第19話
ケトルに水道水を注ぎ、スイッチを入れた。白いプラスチックパッケージの蓋を開ける。長方形の容器に、黄色い乾麺と袋入りのソース、かやくの袋が行儀よく収まっている。
配信者ピラミッドの上層階には、カップ焼きそばを食べるだけで収益を得る人が住んでいる。カロリーを摂取して金銭を得るのだから、等価交換どころではない。錬金術師もびっくりだ。
残念なことに、『ねくすと@』はその域まで達してはいない。焼きそばで視聴者を集めたいなら、付加価値が必要だ。激辛味を水無しで食べるとか、水着でお湯を注ぐとか。
でも今日、この部屋にあるのはレギュラー商品のハーフサイズで、私が着ているのは襟首のヨレたTシャツでしかない。だから今夜は配信しない。焼きそばを食べ、レポートを書いて寝る。
そのつもりだった。
赤く光るスイッチが消えるのと同時、スマホが振動した。画面には、白い花のアイコンが映っている。指を滑らせて、スマートフォンを耳に当てる。
『こんばんは』
「こんばんは。どしたの」
『いえ、あの。今、大丈夫ですか』
私はケトルを手に取り、麺の上にお湯を注ぎ掛けた。白い湯気が立ち上り、鼻先を油っぽい匂いがかすめる。どこかホッとするチープさだった。
「いいよ。取り敢えず、三分間は暇」
『えっと、忙しいなら改めますけど』
「ごめん冗談。今インスタントの焼きそば作ってて」
スピーカー越しに、はこべの吐息が聞こえた。やれやれ、という声が聞こえてきそうだ。
『焼きそばくらい作りましょうよ』
「作ってるけど」
『カップ焼きそばはカップ焼きそばという存在であって、焼きそばじゃないです』
そうかもしれない。ただ、喉飴よりは食事じゃないか。反論しようか迷って、結局、止めた。
夕食の習慣は、はこべの指示で始めた。彼女と出会い、私は確実に変化している。それが正方向に向かうものかは分からないけれと、少なくとも私の体重は微増し、うっすら浮いていた肋骨は見えなくなった。反面、身体の調子は良くなった気がする。
『お姉ちゃんのこと、どう思いました?』
さりげない口調で、はこべが言った。
一瞬、美浜大でのことを尋ねられたのかと思った。すぐに気づく。芹は、はこべに伝えてはいないだろう。彼女はモールでのことを言っている。
「美人だね」
『はい』
衒いもなく同意する。やはり、仲が悪い、というわけではないようだ。
『お姉ちゃんは、昔から綺麗だったんです。私よりもずっと』
はこべの声で発せられる「お姉ちゃん」という言葉の響きが、どうにもくすぐったい。心の中の、柔らかな部分を撫でられた気分になる。
もし名前をつけて分類するのなら、これはきっと、郷愁に近い何かだ。
「はこべも、その、可愛いと思うよ」
『え。あ、あー……言わせたみたいですけど、そういうつもりではなくて。でも、ありがとうございます。知ってます』
「知ってたか」
『うちには鏡があるので』
思わず噴き出しそうになった。
芹よりもだよ、の一言が脳裏に浮かんで、けれど口にはしなかった。さすがに、ちょっと。
そろそろ三分間だ。四角い蓋の端に、ツメを立てて湯を切る穴を作る。湯気が噴き出て、火傷しそうになる。本来は湯を注ぐ前に行うべき工程だ。久々過ぎて忘れていた。
「お姉ちゃんのこと、好き?」
『どうですかね。小学生くらいまでは、大好きでしたよ。何でも出来て、何でも知ってて。おまけに可愛くて』
「そっか」
言葉が自分に重なる。白頭姉妹と違い、私と一果の間に年齢差は無い。けれど、確かに一果は私の姉だった。姉であろうとする意志が、いつも彼女を屹立させていた。
反面、私はきっと、どこかで甘えていたのだろう。妹であることに。
スマートフォンを肩と耳に挟み、熱いパッケージを手に、シンクに立った。ここで失敗したくはない。真剣に、どぼどぼと流れる白濁したお湯を見つめる。私は湯切りに集中していた。
だからつい、言うつもりのないことを口にしてしまった。
「私も、一果が好きだったよ」
口に出してしまってから、大丈夫かこれ、と思った。しかし飛び出た言葉は戻らない。
「私は双子だけど、やっぱり妹から見た姉って、どこかしら輝いて見えるんだよ。補正が入る。元がマイナスなら意味ないけどさ。子供が手を引いてくれる人を好きになるのは、ある種の本能なんじゃないかな」
言葉を切って、スピーカーに意識を傾ける。引かれただろうか。この感覚は、はたして共感を得られるものなのか。
ややあって、はこべが言った。
『わかる気がします』
一拍置いて、付け加える。
『でも私の一番は、やっぱり一果先輩ですよ』
「あ、そ」
知ってた。けれど次の言葉は、
『次乃さんも好きですけど』
不意打ちだった。
指が滑って、麺をシンクの底へ落としそうになる。慌てて半開きの蓋を手で押さえた。熱い。あっつ、と低い声が出た。耳と肩が離れる。
「あ」
スマートフォンが床へと落下した。ゴン、と重たい音が響く。
私は焼きそばのパッケージを置いて、薄暗いキッチンの床へしゃがみ込み、ひととき迷ってから、おそるおそるスマートフォンを耳に当てた。
「あのごめん、耳」『動揺し過ぎ』
カッと頬が燃えた。
嘲るような声が鼓膜をくすぐる。
『もしかして、嬉しかったんですか?』
「うっさいな」
はこべの声は、明らかにこちらを揶揄していた。抱えた剥き出しの膝頭に、手のひらを擦りつける。私の手は、僅かな時間で汗をかいていた。
「ちょっと麺が溢れそうになっただけだよ」
『そうですか? へー、そうですか』
くそ。心の中で吐き捨てる。確かに苛立っているはずなのに、心のどこかが喜び浮かれていた。悦んでいる。なんだこれ。
「それで、なんでわざわざ電話なんかしてきたの。お姉さんの話がしたかっただけ?」
『そうですけど。ああ、それともう一つ』
勿体ぶるように溜めを作ってから、はこべが言った。
『声を聞きたかった、ので』
じゃあ、おやすみなさい。
そうして、通話が切断された。
耳の中で、甘ったるい声の残響が震える。
水面に大きな石を落としたみたいに、生まれた波が寄せては返す。
やがて私はのろのろと立ち上がって、袋入りのソースをふやけた麺に塗して、割り箸でぐりぐり混ぜた。
久しぶりに口にした焼きそばは、冷めた上に伸び切っていていた。キッチンの戸棚に背を預けたまま、もそもそする物体をひたすら咀嚼する。味なんかよく分からない。
いやいや、と思う。
それは無いだろう、と思う。
だって、とも思う。理由を意味する接続詞。英語で言うとbecause。なんで英語で言った。
とにかく、否定するための理由なら幾らでも思いつく筈だ。この際、女であることは置いておいてやっても良い。女子高生であることも譲歩しよう。いや女子高生て。いつかの制服姿を意識すると、またぐるぐる何かが込み上げてきそうになる。
違う。どれもこれも問題だけれど、一番の問題はそうじゃない。一番の問題は、もちろんこれだ。
白頭はこべは、東雲一果が好きなのだ。
それも並々ならぬ程に。
それは、どうなんだ。問題か? 当然、問題だろう。好きな相手がいる人間に、その、アレな感じになるのは、おそらく不毛だ。
ただ、この場合はどうか。明らかに片想いであり、その成就が絶望的である、今回のようなケースは。
そもそもはこべは既にフラれているのだ。それでも一果に情熱を燃やし続けている。不毛で不健全極まりない。
さっさと一果を諦めて、そして。
そして───そして?
そして何がどうなるっていうんだ。
「んぐぐぅううぅぅ」
空になった器を投げて、床に寝転ぶ。フローリングの冷たさが、頬に心地よかった。
「ないないないない……」
呪詛のような声が口から溢れて止まらない。這うように洗面所へ行き、温いシャワーで頭を冷やした。
胃袋にドンと重たい塊が居座っているせいで、その夜はなかなか寝つけなかった。
そしてこんな、泥のように眠りたい夜に限って人は、夢を見るのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます