第17話
『白頭? 君、姉妹がいたりしないか?』
あの夜の記憶が確かなら、早瀬川は白頭姉のことを知っている。
三限の近代文学。すり鉢状になった講堂の端で、ミステリっぽい表紙の文庫本を読んでいる早瀬川に声をかけた。彼女は今日もノースリーブだ。いつもながら、剥き出しの肩が眩しい。
「おつかれ、早瀬川。早速だけどさ、ちょっと聞いて良い?」
「今いいとこなんだが、まあいいよ」
栞代わりに帯を挟んで、本を閉じる。意外なところでずぼらだな、と思った。
「ちょうど、探偵が犯人を名指ししたシーンだったんだ」
「それはごめん」
「いいよ。私の予想通り、事件の鍵はSNSと南高梅だった」
どういう事件だ。
「で、何だい。レポートの相談なら昼食一回で手を打つよ」
「それはまた今度。今日は聞きたいことがあって」
怪訝がる早瀬川に向けて、尋ねた。
「美浜大の白頭芹、って名前に聞き覚えはある?」
「あるけど」
あっさり繋がってしまった。もしかしたら、くらいの気持ちだったのに。怪訝な顔をする早瀬川に、重ねて問いかける。
「どこで知り合ったの?」
「サークルの交流会。たまに海浜と美浜の語学系サークルが集まって、他言語のディベート会とかするんだけど、一度だけそこに来てた」
「それだけ? よく覚えてるね」
「まあ一番手強かったからね。名字も珍しいし、美人だったし」
芹の優等生然とした輪郭と、すっくと伸びた背を思い出す。確かに手強そうだ。TOEICは九〇〇点台ですわ、なんてことをさらりと言いそうな顔だと思う(ですわ、は違うかもしれない)。
早瀬川のウェンリントンが、きらりと光を反射した。
「あの高校生の子絡みだろ」
「それは……まあ、そう」
「付きまとわれて困ってるなら言いなよ」
さらりと頼もしい。本当にそうなら、私は真っ先に彼女を頼ったことだろう。けれど、そういう話でもないのだ。
「大丈夫。ただ、ちょっと白頭姉と話がしたくて。連絡先とか聞いてない?」
さすがに早瀬川は渋い顔をした。
「なんだってそれを私に訊くかな。あの子に聞けばいいだろう」
「それはそうなんだけどさ」
今回ばかりはそうもいかない。第一、理由を聞かれたら答えられない。それは一果も同じだ。そういう過程をすっ飛ばせるのが、早瀬川だった。
「はこべについて相談したいから」
早瀬川が、高い鼻をフンと鳴らした。なんだか不機嫌そうだ。さては二日酔いだろうか。いかにも渋々と言った様子でスマートフォンを取り出し、ロックを解除する。
「LINEでよければ」
思わず身を乗り出した。それを牽制するように、早瀬川が私の鼻先にスマートフォンの角を突きつける。
「しかし君、これは高くつくぜ」
†
自分が所属していないコミュニティへの侵入は、緊張と好奇心を伴う。そこにはささやかな非日常がある。
小学生の夜に経験する、初めての夏祭りみたいなものだ。あの時は一果が私の手を引いてくれて、私は姉の、緋色の浴衣と黄色い帯ばかりを見詰めていた。
おねえちゃん。記憶の中の声と、はこべの声が重なる。姉と七分差で母の腹から生まれた私は、滅多にそんな呼び方をしなかったのに。
ふと、涼やかな声が降ってきた。
「そのポークカレー、微妙でしょう」
皿から顔を上げる。古式ゆかしい学食を背景に、はこべの姉が立っていた。
「学食の質は海浜のほうがよっぽどいいのよ。講義の少ない日は、わざわざ海浜のキャンパスまで出かける美浜生もいるくらい」
向かいに腰掛けた彼女の手には、ウインナーが二本載ったパスタがある。サラダボウルと鶏胸肉ばかりを食べていそうな見た目だけれど、ここにそんな洒落たメニューはないのだろう。
「じゃあ、海浜大に呼び出したほうがよかった?」
「そうでもないわ。今日は講義が詰まっているから」
はむ、とウインナーを前歯で噛む。うまく言えないけれど、食べ方が綺麗だ。そういうところが、はこべと似ていた。
きちんと口の中を空にしてから、芹は言った。
「だから、昼休憩が終わるまでしか付き合えないけど。それでよければ」
「いいよ。正直、それ以上はお互い気づまりでしょ」
私もカレーを口に運ぶ。じゃがいもが溶けた黄色いルーだ。いささか水分の多すぎるご飯を、スパイスで誤魔化して飲み下す。けして悪くはないけれど、どうにも平坦な味だった。
「それで、私に聞きたいことっていうのは?」
面接官のような態度で、芹が問いかける。せめて圧に負けないよう、眉間に力を籠めた。
改めて彼女の顔を見る。彫像のように整った美しい顔。そして、一果と……まあ、そういうことをしている女の顔。浮かびかけた下世話な想像に、脳内で消しゴムを掛ける。
咳払いをして、私は言った。
「もちろん、はこべと一果のことだよ」
LINEでは用件までは伝えていない。けれど、予想していたのだろう。芹は、特に驚いたりはしなかった。
「私がそれを、あなたに話す理由があるのかしら」
赤いパプリカの切れ端に、ぐさりとフォークが突き刺さる。
「……いや、うん、それはごもっともなんだけど。出来れば教えてほしい」
昼休みは限られている。私は彼女の、姉としての良心と責任感に訴えるべく、躊躇わずに事情を明かした。
「私、実は配信者をやってるんだけどね───」
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