニル袋にぐしょぐしょの服を詰め込んだ。
「次乃の友達? 私も知ってる?」
「……知ってる」
「え、うそ。誰だろ」
「いいから、拭いたら早く上がって。あと服、干すから貸して」
口と身体が、勝手に動いているかのようだった。私は無心で濡れた服を室内干し用のハンガーに引っ掛け、ケトルで沸かした湯で紅茶を淹れた。
一果は下着姿のまま、私が注いでやった紅茶で両手を温めながら、にこにこと微笑んだ。
「なんか久しぶりだね、次乃と話すの」
「……正月ぶりだから、たかだか半年でしょ」
「半年も、だよ」
さらりと付け加える。「私は寂しかったよ」
こういうことを抜け抜けと言えるのが、いかにも一果だった。
「そんで結局、誰なの。友達?」
「白頭」
「ハクトー?」
首を傾げる。心当たりがある反応ではなかった。思わず、頭に血が昇った。なんでお前が、はこべの苗字を忘れてるんだ。
苛立ちを隠さず、吐き捨てるように言った。
「白頭はこべ。あんたの後輩」
「はこべちゃん? え、なんで?」
一果の目が、丸く見開いた。くそ。なにがはこべちゃんだ。
「どうでもいいでしょ」
「いや、まあ、そうなんだけどさ。え、ホントに? やー、世の中狭いね」
「本気で言ってる?」
一果の首が横に倒れる。もういい、と思った。目尻の奥が熱い。なんで私が泣きたくならなきゃいけないのだろう。
窓を叩く雨の音が、どんどん強くなっている。
熱い息を呑み込んで、私は言った。
「付き合ってたんでしょ」
「ん?」
「はこべと」
ああ、と思い出したように一果は頷いた。言われるまで、すっかり忘れていたらしい。蹴とばしてやろうかと思った。
「そんなこともあったね」
「そんなこと、って」
「私、あんまり昔の関係って興味ないんだ。あんなの、ただのごっこ遊びだしね」
あっさりと、一果はそう口にした。彼女の言葉はどれもこれも風船みたいに軽くてふわふわしていた。どれもこれも、「昨日の夕食はカレーでした」という台詞と全く同じ重さしか持っていない。
「……キスした、って。言ってたけど」
「それが? 別にキスぐらい、友達でもするじゃん」
カッと目の前が赤くなる。怒りが口を衝いて飛び出した。
「しねーよ!」
「するって。私するよ。男女問わず」
「はあ⁉︎」
「次乃ともよくしたじゃん」
「小学生のころの話だろ!」
音もなく一果が立ち上がった。そこからの動きは熟練のダンサーみたいに滑らかで、私は顔を背けることさえ出来なかった。
顎に指が掛かって、唇に柔らかなものが押し当てられる。
一果の。双子の姉の唇だった。
吸ってしまった吐息からは、微かにブランデーの、甘い匂いがした。
「ほら」
「何が⁉︎」
「私は次乃のこと、好きだけどさ。そういう意味では好きじゃないよ。でも、キスは出来る。まあこの先はシンドイけど」
当たり前だ。何言ってんだこの馬鹿姉。
姉の、一果の顔を睨みつける。こんなやつだったっけ? まるで、知らない誰かが入れ替わったみたいだ。
腹の底で、ぐつぐつと怒りが煮え滾る。
だって、はこべは。あんなの、どう考えたって。
「はこべは、本気だったんだよ。記念受験なんかじゃない。第一志望の本命だった」
「ふーん。それで?」
それで、って。なんだそれ。
「今もまだ、一果のことが好きなんだよ」
「知らないよ。そんなの、はこべちゃんの勝手でしょ」
絶句した。
一果の口から出る言葉とは思えなかった。何についても優秀で、いつも身綺麗で、誰からも愛される東雲一果の唇から出る言葉か、それが。
「私を好きになったのも、それを一年以上も引きずってるのも、はこべちゃんの勝手じゃん。私に何の責任があるのさ」
それは。
それは───確かに、そうかもしれないけれど。
一方的に好きになって、勝手に焦がれて、自ら望んで焼け野原になっているだけではあるのだろうけれど。
「ほんと、みんな勝手だよね。懐いてくるから可愛がってあげて、暗い顔してるから声掛けてあげて、好きだって言うから付き合ってあげただけじゃん。なんでそれで満足しないかな。そのうえなんで、好きになってあげなきゃいけないの」
「……それは、」
「芹だけだよ。面倒臭いこと言わないの。芹は私のことが大好きだけど、それだけで満足してくれるから、わりと好き」
私は呆然と一果の顔を見つめた。
双子の姉妹なのに、生まれてから十八年も一緒にいたのに、一果は私の知らない表情をしていた。
何もかもがうんざりだ、とでもいいたげな顔をしていた。
間抜け面を晒しているだろう私を、一果が一瞥した。
「ああ」
見透かしたように、唇だけで微笑む。
「次乃。もしかして、あの子のこと、好きになっちゃった?」
なら、ごめんね。軽薄に告げて、一果はマグの紅茶を飲み干した。
早瀬川の言葉が脳裏をよぎった。いつだって、一番手に欲しいものは手に入らない。そうだ。全くもって、そのとおりだ。
そして私が望むものは、いつだって、一果が手に入れるのだ。
どこか遠い場所で、シャワーが止まった。
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