第14話

 午後は、構内を片端から見て回った。つばの広い夏向けの帽子を被り合い、水着コーナーを冷やかし、書店の新刊コーナーを眺め、休憩所のベンチに並んでメロン味のソフトクリームを食べた。

 どのシーンを切り取っても、びっくりするくらいデートっぽかった。

 ワッフルコーンを食べ終えたとき、視界の隅に掲示板を見つけた。大小様々な催事のポスターが貼られている。親子参加推奨のフリーマーケット。金魚掬い大会。ナイトウォーク。

 夜に咲く花が目を引いた。花火大会の広告だった。

 そういえば、最後にきちんと打上花火を見たのはいつだろう。

 記憶を手繰る。朧げな夜空に、提灯の橋が架かっていた。盆踊りを囃す太鼓の音が響く。

 踏み固められた土道の上を、藍色の浴衣がひらめいた。水色のシュシュで結い上げた髪と、細いうなじ。

 屋台の明かりを浴びて目を輝かせる、私とそっくり同じ横顔。

 母が結んだ帯に、金魚が泳いでいた。その背中が、人混みに紛れて遠ざかる。置いていかれる。咄嗟に、そう思った。さあっと背筋が冷たくなって、恐怖で足がすくむ。

 そして私は、


「おねえちゃん」


 おねえちゃん?

 一瞬、自分が無意識に言葉を発したのかと思った。

 横を見る。はこべの唇が、ぽかんと開いている。

 惚けた視線の先に、一人の女性がいた。私と同い年くらいの、はこべと良く似た顔立ちをした女の人だ。

 ノースリーブのワンピースをさらりと着こなす高い背丈。透け感のある若草色のカーディガンに、丁寧に巻いた茶髪が映えている。

 なんというか、絵に描いたような美人だ。女子大生というパッケージにもしも正解が存在するのなら、きっと彼女のような姿形をしているに違いない。

 彼女はゆっくりとこちらを見遣り、はこべの顔を認めると、きゅっと眉を寄せた。


「……はこべ?」


 澄んだ氷のような、綺麗だけれど硬質な声だった。


「と、あなた、は───」


 美女の視線が私を捉えた。黒目がちの瞳が、大きく見開く。

 誤解されただろうか? 何度となく人違いを受けた、小学校時代の記憶が蘇る。

 けれど彼女は、すぐに何かを了解したように頷き、私に軽く会釈をした。グロスで彩られた唇が、友好の形を描く。


「初めまして。はこべの姉の、芹です。あなたは東雲一果の双子の妹さん、で合っているかしら」


「……どうも」


 以前聞いたはこべの話が真実なら、彼女は一果の同居人だ。一果から、私のことを聞いていても不思議はない。むしろ、知っていて当然だろう。


「本当に似ている───なんて言い方は、失礼ね。ごめんなさい」


「いえ、まあ、慣れてるので」


 短い言葉を交わすだけで、目に見えない圧力を感じた。やはり、美しさには暴力性がある。

 芹と名乗った女は、隅々まで完璧だった。外見も物腰も、隙らしい隙がない。はこべが人形ならば、彼女はさしずめギリシア彫刻だ。


「おねえちゃん、何で、」


 はこべが、たどたどしく言った。

 聞きなれない声の響きに胸が騒つく。萎縮と甘え。そんなものを露わにした彼女を見るのは、これが初めてだった。

 一方で、妹に対する芹の態度は素っ気なかった。


「居たらおかしい? 休日だもの。買い物くらい、私もするわよ」


「そっか、そうだよね」


「鞄の留め金が壊れたから、その修理に来ただけよ」


「あ、そうなんだ」


 はこべの喉が、かすかに上下する。


「……今日は、ひとり?」


 その一言に込められたニュアンスは、はっきり言って、あからさまなくらいだった。滲むような期待と不安。かすかな熱。

 きちんと整えられた芹の眉が、ピンと持ち上がる。その表情は、怒りか、あるいは嫌悪を示していた。


「今日は」


 強調するように言葉を区切って、芹が言う。


「一人よ。一果なら、サークルの後輩と出掛けているわ」


「そっ、か」


「残念そうね」


 さらりと告げられた言葉には、あからさまな棘があった。見透かされて、はこべの頬に紅が差す。


「別に、そういうのじゃないよ。ただ、一果先輩がいるなら、」


「いい加減になさい」


「え?」


「一果は私のルームメイトで、パートナーよ。もう、あなたの先輩じゃない。いつまでも、後輩気分で付き纏わないで」


 ぴしゃりと、頬を叩くような口調だった。真珠みたいなはこべの前歯が、桜色の下唇を噛む。拳を握って、彼女は反論した。


「後輩じゃなくても、」


「なに?」


「後輩じゃなくても、元カノ、だもん。会うぐらい、いいでしょ」


「元カノ、ね」


「何よ」


 芹の態度には、あからさまな呆れと侮蔑が含まれていた。それに気づいたのか、はこべの声が荒くなる。


「元カノでしょ⁉︎ ちゃんと告白して、付き合ってたんだから!」


 通りすがりの男性が、ぎょっとして二人を見た。そちらを一瞥した芹が、これ見よがしにため息を吐く。


「別に何も言ってないわ。あと、大声出さないで」


「手、繋いで、デートもしたし、」


「ふうん」


「き、キスだって、した……」


 ああそう。芹が鼻で笑った。冷笑。指先にくるくると髪を巻き付ける。

 そして、夏って暑いわね、みたいな口調で言った。


「ところで私は昨日、三日ぶりに一果とセックスをしたのだけど」


 一瞬、自分の耳を疑った。

 唖然としたはこべに、芹は、追い打ちのように言い放つ。


「それで? あなたは一果に、どうして欲しいの。双子の妹さんにまで付き纏って、ほんと、気色悪い」


  †


 白頭芹がその場を離れた後の空気は、控えめに言って地獄だった。

 はこべは一ラウンド殴られ続けたボクサーみたいな足取りでベンチにへたり込み、私はただそれを見つめていた。

 そして、私が飲み物を買うためにその場を離れた隙に、彼女は姿を消した。

 私の手には、プラスチックのカップに注がれたカフェオレが二つ残された。一つをその場で飲み干し、もう一つを手に持ったまま、私はモールを後にした。


 青い絵の具を、大量の水で薄めてぶちまけたみたいな空だった。沈みかけの太陽が、駅ビルの窓をオレンジに染めていた。

 道中、LINEの通知音が鳴った。メッセージの送信元は、はこべだった。


『ごめんなさい』


 何の謝罪だろう。逃げ出したことについてか。別に、そんなの。


『謝る必要はないと思うけど』


『誰だって、一人で逃げたいときくらいあるでしょ』


 既読はすぐについたけれど、返信は中々来なかった。

 私は赤いレンガで舗装された階段を降りながら、ゆっくりと二杯目のカフェオレを飲み干した。

 駅のホームで、舌先に残った苦味を舐めるうちに、ようやく返事が届いた。


『次乃さんは優しいですね』


 メッセージに、スタンプが続いた。不思議な生き物が、抱えたピンクのハートを差し出している。

 ずきりと胸が痛んだ。

 痛みとともに剥落した一部分が、深みへと落ちていく。

 これは本当に良くない。そう思った。ちゃんと考えるべきだと、心の痛覚が囁いている。

 芹の言葉は正しい。白頭はこべは、気色の悪い女だ。どう考えてもそうだ。

 なのに。

 もしも今、彼女が半径三メートル以内にいるのなら、あの冷たい手を温めてあげてもいい、と。

 そんなことを考えてしまう要因を、きちんと考えるべき気がする。

 吊り革に捉まり、暮れていく海辺の街を眺めた。沈みゆく太陽は見えないけれど、黒に見えるくらい濃い青が、姿を隠した無数の魚たちを腹に抱えて、地平の果てまで続いている。

 

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