第22話

 虹色をした花火を手に、向かい合う。百円ライターのフリント───着火装置を擦って、青い火を熾す。

 二人で同時に火をつけた。紙と火薬が燃焼する、焦げ臭い匂いが立ち昇る。

 穂先がしゅうしゅうと火を吹き、蜜柑色に赤熱した、涙つぶみたいな玉になる。

 呼吸を止めて、火花を待つ。


 そして結局、勝負は私が負けた。


「私の勝ち」


「……いや、まあ、そうだね……」


 ベランダの床に落ちたオレンジの粒が、パチパチと火花を放っている。自分の不器用さが恨めしい。

 剥き出しの膝小僧を撫でて、はこべが立ち上がった。


「あ」


 その視線が、夜空の一角に吸い込まれる。濃紺の空に黄金色の花が咲き、一拍遅れて炸裂音が響いた。打ち上げ花火が始まったのだ。


「綺麗ですね」


「そう? やっぱり、小さいから迫力に欠ける気がするけど」


「綺麗なものは、遠くから見ても綺麗ですよ」


 はこべが、室外機の上に置かれた線香花火に手を伸ばした。


「続けましょうか。余ってますし」


「三回勝負」


「それはだめです」


 にべもない。

 しばらくの間、二人でパチパチしていた。極めてしょうもない話をした。花火は水中でも燃えるとか、ソーダ味とは結局何味なのかとか、そういう何も後に残らないような話だ。

 私たちは、打ち上げ花火や、線香花火や、お互いの顔を見つめた。どれが一番綺麗だろうか、などと思ったりもした。

 これは私だけかもしれないけれど。


 線香花火を消費しつくすまでに、さして時間はかからなかった。

 先が焦げた虹色の残骸が、幾つも洗面器に突き立っている。そういえば、後始末のことを棚に上げていた。残骸は燃えるゴミとして、灰や焼け焦げの混ざった水は? トイレに流せばいいのだろうか。

 いつの間にか、打ち上げ花火も終わっていた。


「シャワー、浴びましょうか」


「……あの、マジで?」


「マジで」


 はこべの手が、私の手首を掴んだ。室内へと攫われる。そのまま、洗面所に引き摺り込まれた。

 洗濯機はベランダに設置してある。洗面所にあるのは、黄ばんだ洗面台と鏡、タオルと服を入れる百均のプラ籠くらいだ。面積は一畳もなく、とても狭い。


「せまっ」


 と、はこべが驚くくらいには。


「安アパートなんだよ。シャワールームも狭いし。だからさ、」


 やっぱり止めよう、と言う前に、はこべの第一ボタンが外れた。ぷちぷちと、制服のブラウスがはだけていく。生地の合間から、真っ白なキャミソールが見えた。

 衣擦れどころか、息遣いまで聞こえる距離だ。さして目が良い訳でもないのに、キャミに施されたレースの意匠までよく見えた。


「……次乃さんも、脱いでくださいよ」


 じとっとした目で非難された。ええい。腕を交差させて、服の裾を掴んだ。Tシャツなのだから、脱ぐとなれば一気にいくしかない。

 どうにでもなれ、と思った。

 勢いに乗ったまま、上も下も一気に脱いでいく。羞恥心を思い出す前に、丸裸になった。

 視線には質量がある。鋭く肌に突き刺さる。蛇のような視線が、首筋から鎖骨を経て、胸元へ下りていく。

 ぼそっとはこべが呟いた。


「そんな感じなんだ……」


 どんな感じだ。

 はこべが、スカートのホックを外した。硬いチェック柄の布地が、ぱさりと落ちる。細い太腿の皮膚が、蛍光灯を反射している。

 持ち上げられたキャミソールの裾から、つるつるとした腹部と、控えめなへそが覗いた。

 おかしくなりそうだと思った。


「先、浴びてるから!」


 逃げるようにシャワールームへ飛び込む。自己ベストを遥かに上回る速度で髪を洗った。コンディショナーなど知ったことか。ガシガシとボディソープの泡を出して、全身に纏わせていく。とりかく、身体を洗ったという体裁を整えることが大事だった。さっさと洗って、さっさと出てしまえばいい。

 ガチャリ。ドアの開く音を無視して、泡をあわあわする。

 すぐ背後に、他人の息遣いを強く感じた。

 振り向きはしない。振り向いたら終わりだ、という気がした。

 剥き身の腕が、私の腋の下から伸びて、ステンレスのコーナーラックに載ったボトルをプッシュした。乳白色をした溶液が滴る。

 ノズルをプッシュする瞬間、何かが背中に触れた気がした。どこの部位だったかは、分からない。多分鼻の頭とかだと思う。違うかもしれない。

 しゃわしゃわと髪を揉む音がした。


「シャワー、貸してください」


「……ん」


 ノズルヘッドを掴んで、肩越しに渡す。水の流れる音と共に、泡がタイル床を流れていく。


「ひゃ」


 突然、背中に水流が当たった。


「流してあげますね」


「い、いいってば」


 当然のように無視された。身体から泡が剥がされていく。


「あ、背中きれい」


 つつつ、と指先が背骨をなぞった。肩甲骨のあたりから、お尻のすぐ上まで。ぞわぞわと悪寒に似た感覚が走る。

 思わず振り返ってしまった。

 途端に、裸のはこべが私の世界を埋めつくす。

 息が止まるかと思った。濡れた髪も、水の滴る頬も、生白い首も、浮いた鎖骨も、緩やかな膨らみも。一瞬で、脳に焼き付くようだった。

 それくらい、綺麗だった。

 「お人形みたい」という気取った形容詞を、お世辞でも何でもなく脳裏に浮かべることができるのは、世界でただ一人、こいつくらいだと思った。

 ばくばくと心臓がうるさい。呼吸に支障をきたしてしまうくらいに。

 それでも目が離せない。

 何秒くらい見つめていたのだろう。

 はこべが、濡れた睫毛を伏せた。ゆるゆると持ち上げた腕で胸を隠す。

 背けた顔は、あざといくらいに赤らんでいる。


「……次乃さん。見過ぎ」


 非難するような、あるいは拗ねたように口を尖らせる。


「えっち」


「な」んだと。


 自分からシャワーへ誘ったくせに! 私の背中とかお尻とか、散々見ていたくせに。というか今もチラチラ見ているくせに。見るのはいいけど見られるのは恥ずかしいってなんだそれ。盗人猛々しいとはこのことか。いや用法合ってるかこれ。

 分からない。

 頭がくらくらしていた。

 そこから先のことは、あまり記憶にない。

 気づいたらベッドに横になっていた。はこべもいなくなっていた。

 どうやら帰宅したらしい。夏祭りで人通りが多いから、見送りは要らない。そんなことを言われた気もした。

 全部曖昧なまま、私はベッドに飛び込んだ。

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