第16話

 ひとしきり泳いだ後、ブールサイドに上がって、スイムキャップとゴーグルを外した。バスタオルにくるまって水とも汗ともつかない雫を拭う。

 ベンチでくつろいでいると、藤堂がやってきた。綺麗に染め抜かれた茶髪が、ぺろんと額に貼り付いている。


「おつかれー」


 ぺちゃん、と丸いお尻をベンチに載せる。柔らかな太腿の肉が、僅かに横に広がった。ワンピースタイプの水着から滲む水滴が、ぴんと張った肌を伝う。

 藤堂は、私を気遣うように微笑んだ。


「水泳、疲れるよね。ごめん、ラブホ女子会のほうがよかった?」


「や。私もお金ないし」


「そっかぁ。もしつまらなかったら、申し訳ないなと思って」


 楽しくないことはない。久々の運動は、意外と心地よかった。不摂生に凝り固まった肩回りも、幾らかほぐれた気がする。


「ただ、個人的にはボドゲのほうがよかったかな」


「正直だ」


「楽しくないわけじゃないけど、疲れるし。鼻に水が入るとツンとするし。藤堂は?」


「うん?」


「元水泳部なんだよね。泳ぐの、楽しい?」


「あぁ」


 藤堂は、にっこりと微笑んだ。完璧な笑顔だった。


「楽しいよ。あと、健康に良いよね」


 健康。青春をプールに捧げた女の子にしては、淡白でおざなりな回答だと思った。


「ところで後輩ちゃんとのデート、どうだったの? 映画見た?」


 何か言葉を重ねようか迷ううちに、藤堂が身を乗り出した。息の掛かりそうな距離で、大きな瞳が好奇心に輝いている。背中を反らしながら答えた。


「見たよ。ラブストーリーのやつ」


「へえ、あれにしたんだ? がっつり恋愛映画じゃん」


「まあ、変化球だったけど」


「どんな映画だったの?」


「あー……もし観るつもりがあるなら、聞かないほうがいいかな」


「大丈夫、大丈夫。わたしね、恋愛映画とか全っ然興味ないから」


 けらけら笑う。意外だ。こう言ってはなんだけれど、ヒロインが死ぬ映画で泣ける子だと思っていた。

 そういうことなら、いいか。

 私はストーリーの粗筋を掻い摘んで説明した。高校生の男の子と、大学生の女の子。ヒロインの死と蘇生。腐りゆく恋人へ向ける愛情。

 ふんふんと頷いていた藤堂は、最終的に、何だか酸っぱいものを口に含んだような顔をした。


「ゾンビ映画じゃん」


「ゾンビ映画だったね」


「あと、わたしが嫌いな感じの映画だ」


 あっけらかんと、否定の言葉を口にする。いかにもゆるふわ系な外見をしているのに、こういうきっぱりした部分を持ち合わせているのが藤堂灯里だった。


「まあ、物凄く面白かったわけではないけど……嫌いって、どの辺が?」


「そうだねえ」


 指を立てる。


「こう思っちゃう。主人公クンは結局、ゾンビになった彼女の見た目が、『許容範囲』だっただけなんじゃないの?」


「……なるほど」


「ヒロイン役のアイドルの子、私も好きだけどさ。顔が良いから。でもきっと、ゾンビになっても可愛いままだったんじゃない?」


「それは、まあ、確かにね」


 藤堂の推測は、当たっていた。

 序盤でゾンビウイルスに感染したヒロインは、以降、特殊メイクやCG加工を施されて登場したけれど、それは役者の容姿とイメージに十分配慮されたものだった。醜い傷跡は前髪や包帯で隠されていて、その美貌はちっとも損なわれていなかった。

 当然だろう、と思う。あのアイドルはこの映画の顔で、観客の何割かは彼女目当てで映画館に足を運んでいるのだから。そんな彼女に、真に醜いメイクを施すわけがなかった。


「外見よりも大事なものがあるって話なのに、結局ヒロインが綺麗なんだったら、意味わかんないじゃんね」


「それは、確かに」


「そもそも、恋に見た目が関係ない訳ないし。それにさ」


「それに?」


「恋愛がそんなに綺麗な訳がないよ」


 ぎくりとする声だった。思わず藤堂の顔を見返す。

 彼女は、初めて見る表情をしていた。ぽってりとした唇が、冷笑に似た形を作る。天使もこんな顔をするんだ、と思った。

 なんだか気圧されながら、私は言った。


「藤堂は、恋愛経験多そうだもんね」


「んふふ、どうかな。案外、初恋をずっと抱えてるタイプかもよ」


「それはそれで可愛い。初恋って、やっぱり特別?」


「おや、次乃ちゃんは未経験? そうだねえ」


 濡れた睫毛を伏せる。

 息を呑む。

 ぞくりとするような、凄艶な声で藤堂が言った。


「きちんと消化しないと一生呪われる。そういうものじゃないかな、初恋って」



 藤堂の後に続いて、もう一度レーンに潜った。温い水が皮膚を撫でる。ざぶんと潜って、壁を蹴った。手を、足を、全身の筋肉を余さず使って、自らを前進させる。

 泳げば泳ぐほど、雑念ばかりが浮かんだ。藤堂の言葉が、耳にこびりついて離れない。

 呪い。

 確かにそうだ。はこべは恋に呪われている。前を向くには、呪いを解く誰かが必要だ。

 そんなふうにお節介なことを考えているのは、はたして私だけだろうか?

 ショッピングモールで、彼女の姉が───芹が見せた態度と言葉が、脳裏をよぎった。

 二十五メートルを泳ぎ切って、水から上がる。

 二ノ宮と話す早瀬川の、滑らかな背中を見つめた。


 ひとしきり泳ぎ終えて、私たちはロッカールームへ帰還した。真っ先にスマートフォンを確認してしまうのは、我ながら中毒だと思う。

 メッセージが届いていた。はこべからだった。


『水着姿の自撮りください』


『ビキニなんですよね』


『ちゃんと見てますか? 既読付かないんですけど』


『水着』


『着信あり』


「怖っ」


 執着心が凄い。目に見えない圧を感じた。

 自撮り。自撮りね。私は左右に視線を配る。私を挟み込むように、藤堂と早瀬川がタオルで水滴を拭いていた。ここでカメラのシャッター音を響かせるのは大変宜しくない気がする。

 結果、私は水を拭うのもそこそこに、更衣室に併設されたトイレに篭り、自身の水着姿を斜め四十五度の角度から撮影した。

 かしゃり。


「うわ」


 写真を確認して、思わずうめく。

 我ながら卑猥だった。白い便座を背景に据えた、水の滴るなめらかな肢体。あからさまに自撮りである点もよろしくない。

 何だか凄く駄目な感じだ。けれど。

 ええい。思考を止めて送信ボタンを押す。既読がついてしまうのが怖くて、そのまま逃げるようにトイレを脱出した。


 帰りの電車は、中途半端に空いていた。二人分の空席が二箇所。早瀬川と、ホーム側の席に座った。

 思い出したように、身体が疲労を訴える。全身が気怠かった。ふわあ、と大きな欠伸が零れる。早瀬川が苦笑して、私の耳元で囁いた。息が耳朶をくすぐる。


「もたれていいよ」


 遠慮なく、肩を借りた。薄いニットの毛先が頬を擦る。


「疲れた」


「風呂でふくらはぎを揉みな。筋肉痛にならないように」


「めんどくさい……」


「揉んでやろうか」


「きゃぁー」


 作り物の悲鳴にも覇気がない。油断すると瞼が落ちそうだ。

 ポケットの中で、スマートフォンが振動した。


『なんでトイレなんですか?』


 うるせー、と返信して目を閉じる。

 電車の緩やかな振動と、早瀬川の脈拍を感じて、すぐに睡魔が忍び寄ってきた。

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