第20話

 夢の世界には、当たり前のような顔で、はこべがいた。

 夢を夢と気づける人と、そうではない人がいるらしい。私は気がつくほうだ。だいたいの場合、それは匂いで判別される。

 夢の中の彼女は無臭で、あのバニラに似た甘い香りを纏っていなかった。桜色の唇が動いて、小鳥が囀るような声が聞こえた気がするけれど、何を言っているかは分からない。私をからかうように見上げる、あのどこか嗜虐的な笑顔だけが鮮明だった。


「先輩」


 そのとき初めて、音声が意味を成した。

 制服を着たはこべが、私の胸へ飛び込んでくる。記憶どおりの華奢で頼りない身体は、記憶の中の彼女よりも柔らかかった。


「好きです、次乃先輩」


 私の腕が持ち上がり、彼女の背中へと回る。滑らかな布が指に揺れる。

 よくよく確かめると、それは布ではなく、彼女自身の肌だった。遮るものの無い背中をなぞる。

 おかしいな、と思う。私はこんなふうに、誰かと裸で抱き合った記憶なんて待ち合わせてはいないのに、じゃあこの感触はどこからやってきたものなんだろう。


「はこべ」


 私は彼女の名前を呼んだ。鎖骨の辺りに鼻先を埋めていたはこべが顔を上げる。

 唇が近づく。


  †


 その辺りで目が覚めた。

 タイマーでエアコンを切った部屋は、湿気が籠っていて蒸し暑い。

 私は這うようにベッドを出て、水道水を二口飲み、冷蔵庫に乗せたスティックパンの袋を開けて、もさもさ齧った。申し訳程度のチョコチップが舌先で溶けて、甘ったるい味が口の中に広がる。


「ああぁあぁぁぁ……」


 うそうそうそうそ。

 ずるずると床にしゃがみ込んだ。

 いつもはあっという間に薄れていく夢の残滓が、寝汗を吸ったシャツみたいに纏わりついて離れない。

 夢は記憶の再構築だという。私は、はこべの制服姿を知っている。ハグされた感触もだ。不本意だが、キスもそう。それらが組み合わさって、ああいう夢の形を描いた。それだけだ。きっとそう。

 仮にそうだとして、いやそうなんだけど。それにしても。

 いやいや。マジで?

 顔が良いのは認める。整っているし、同性としても正直好みの顔だ。じゃあ性格はどうか。友達になりたいタイプだと言えるのか? まさか。人を個人情報で脅すような奴だぞ。出来れば近寄りたくはない。

 ていうか先輩ってなに。

 でも、と心の中で誰かが囁く。そんなに悪い子じゃないと思うよ。出会いは最悪だったけれど、会話のテンポが噛み合うし、あんな髪して文学少女っぽいのは高ポイントなんじゃないの。美浜大附だし。だってあなた、頭の良い人が好きでしょう。早瀬川とか。

 うっさい黙れ。


 呆けた頭のまま、大学へ向かった。二限の一派教養で早瀬川と合流した。


「君、なんだよその顔」


 早瀬川は怪訝な顔をした。


「徹夜明けみたいな顔してる」


 頬を撫でる。出がけに鏡を見たときは、そこまででは無かったと思う。さてはキャンパスに辿り着くまでに、夏の太陽がなけなしの体力を溶かしてしまったか。

 三限は、私も早瀬川も空いている。こういうとき、早瀬川はサークル棟へ行き、私はSNSをチェックして時間を潰す。ただ、今日は違った。


「熱中症で倒れられても寝覚めが悪いからね」


 そう言って、空き教室に引き摺り込まれた。


「一緒に時間を潰すとしよう」


早瀬川は藤色のショルダーバッグから何かのパッケージを取り出して、テーブルに置いた。箱に書かれた英語を読み上げる。イタリア語で「4」という意味だよ、と早瀬川が言った。英語じゃなかった。

 箱の中には、盤面と、二色のコマが入っていた。コマは小指くらいの大きさで、丸かったり四角かったり、穴があったり無かったりと、それぞれ形が違う。


「この盤に、順番にコマを置く。色か、高さか、形か、穴の有無が同じコマを四つ並べたほうが勝ち」


「早瀬川、こんなのいつも持ち歩いてるわけ?」


「まあね」


「いつ使うんだよ、これ」


 こういうときだよ、と早瀬川が微笑む。片肘をつき、手のひらに頬を載せた姿は、見惚れてしまいそうなほど絵になっている。


「あと一つ。置くコマは、対戦相手が選ぶんだ。ルールはそれくらい」


「分かった。多分。でも私、今めっちゃ眠いんだけど」


「つれないなぁ。いいよ、じゃあ賭けよう」


 なんで「じゃあ」なんだ。そう口を尖らせた私に向けて、早瀬川が付け加えた。


「君が勝ったら、膝枕をしてあげる」


 思わず視線が下がる。今日の彼女は、KーPOPアイドルみたいなデニムのショートパンツを履いている。大胆に露出した太腿が、蛍光灯を白く反射していた。


「私が負けたら?」


「缶コーヒーでいいよ」


「乗った」


 私がこの手のゲームで早瀬川に勝てる訳がないし、そもそも完全に寝ぼけている。ゆえに私が賭けたのは、自身の知性や注意力ではなく、早瀬川の優しさだ。


「先行は譲るよ」


 彼女の長い指が木製のコマを掴んで、私の手のひらに載せた。ジェルネイルの先が親指の付け根を引っ掻いて、くすぐったかった。


「何かコツってある?」


 ウォールナットだろうか。色の濃いコマを、とりあえず盤面の中央に置く。色の明るいコマを一つ摘んで、早瀬川に渡す。


「注意深くあること」


 早瀬川は、私が置いたコマの隣にコマを並べた。高さも色も異なるけれど、どちらにも穴がある。


「このゲームの洒落たところはね。相手が置くコマを、自分が選ぶってところだ。下手を打つと、自分で自分の首を絞めることになる」


「なるほど」


 コマが盤面を埋めていく。手番を渡し合いながら、とりとめのない会話した。自炊のレパートリーや、最近読んだ漫画や、早瀬川が所属するサークルの人間関係について。


「こうやって盤面が埋まってくると」


 早瀬川が言った。「お祈りすることもある」


「何を?」


 このゲームに運の要素は無い。早瀬川は、レンズの奥にある目をすがめて、どこか突き放すような声で言った。


「相手が気づかないことを」


 丸くて背の低いコマを渡された。受け取ったものを指先でくるくる回しながら、私は盤面を見直す。じっと眺めていると、やがて正解が見つかった。

 コマを置き、イタリア語で「4」を意味する音を発して、私はゲームに勝利した。

 やはり彼女は優しかった。


「場所を変えよう。ここじゃ横になれない」


 早瀬川が手早くコマを収納して、ショルダーバッグを掴んだ。


「良い場所があるから、着いておいで」



 商学部棟と大学図書館の隙間に現れたワンルームほどの東屋は、まるで秘密基地だった。オープンワールドのRPGなら確実にブックマークを付ける。それくらい、その一角は周囲から浮いていた。


「サークルの先輩から、昼寝の穴場があると聞いてね」


 先輩の言葉どおり、先客はいなかった。無理もない。この東屋は、メインストリートからは角度的に見えないし、キャンパスマップにも載っていなかった筈だ。

 コの字型の木のベンチと、テーブルが一脚。意外なことに、どちらもさほど汚れてはいなかった。


「さ、どうぞ」


 ベンチに腰掛けた早瀬川が言った。

 彼女はぴたりと膝頭を揃えていた。私は来し方を見て、誰もいないことを確かめてから、その隣に腰掛けた。身体の左半分から、自らのものではない体温が伝わってくる。

 とりあえず、身体を横に倒した。

 硬い頭蓋骨と柔らかな腿の間で、耳が潰れる。


「どう? 私の太腿は」


「やわっこい」


 早瀬川の腿は滑らかでひんやりとしていて、心地良かった。


「眠れそう?」


「どうだろ……」


 枕ばかり質が良くても、頭以外は固いベンチの上だ。歩いたことで、多少眠気も遠ざかっていた。風通りがよく、屋根があるので大分マシだが、気温の問題もある。


「早瀬川はさ」


 睡魔を見失った私は口を開いた。


「初恋って、いつだった?」


「いきなりだなあ」


「いいじゃん、教えてよ」


 首の向きを調整して、上を向く。おおう、と思った。曲線に視界の半分が覆われている。


「私は家庭教師だった。中学のときの」


 ややあって、早瀬川が言った。胸部が邪魔で、その表情は伺えない。


「いいね。なんかそれっぽい」


「なんだよそれは」


「早瀬川っぽいよ。同級生のバスケが上手い子、とかじゃなくて、先生とか大学生を好きになっちゃうところが、それっぽい」


「ふん。君に何がわかるんだか」


 拗ねたように言う。

 早瀬川の指先が、私の前髪に触れた。彼女は存外に優しい手つきで、毛先の位置を調整した。


「もし、初恋の相手を忘れられないときは、どうすればいいと思う?」


「はあ?」


 今度こそ呆れたような声が降ってくる。友達の話だよ、と私は抗弁した。


「そんなに純情派だったのか、君」


「それが本当に友達の話なんだよ。この話の枕で信じてくれってほうが無茶なんだけど」


「ふうん」


 上がりかけた湿度を夏の風が吹き流していく。誠実な沈黙の後、早瀬川が言った。


「無理だよ」


「身も蓋もない」


「本質的には無理だ。人間ってのは脆い石みたいなもので、誰かと触れ合うとすぐに欠けたり割れたりする。友情でも愛情でも悪意でも、石は欠けるよ。欠けた後は、欠けた形に合うモノを求めるんだ。それが人間とは限らないけれど」


 だから、と彼女は続けた。


「どんな出会いも無かったことには出来ない」


 私は彼女の、こういう持って回った言葉遣いが嫌いではない。でも今は、もっと低俗的でありきたりな話をしたかった。


「で、早瀬川はどうやって失恋したの?」


「今日はやけに絡むなあ」


「いいじゃん、教えてよ」


「……普通に告白して、普通に振られたよ」


「健全だね」


「どうかな」


 え。言葉を返しかけた私の瞳を、早瀬川の手のひらが覆った。手足のサイズは身長に比例するという。早瀬川の手は大きくて暖かい。


「いいから眠りなよ。予鈴が鳴ったら起こしてあげるから」


 じんわりと、目の奥に熱が浸透してくる。見失っていた眠気がとろとろと胃の辺りから這い上がってきて、私はあっさりと眠りに落ちた。

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