第15話
担当教授急病につき、本日より三日間、以下の講義を休講とする。云々。
いつもの四人で並んで、休講掲示板を見つめた。
同世代の講師の名前が縦に三つ並んでいる。さては牡蠣にでも当たったか。最悪なことに一限に設定された必修単位、語学の講義が始まる直前の話だ。学部棟出入口の黒っぽいレンガの床を、自動ドアから差し込む朝日が照らしていた。
早瀬川がスマホを取り出して、メッセージアプリを確認した。
「連絡、来ているね。五分前に」
「いや遅いって」
何の意味もない。愚痴る私に向けて、早瀬川は肩をすくめた。
「今日はもう仕方ないとして。これじゃあ、明日は午前までだな」
私の左隣で、藤堂が頷く。
「みんなそうだよね」
「みんな」の範囲がこの四人なら、その通りだ。休講になった講義は単位の取得率から大人気で、だいたいの文学部生が受講している。私たちは顔を見合わせた。どうしようかな、みたいな沈黙が横たわる。
「よし」
ややあって、早瀬川が声を上げた。
「ラブホにでも行くか。四人で」
事務カウンターのほうから歩いてきた見知らぬ女子が、ぎょっと目を剥いた。化粧慣れしていない顔が、茹蛸みたいに赤く染まる。彼女はトートバッグを抱え込み、私たち四人の顔をチラチラ見ながら通り過ぎていった。
絶対誤解された。
「綾ちゃーん……」
藤堂が唇を尖らせる。
「あの子、知り合いなんですけどぉ?」
「すまん」
ラブホテルはまあいかがわしい場所なのだが、防音設備が行き届いていて美味しいオムライスが食べられたりするので、私たちはもっぱら健全な使い方をしている。早瀬川が持ち込んだボードゲームで遊ぶのだ。カタンとか、街コロとか。気の置けない友人たちと遊ぶボードゲームは、この世でもっとも愉快な遊戯だと思う。
「うーん」
けれど藤堂は、人差し指を自らの唇に当てて、別案を口にした。
「わたしは泳ぎたいな。あと、実はちょい金欠で。ね、プール行こうよ、市民プール」
安いよー、とド直球なプレゼンをしてくる。しかし値段は大事だ。
早瀬川が尋ねた。
「プール? 海ではなくて?」
「混むし、美人が四人も揃うとナンパがうざいもん」
発言が自己肯定感に満ちている。ね、と同意を求められた二ノ宮が、「そうかもね」とおざなりに頷いた。
二ノ宮らいかは、ショートカットが映える元スポーツ少女だ。カットソーから伸びた二の腕も、ハーフパンツから伸びたふくらはぎも、見事に引き締まっている。
ただ彼女は、単なるスポーツ系女子と区分するには、いささか憂愁を帯びすぎている。燃え盛る真昼の太陽よりも、海面に沈む夕日が似合う人だ。
一度、酔った勢いで藤堂にそんな話をしたところ、「そこがらいかの魅力だよね」とニコニコ笑顔で賛同された。なので、この見立ては間違っていないと思う。
「去年海に行ったから、みんな水着は持ってるしね」
二ノ宮が補足した。
私はカラーボックスの奥底に眠る一着限りの水着を思い出して、うえっとなる。
「私、ビキニしか無いんだけど……」
「ああ」
早瀬川が目を細めた。
「あのやたらヒラヒラしたリボンがついたやつだな」
「なにその昭和のおっさんみたいな寸評」
「軽佻浮薄なデザインの」
「さらに遡ったな……」
大学生! 海! という勢いに任せて買ってしまったのだ。若気の至りという他ない。仕方ないじゃないか。友達と海水浴とか初めてだったんだから。
いずれにせよ、あのビキニは市民プールというよりナイトプール向きだ。心身を鍛えようとする青少年に、よこしまな影響を与える可能性も否めない。
「なので私はちょっと「次乃ちゃん!」
唐突に、両手をきゅっとされた。
天使が私を見つめる。きちんとカールしたボリューミーな睫毛が、ガラス越しの朝日を浴びてきらきらと輝く。
こてん、と首が傾いた。
「……いこ?」
気がつけば私は首を縦に振っていた。多分催眠術だと思う。あの睫毛が怪しい。あれ天然なの?
†
「というわけで、プール行ってきます」
折角なので、夜の配信ではその話をした。
『いいね』
『もう五年は泳いでないわ』
『ねくすと@ちゃんは、どんな水着を着るのカナ?』
「ここにも昭和のおっさんがいたか……」
コメント欄越しでも、滲み出るものがある。
『どんな水着着るんですか?』
「敬語で聞けばいいってもんじゃないんだよ。教えないよ」
さんざんそのネタを引っ張ってから、「なんかヒラヒラが沢山ついたオレンジのビキニ」と答えた。視聴者はそれなりに湧いた。
翌日。
曇天の総合アリーナは、なにやら不穏な気配を纏っていた。曇天にそびえるデカい建物は大抵不穏な空気を纏うので、多分気のせいだろう。
四人で縦列を作り、わちゃわちゃしながら更衣室に侵入した。塩素の匂いが鼻をくすぐる。郷愁を誘う匂いだ。小学校の、プールの授業を思い出す。二ノ宮が一瞬、眉をしかめた気がした。
フロントで受け取ったゴムバンドを確認する。四〇五。ぺたぺたとビニル床を歩き、同じ番号のロッカーを探した。「こっちだよ」と早瀬川が声を上げた。
今度は横一列に並んだ。ゴムバントのスリットから鍵を引き抜いて、ロッカーを開ける。
元水泳部の二人はさくさく脱いで、さくさく水着に着替えた。二人とも濃紺の競泳水着だ。ずるい。
私はロッカーにバッグを入れて、もじもじした。
「何をもじもじしてるんだ、君は」
「だってえ」
手でオレンジの布を揉みながら、隣で着替えている早瀬川を見る。
そして、弾けるように目を逸らした。危ない。豊かな丘陵が、まさにその全貌を明らかにする直前だった。
いや別に何も危なくないのだけれど。
視界の端で、ブラの紐がちらちらと存在感を主張している。うっかりすると、「大っきいね。メロンが運べるんじゃない?」とか言ってしまいそうだ。大変よろしくない。
同時に、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。こんな女が隣にいるなら、たとえ場違いなビキニを着ていようが、私に目が止まることはないだろう。
ばばっと脱いで、着た。
ブラを外した瞬間、それとなく早瀬川の様子を伺った。彼女は顔を背けて、念入りにゴーグルのバンドを調整していた。
「ごめん、お待たせ」
「いや。じゃ、行こうか」
並んで、シャワーコーナーへ向かう。藤堂と二ノ宮の姿はない。一足先にプールサイドへ出たのだろう。
早瀬川は、ワンショルダーのモノキニだ。つまり、背中がぱっくりと空いている。滑らかな素肌を見せつけられて、思わずため息が出た。
「早瀬川ってさ」
「なんだよ」
「背中、綺麗だね」
「な」
ぴーんと早瀬川の背筋が伸びる。くるっと180度回転して、そのまま後ろ歩きを始める。器用だった。
「なんだよ、藪から棒に」
「いや、普段見る機会がないからさ」
「ふん、あってたまるか」
こつんとスネを蹴られた。痛くはなかったけれど、反射的に「痛い」という言葉が口から飛び出た。唇を尖らせる。
「何すんの」
「見物料だよ」
「どう考えても、私のが肌を見せてると思うんだけど……」
「どれどれ」
「きゃー」
「おっと、東雲クン。それは誘ってるのかい?」
ここにも昭和のおっさんがいた。おっさんは遍在している。
きゃっきゃっしながら冷水を浴びた。プールサイドに出ると、太腿の裏をストレッチしていた藤堂が、ぷくぷくと頬を膨らませた。
「遅いよー。らいかなんて、もう泳いでるよ」
視線を追う。手前のレーンに水飛沫が舞っている。ダイナミックに水を掻きわける二ノ宮は、人魚と見紛うばかりのスピードだった。
「はっや」
「まだウォームアップだよ?」
わお。同じレーンには入らないでおこう。
プールサイドを見回す。平日の午後ということで、ほとんど貸切状態だ。一番奥のレーンで、三人組のおばさま達がきゃっきゃしながら水中歩行をしている。他の客といえばそれくらいだで、ビキニ云々と考えていたことが馬鹿らしい。
「じゃあ、私も泳いでくるね」
藤堂はゴーグルを装着し、二ノ宮の隣のレーンに向かった。水飛沫が舞い上がる。ああ見えて、高校時代は二ノ宮に負けず劣らずの選手だったらしい。
「さて、我々はどうしようか」
早瀬川が、胸を支えるように腕を組んだ。載っている。人体の神秘を横目に、私は言った。
「とりあえず、準備運動でもしよっか」
体育の授業を思い出しながら、ストレッチをした。足を伸ばし、腕を伸ばす。途中、早瀬川が背中を合わせてきた。腕を組んで、前屈する。いてて、と背中越しに悲鳴が上がった。
「早瀬川、身体硬いね」
「うるさい。色々と凝りやすいんだ、私は」
理由は聞かなかった。
そろそろと水に入った。温水プールは、ほどほどに生温い。とりあえず、二人で海藻のようにゆらゆらと歩く。
「えい」
なんとなく、水を早瀬川に掛けてみる。やったな、と水飛沫が返ってきた。ぱしゃぱしゃと水を掛け合う。小学生に戻った気分だった。
五分で飽きた。
水掛け遊びで満足するには、私たちは大人になり過ぎていた。
「泳ぐか」
ゴーグルを掛けた早瀬川が、勢いよく水に潜る。じゃぼん。水飛沫が跳ねて、頬にかかった。私もゴーグルを掛けて後を追う。
水色に揺らめく水中には、幾つもの白い泡が浮いていた。その先で、二本の足がなめらかに水を蹴る。
綺麗だな。そう思った。
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