第23話
『十八時以降は家に居てください』
はこべから命令文が飛んできたのは、四限の終わり頃だった。
要件を書かずに予定だけを抑えようとするなよ。そんなことを思いながら、返信する。
『了解』
あっさり受け入れた挙句、帰り際にちょっといい店で紅茶でも買おうかと考えている。おいおいマジかよ、東雲次乃。
マジだった。
四限の中国語講義が終了した後、私は地獄みたいに暑い夏の夕暮れを十二分間歩いて、駅前の小売店へ向かった。そして更に二十分と一四八〇円を消費して、苺フレーバーの紅茶パックとピスタチオ入りクッキーを購入した。
八百円もするクッキーなんて、生まれて初めて買った気がする。
ロゴ入りの紙袋をぶら下げて家路に着いた私は、正直、浮かれていたと思う。まるで子供の頃、友達の家へ呼ばれたときみたいに。うっかりすると、足がスキップをはじめかねないくらいに。
眩い高揚感は、アパートの前ではこべを見つけた瞬間、最高点に届いた。彼女は制服のブラウスをオレンジに染めて、手にエコバッグをぶら下げていた。
私を見つけたはこべが、ふわっと微笑む。
その笑顔が目に入った瞬間、私は息を呑んだ。なんというか、その。
可愛い、と思った。びっくりするくらいに。
丁寧に整えられた指先が、夕陽を浴びてきらきらと輝いている。淡い色のグロスが、濡れたように艶めく。スカートから伸びる足の細さに、胸がきゅっと締め付けられる。
こんなに可愛くて大丈夫か、と思った。誘拐とかされるんじゃないか。
だって、こんなの。
「次乃さん?」
「わぁ!」
「どうしたんですか?」
どうもしてない。多分。
連れだって、アパートに入った。
はこべが手にしていたエコバッグには、トマトと合い挽き肉、小ぶりな玉ねぎとニンニク、それから乾麺が入っていた。それから折り畳まれた紺色のエプロンも。
「パスタを作ります」とはこべが宣言し、私は拍手した。
「ところで我が家には塩とスティックシュガーとめんつゆ以外の調味料はないけど」
「トマトソースの味付けは基本的に塩だけですよ」
「え、そうなの⁉︎」
何言ってんだこいつ、と冷たい視線が語っている。知らなかった。これまでずっと、ケチャップ的な物体やウスター的な液体が入っていると思っていた。
はこべはエプロンに腕を通し、腰の後ろで紐を結んだ。キッチンの蛍光灯に照らされた後ろ姿に、妙な感慨を抱く。高校の制服にエプロン。現実味がないのに、妙に既視感のある組み合わせだ。
彼女が手際よく玉ねぎを刻むたび、ひらひらとスカートの裾が踊った。
「あ、トマト取ってください」
「はい。あのさ、はこべ。やっぱりお金払うよ」
やはりそれが正しいと思う。今手渡したトマトだって、もちろんタダではない。二個で三〇〇円くらいはするだろう。
「いいですよ、別に。私が勝手にやってることなので」
「まあそれはそうなんだけど」
廊下の壁に背をつけた。私の部屋のキッチンは、ワンルームと出入り口を結ぶ廊下の壁に埋め込まれている。
「家の冷蔵庫から持ってきただけですし」
おいおい。
「それ、親に叱られたりしない?」
「別に。何も言わないですよ。私に興味ないんで」
さらりと告げられた言葉には、温度が欠落していた。すっと心臓が冷える。追求すべきか迷ううちに、はこべが振り返った。
「鍋にお水張って、火にかけてください」
タイミングを失った言葉は、宙に拡散して立ち消えた。真新しい鍋に水道水をなみなみ注いで、火にかける。
狭いキッチンに二人で並ぶと、まるで親友か、恋人みたいだった。
「頂きます」
「……い、頂きます」
出来立てのボロネーゼは、ひき肉の味が濃くて、丹念に火を通したトマト特有の旨味と甘みがあって、舌が痺れるくらい美味しかった。
パスタを食べるはこべの手つきは、どこか芹に似ていた。きっと私の手つきも一果に似ていて、おそらくはそういうところがはこべの評価に繋がっている。
綺麗に食べ終えた後、ケトルで水を沸かした。高い紅茶からは、甘酸っぱい、春めいた香りがした。
「はこべ、料理上手だよね。家でも作るの?」
「今はあまり」
ビニル袋からピスタチオクッキーの箱を取り出して、封を切る。輸入品のお菓子は容赦なく甘くて、だから美味しい。
はこべはクッキーの空き箱を手に取り、英語で書かれた商品説明欄をしげしげと眺めてから言った。
「これ、わざわざ買ってきたんですか?」
「えっ。あ、うん」
「私のために?」
「いや別にあんたのためっていうか単に自分で食べたかったからだけど」
なんだこの台詞。ツンデレか。私そんなキャラだったのか。嘘だろ。
「へー」
はこべが目を細める。なにもかも見透かされているようで、居心地が悪い。
「この前から思ってましたけど、次乃さんって、案外私のこと、好きだったりするんですか?」
ピスタチオの欠片が気管に入り、ひどく咽せた。そんな私を鼻で笑って、はこべが立ち上がる。背後に回り込んで、するすると背中をさする。
喉のえづきが収まったころに、彼女は私の背中に体重を預け、腹の上へと腕を回した。耳元に息が触れて、ぴしりと全身が硬直する。
熱を帯びた耳朶を、囁き声が撫でた。
「忘れちゃ駄目ですよ」
───何を?
問い返す前に、はこべが身を離す。そして彼女は、部屋の片隅に置かれたSwitchを指差して言った。
「ゲーム、しませんか。賭けは無しで」
無数のミニゲームが詰まったソフトを選択して、赤青のコントローラをひとつ、はこべに手渡した。
私たちはやたら弾速の速いピンポンをし、金庫の鍵を開け、牛の乳を搾り尽くした。正直、楽しかった。声が出るくらいに。
「やたっ」
無邪気にそう叫んだはこべが私の腕を叩いたとき、その頭の天辺から、甘いバニラの香りがした。
そしてまた一つ、私の中にある何かが滑落した。
楽しさに余計な意味が生まれる。ゲームによる緊張感が、胸の高鳴りが、脳によって過大解釈されていく。
画面の中のお侍さんと繋がった私のコントローラーが振り下ろされる、その瞬間を見逃すまいと見つめる瞳の真剣さが、胸に深く突き刺さる。いい加減、認めないといけない気がした。
たぶん、わたしは。
おそらく、ともすれば、多分、もしかすると。
きっと。
彼女のことを。白頭はこべのことが。
「あの、はこべ」
「なんですか話しかけて気を逸らす作戦ですか」
「いや。その、違うけど」
致命的な言葉がこぼれそうになる。ばくばくと心臓が鳴っていた。言葉が喉につかえて、上手く出てこない。
そんな私を見て、はこべはため息をつき、そっとコントローラーを床に置いた。
視線が窓の外へ向く。
「雨」
「え?」
「雨、降ってるじゃないですか」
言われて初めて気がついた。確かに先程から、大粒の雨がバチバチと窓ガラスを打ち据えている。
「私の家、駅から結構歩くんですよね。この時間はバスも少なくて、あと私、靴に水が入るの嫌いなんです。本当に嫌い。だから、」
視線がぶつかる。
一拍置いて、はこべが言った。
「だから───泊めてくれませんか」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
反射的に思い浮かんだのは、言い訳だった。断るためではなく、受け入れるための言い訳。
雨だから。もう夜だから。身体を冷やすのは良くないから。そういう、結論ありきの理屈だけが脳内を埋め尽くしていく。
気がつくと私は、首を縦に振っていた。
「シャワー、浴びてきます」
そう言って、はこべが立ち上がる。
私は深く息を吐き出した。心臓が飛び出そうに高鳴っている。なんなんだ、白頭はこべ。たかだか女子高生の分際で。いや私も二年前までそうだったけど。
この1Kに誰かを泊めるのは、別に初めてじゃない。初めては、早瀬川だ。一年のとき、新歓で酔った早瀬川を泊めてやった。夜更けまで一緒に配信サイトで婚活番組を見て、早瀬川の繰り出すアイスピックみたいなツッコミにけらけら笑っていた。
はこべは、夜が更けるまで一緒に婚活番組を見てくれるだろうか。
私は、そうしたいのだろうか。
カーテンの隙間から、雨の夜を覗く。ぴしゃり、紫の光が走った。轟音がそれに続く。
チャイムが鳴った。
初めは、何かの勧誘だろうと思った。無視していればいいと。
けれど、こんな雨の中に?
嫌な予感が、背筋のあたりを這いずった。
軋む廊下を歩いて、覗き穴に目を寄せた。身体が当たっているのか、暗闇しか見えない。念のため、キッチンで包丁を掴んだ。トマトの切れ端がついたそれを後ろ手に隠しつつ、ドアチェーンをかけたまま、ゆっくりとドアノブを捻る。
「あの、なんのよ───う……」
声が詰まった。
数センチの隙間から、女の顔が覗いていた。頭からバケツの水を被ったみたいに、びしょ濡れになった女だ。目元の化粧が滲んでいる。シースルーの上着も、群青色のワンピースも、ぐっしょりと雨を吸っていた。
色褪せた唇が、ゆるゆると弧を描く。ひどく見覚えのある微笑み方だった。
「久しぶりだね、次乃」
女は、私と全く同じ声で、親しげに私の名前を呼んだ。
「ごめん、ちょっと入れてよ。双子のよしみで」
女は、私の双子の姉だった。
降りしきる雨の中、東雲一果が、ぐっしょりと濡れ細った前髪をかき上げて、朗らかに微笑んでいた。
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