第21話

 バケツがないから洗面器に水を汲んだ。

 ハーフパンツとTシャツで鏡に映る自分の姿は、随分と間が抜けていた。白く滑らかな器を小脇に抱えて、冷凍庫を開ける。ド定番の棒つきアイスを二本手に取って、ベランダに続く窓を開けた。


 夏の夜は湿った土の匂いがする。雨あがりの匂いに少しだけ似た、新緑の匂いだ。きっと、古惚けたアパートとか、車道を行きかう自動車とか、高く聳える鼠色のマンションばかりの景色の裏にも、緑が隠れているのだろう。そうして緩い夏風が夜をかき混ぜて、その粒子を運ぶのだ。


「はこべ、アイス」


「サイダーですか、梨ですか」


 制服姿のはこべが、背を向けたまま言った。


「どっちもある」


「やった。梨ください」


「私も梨がいいんだけど」


「じゃあ、じゃんけんですね」


 ようやく振り返ったはこべが、片手を突き出す。

 出会ったころより幾分伸びた髪が、吹き抜けた風にふわりと浮く。鮮やかに染め上げたインディゴブルーの髪が、藍色の空に溶け込んで、彼女と夜空の境目を曖昧にしていた。


「いいよ。譲ってあげる。年上だからね」


 スニーカーに爪先を引っ掛けて、ベランダに出た。キャラクターイラストがプリントされたアイスの袋を差し出す。二人で並んで包装を開けた。

 棒アイスを手に、はこべが首をかしげる。


「袋、どうしましょうか」


「ん、貸して」


 自分の分と合わせて、ハーフパンツのポケットに突っ込む。はこべが目を見開いた。信じられない、とでも言いたげだった。


「ばっちいじゃないですか」


「ばっちい、って久しぶりに聞いた」


「べとべとしますよ」


 無視して、ラムネ色をした四角い氷菓に齧りつく。前歯に染みるような冷たさが走り、舌先に粒氷が砕けて散らばる。爽やかな甘さが口一杯に広がった。


「始まりませんね、花火」


「延伸してるんじゃないかな。さっき、通り雨が降ったから」


「ああ」


 しゃく、しゃくと音がする。はこべは、アイスを食べるのが速かった。冷たい食べ物に強いのだろうか。私はあまり棒アイスが得意じゃない。急かされているような気分になる。


「こんな場所でよかったの?」


「え?」


「花火大会。臨海公園に行けば、屋台どころかフードトラックが出てるよ。ミニライブもやってる。もちろん花火も大きく見える」


「いいんです」


「花火、見たかったんじゃないの」


「微妙に違いますね」


 はこべの赤く小さな舌が、溶けかけたアイスの表面をなぞった。


「花火大会の醍醐味は、花火じゃないんですよ。もちろん、屋台のかき氷でも、彼女の浴衣姿でも無いです」


「というと?」


「二人で抜け出して、遠くから小さな花火を見ること。そして、線香花火をしながら語り合うこと。これが花火大会の醍醐味であり、全てです」


 自信満々に言い切って、さくさくと残りのアイスを口に入れる。はたして今のは、どこから切り取った青春のモデルケースだろう。


「次乃さん、手」


「え、あ。うわ」


 いつの間にか、手にしたアイスが溶け出していた。慌てて齧りつく。反対側から、はこべも齧りついた。鼻先が触れるかと思った。

 は?

 しゃくしゃくと、氷の砕ける音がする。

 それでも間に合わずに、水色の砂糖水が手のひらを伝う。


「あ、垂れてますね」


 桜色の合間から、赤い舌が覗く。まさか。そう思った瞬間、舐められた。手首の内側。ぴく、と親指が跳ねる。

 唾液のついた部分が、気化熱でひやりとした。

 身勝手な舌先が、自らの唇を舐める。


「ん。ソーダ味も美味しい」


 はこべが、私をちらりと覗き見た。何らかの反応を期待しているのかもしれない。黙ったままでいると、あれ? という顔になる。


「今の、怒らないんですね」


「……今更でしょ」


 残された棒に噛みついて、木がささくれる感触を味わった。そうやって意識を逸らしていないと、たちまち頭が熱暴走してしまいそうだ。


「へえ。まあ、いいですけど」


 はこべが、室外機の上に載せた線香花火の束を見た。その脇に、百円ライターが転がっている。


「そろそろ始めますか。打上花火、まだ始まらないみたいですし」


「いいけど」


 束を留めている紙テープを千切った。黄色いこよりのついた花火を、一本ずつ手に取る。


「昔、姉妹でやりませんでしたか。線香花火、どっちが長く持たせられるか」


「やったかもね」


 そんな夜もあったかもしれない。

 私たちの生家は、小さな庭付きの一戸建てだ。駐車スペースの裏、母が育てていたプランターの花々とワゴン車の間にできた空間が、私と一果のお気に入りだった。そこで線香花火を遊んだ夜が、記憶の片隅に残っている。

 二人で線香花火をしたのだから、きっと、そういう遊びもしたのだろう。明日のおやつとか、お風呂の掃除当番とか、そういうささやかなものをチップ代わりにして。


「折角だから、賭けますか」


「何を?」


「何でもいいんですよ。そうですね、私が勝ったら次乃さんの右の胸で」


 私は胸元で腕を組んだ。


「え、えろいのは無しだってば」


「まだ何も言ってないじゃないですか」


「ほぼ言ってるじゃん、あと何で右指定?」


「片方で充分なので……」


 どういうことだ。怖い。


「じゃあ、一緒にシャワー浴びてください。汗かいたので」


「人の話聞いてた?」


「シャワー浴びるだけですよ。全然えろくないです」


 そんなわけがあるか。


「……やっぱり、嫌ですか?」


 ずっる。

 そう思った。なんでそんな、心細そうな声を出すんだ。夏の夜の下でそんな顔をするなよ。絆されそうになるだろ。

 胸元の布を摘んで引っ張る。丸い襟首から、身につけた下着を確かめる。けして最上級とは言えないが、見られても妥協できるレベルだった。


「分かった。いい、よ」


 はこべの目が見開く。意地の悪い光が、瞳孔に宿る。


「へえ? いいですね。じゃあ、次乃さんが勝ったら、何が欲しいですか?」


 私が勝ったら、欲しいもの。


「何でもいいですけど」


 背中を柵に預けて、両腕を左右に広げる。まるで、全身を差し出すみたいに。

 考えるよりも先に口が動いた。


「髪」


「え?」


「インナーの色、変えてよ。私、その色嫌い」


 熱に浮かされたみたいに、言葉が滑り落ちた。


「前から思ってたんだけど、藍色より、他の色のほうがよっほど似合うよ。ピンクとか……赤とか」


 はこべが、かすかに息を飲んだ。

 自らの毛先を摘む。綺麗に染め抜かれたインディゴブルーが、室内の光を反射して白く光る。

 伏せた目に、透明な水の膜が張っていた。

 いくらかの沈黙を経て、はこべが言った。


「……それも、」


 声に、寂寞があった。


「いいかもしれませんね。もう、大分長いですし。そろそろ、……飽きてきた気も、しますし」


 はこべがチェックスカートの裾を払い、膝を曲げた。白い膝小僧が、露わになる。

 手元の線香花火を見つめて、はこべが言った。


「じゃあ、勝負。しましょうか。次乃さん」

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