第13話
「なるほど、映画。まずは定番のチョイスですね」
フォームミルクを追加してミルクをソイミルクに変更した黒糖抹茶ラテをくるくるかき混ぜながら、はこべは実況解説者のように言った。
「その後はご飯食べてモール見て帰るよ」
「確かにほどほどなプランですね……」
「失礼だな。なら、はこべが考える金のない大学生と高校生向けの特上デートプランって何?」
「なんでしょうね。なんかこう、エモい感じの海辺を裸足で歩いて、愛に関するトークをする、みたいな」
「映画じゃん。夏の砂浜なんてどこも激混みだよ」
美浜市は、名前のとおり臨海都市だ。少しバスに乗れば、東京湾に辿り着く。海水浴が出来るビーチもあるが、夏は常に人でごった返しだ。レジャーならともかく、エモーショナルなものを求めるのは無謀だろう。
はこべが、ふっとため息をついた。
「今が春ならよかったんですけどね。空いてるし、『駆け込み訴え』みたいで」
「駆け込み……何?」
「太宰の短編です。次乃さん、日文じゃなかったでしたっけ?」
「日文の学生が全員読書家な訳じゃないし、読書家が全員太宰を読んでる訳でもないよ」
私はもっぱら、SFかミステリしか読まない人間だ。滑り止めに日文科を選んだことに崇高な理由はない。いくつかの選択肢の中から、美浜大と最寄駅が同じ海浜大を選択したのは、おそらく偶然ではないのだろうけど。
「どういう話?」
「イエス・キリストと、ユダの話です。色んな読み方があるでしょうけど、私は愛の話だと思ってます」
「愛」
「その序盤に、二人が春の海辺を歩くシーンがあるんですよ」
そう言って、はこべは自分のスマートフォンを操作した。画面に目を落としたまま、すう、と静かに息を吸い込む。
「『私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。』」
一呼吸遅れて、それが小説の一節なのだと気がついた。
隣の席に腰掛けている中年の女性が、怪訝そうに振り返る。気にした様子もなく、はこべは朗読を続けた。
「『ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。そうして、出来ればあの人に説教などを止してもらい、私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。』」
初めて聞く言葉の連なり。
まるで、愛の告白そのもののような。
「『ああ、そうなったら! 私はどんなに仕合せだろう。私は今の、此の、現世の喜びだけを信じる。次の世の審判など、私は少しも怖れていない。』」
はこべの声は淡々としている。なのに、スマートフォンを見下ろす目だけが異様だった。色素の薄い瞳に、透明な涙の膜が張っている。店内の間接照明を受けてぎらぎらと輝く。
するりと一束、肩から髪が滑り落ちた。美しく、そして毒々しい青色が垣間見える。
彼女は静かに言った。
「『あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。』」
そうして彼女は、桜色の唇をきゅっと引き結んだ。
唐突に、ひどく悲しい気持ちになった。テーブルに置かれた彼女の手が、いかにも脆く寂しいものに思えた。冬枯れの日の朝、黒い土に降りた透明な霜みたいに。
その手を握ったらどうなるだろう。彼女はいつも一方的に私に触れてくるけれど、思い返せば私から触れたことはなかった。
手を伸ばすと、蜃気楼のように逃げてしまう。
白頭はこべは、そういう奴だから。
「───映画」
思い出したように、はこべが言った。意識が現実に引き戻され、店内の喧騒が帰ってくる。
「どれを見るんですか」
「えっ。あっ、えっと。別に決めてない。相談して決めようと思ってた」
「何やってるんでしたっけ」
「ちょい待って。今だとね───」
スマートフォンで上映予定のページを表示する。身を乗り出したはこべと額を突き合わせて、何を見るのが正解か議論した。私はマーベルヒーローに登場するハリウッド俳優の顔面について語り、はこべはホラーこそエンタメの王道であると主張した。最終的に折衷案が採択され、何故か恋愛映画を観ることになった。
自動券売機の列に並びながら、何だかデートみたいだ、と思った。
二人とも、ポップコーンは買わなかった。予告編の流れるスクリーンを見詰めたまま、はこべが小声で囁く。
「賭けませんか、次乃さん」
「賭け?」
「ヒロインの女子高生がいるじゃないですか。あの子が生き延びるか、死ぬか」
「これはホラー映画じゃないんだけど」
「でも邦画の恋愛もので、主役が高校生でヒロインが病弱な大学生ですよ。これは死ぬしか無いのでは」
「それは正直分かるんだけど」
昼食の選択権でどうですか、とはこべが悪戯っぽく口角を上げる。悪くない提案だと思った。店選びで揉めるリスクを消せるし、不得手な恋愛映画にも関心をもって臨むことが出来る。
「オーケイ。乗った。はこべはどっちに賭ける?」
「先に選んでいいんですか?」
「いいよ」
はこべは待合スペースで手に取ったパンフレットを眺めて、顎に指を当てた。そうして、さして悩む様子もなく言った。
「じゃあ、死ぬ方で」
必然、私は生き延びるほうに賭けた。
予告編が終わる。謎のマスコットが告げた注意事項に従い、私たちはスマートフォンの電源をオフにした。
照明が落ちる。
私ははこべの右手を見た。手は、行儀よく膝の上に載っていた。
映画は、思ったよりも悪くなかった。
アイドル出身の主演女優の演技が悪目立ちしていたけれど、顔が良いのでトントンだ。最近気づいたことだが、私は顔の良い女に甘い。
賭けは、はこべが勝利した。
「ハンバーガーがいいです。季節限定の、アボカドが挟まってるやつ」
そう言って、明転した席を立つ。目尻が少し赤くなっていて、それが何だか可愛らしかった。
アボガドが挟まった季節限定バーガーは、売り切れていた。私はダブルチーズバーガーのセットを選んで、小さな椅子に腰掛けた。
姉妹だろうか。小さな女の子が、もっと小さな女の子の手を引いて、笑いながら狭い店内を駆けていく。大学生のカップルが、お互いの額を寄せて、ひそひそと囁き合う。
「お待たせしました」
はこべのトレイには、フィッシュバーガーとポテト、それからサラダが載っていた。水分なしで、喉は乾かないのだろうか。
「まさかゾンビ映画だとは思いませんでしたね」
「開始十五分でヒロインが死んで復活したときは、この賭けどうしようかと」
「あの時点で私の勝ち確じゃないですか。死んだんだから」
「いやいや、生き返ってるじゃん。審議だよ審議。結局ラストで成仏したから、文句ないけど」
はこべが拗ねたみたいにフライドポテトを摘んで、口に放り込んだ。衣に付着した油で、唇がてらてらと光る。
「次乃さんは、どう思いますか」
「何が?」
「恋人がゾンビになっても付き合えるかどうか。これ、そういう映画だったじゃないですか」
はこべの言葉はいささかまとめ過ぎのような気もしたけれど、おそらく的を射てはいた。
次第に知性を失い、肉を腐らせていく女をどこまで愛し続けることができるか。
藤堂の言葉を思い出す。
真剣に見て、感想を言葉にすること。相互理解への第一歩───だったっけ。
「正直に言うと、わからない」
私はストローを咥えて、コーラを一口啜った。炭酸が、喉の奥でしゅわしゅわと弾ける。僅かにためらってから、その先を続けた。
「私、誰かと付き合ったことがないから」
「へえ、そうなんですか」
はこべの相槌には、ありがちな疑問も軽蔑もなかった。その代わりに、そういうこともあるだろう、という自然な理解があった。
好ましいと思える反応だった。
いよいよまずいな、と思う。思ってから首を傾げる。一体何がまずいのか。
「はこべは? 恋人が───つまり一果が、ゾンビになっても好きでいられたと思う?」
「当然です。……と言いたいところですけど、実際どうでしょうね」
はこべが、唇の端についたマヨネーズソースを親指で拭って舐めた。
「一果さんの何処が好きなのか、私、実は答えられないんですよ。苦手なところは結構思いつくんですけど」
「誰にでも優しい八方美人」
「それは間違いないですね」
東雲一果は太陽人間だ。のべつくまなく人を照らす。けれど太陽は眩しすぎるから、パートナーにはあまり向かない。
「結局は顔というか、見た目だったんじゃないかなあとも思います。あとは匂いとか」
「匂い」
「なんですか」
「そういうとこ、はこべは変態っぽいよね」
「なんでですか大事じゃないですか匂い」
「わかるよ。私もはこべの匂い好きだし」
「へえ、そうですか」
気のない相槌からややあって、はこべの手からポテトが落下した。
「……あの?」
「いやごめん今のなし。他意はない」
本当にない。風邪でもないのに飛び出してきた「くしゃみ」みたいなものだ。多分。
はこべは形の良い眉を顰めた後、落ちたポテトを拾って、何事もなかったように食事を再開した。
「話戻しますけど。なので、正直、ゾンビはキツいなと」
「キツいかあ」
「あの男の子はすごいですよ。きっとああいうのを、純粋の愛情というんです」
そして彼女は、私のドリンクカップを指差して言った。
「喉、乾いちゃいました。そのコーラ、一口ください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます