第10話
カーテンの隙間をぴたりと閉じる。
部屋の中央に立つと、粘つくような視線を感じた。
「……少しは遠慮してよ」
「え、嫌ですけど」
はこべは部屋の隅で膝を抱えて、じっとこちらを見詰めている。その目つきには、一欠片の遠慮もない。
平気だと思っていたのに、いざとなると緊張で胸が痛かった。
はこべの言うとおり、更衣室での着替えと大して変わらないはずなのに。一体、何が違うのだろう。
「じゃ、脱ぐから」
「どうぞ」
「……ぬ、脱ぐよ」
「だから、どうぞ」
「………………よし」
私は一気にTシャツを捲り上げて、床に捨てた。
薄桃色をした、ブラが要らないタイプのインナーキャミソール。その胸元に、汗が染みている。
かあっと頬が熱くなった。
慌てて隠すのも、意識しているようで気恥ずかしい。余裕を装い、ゆっくりとブラウスに袖を通した。震える指でボタンを留める。洗剤の匂いが鼻先を掠める。
ショートパンツの留め具を外して、硬いデニム生地を引き下した。片足ずつ、足を抜く。
あらゆる一挙一動に、ピリピリした視線を感じた。
目が合うと、逸された。改めて自分の格好を意識する。ブラウスとショーツだけ。頬が燃えて、溶けてしまいそうだ。仮初の余裕を放棄して、そそくさとスカートを履いた。
はみ出した裾を整えて、細いリボンタイを首に巻く。
そうしてコスプレが完成した。双子の妹による、東雲一果のコスプレが。
「ど、どうだ」
私は立ったまま、スカートの位置を整えた。
LEDの室内灯が、剥き出しの膝やふくらはぎを容赦なく照らしだす。大丈夫。おかしなところは、無い。無い筈だ。まだ二十歳なのだし。状況は狂っているけれど。
はこべは何も言ってくれない。
無言に耐えきれず、私は言葉を重ねた。
「ちょっと、なんとか言ってよ……」
「あ、はい……」
それきり押し黙ってしまう。いつも涼しげな顔が、熱に浮かされたかのようにぼうっとしていた。
仕方がない。スマートフォンのインカメラを起動して、自分の姿を確かめる。
思わず息を呑んだ。
カメラに映る私は、思った以上に、かつての東雲一果だった。
「や、やっほー、一果ちゃんだよー」
どうせならと、アイドル的に手を振ってみた。配信者か。配信者だった。
はこべの目つきが変わった。悪い方に。
「そういうの要らないです」
「ごめん」
はあ、と深く息を吐く。
「あの、次乃さん」
「うん」
「ちょっと触っていいですか」
「どこを⁉︎」
「間違えました。ハグしていいですか」
「……えっと、まあ、それくらいなら、ぉ」
ふぐ、と喉から息が飛び出した。
はこべが、漫画に出てくるアメフト選手みたいな勢いで突進してきたからだ。
硬い頭蓋骨が、私の肋骨に衝突する。凄まじい勢いだった。それはもう、貧弱な私がバランスを崩して、シングルサイズのベッドに手をついてしまうくらいに。
それでもはこべは離れようとしない。みぞおちに額を擦りつけながら、ブラウスをきつく握りしめている。これは皺になるだろうなと、どうでも良いことが気になった。
揺れるつむじへ、話しかける。
「あの、はこべ。この姿勢、ちょい苦しいんだけど」
「黙って」
「はい?」
「お願いですから、このまま少しだけ、黙っててください」
燃えるような吐息が、布の合間から忍び込む。切実な声だった。力ずくで引き離す気を失ってしまうくらいには。
仕方がないから、髪を撫でてみる。毛先までするりと指が通る。何度も染め直しているはずなのに、どうしてこんなに滑らかなんだろう。
人差し指に載った数本が、きらきらと青く輝く。
掠れた嗚咽が聞こえた。
「……っか、さん……」
拾った単語に、聞こえないふりを決める。
「……すき」「すきです」「いちかせんぱい」「だいすき……」
しばらくの間、私はその、呪詛みたいな告白を聞き流しながら、無心で彼女の髪を撫でていた。
三十分もそうしていただろうか。ようやくはこべが、「ぷはぁ」と身を起こした。私も限界だった。暑さと、太腿の痺れで。
身体を離したはこべが、充血した目を伏せた。その首筋から、かすかに汗の匂いが立ち昇る。
「すみません、取り乱しました」
「いや、別にいいけど……」
「帰ります。服、脱いでください」
私はブラウスのボタンを外して、スカートを床に落とした。
何かの欲求が満たされたのか、特に視線は感じなかった。
脱いだ制服は、汗で湿っていた。明日は月曜日だ。はこべは、この制服を着て登校するつもりだろうか。まさかな、と思ったが、恐ろしくて訊けなかった。
私がTシャツを着直す間、はこべはいそいそとボストンバッグに制服を詰め込んでいた。支度を終えると、すぐさま玄関へ向かう。追い立てられているかのようだ。
特に見送る義理はない。けれど、私も後に続いた。昼食を買いに出たときのやり取りが、脳裏をよぎっていた。
靴を履いた彼女は、振り向いて、ぺこりと頭を下げた。
「付き合ってもらって、ありがとうございました」
脅迫者が何を殊勝ぶっているのだか。
壁に肩を預けながら、私は「いいよ」と答えた。指先で髪を弄る。折角だから、今晩は黒髪のまま配信するのもアリかもしれない。
「正直、さすがに拒否されるかなと」
「あ、自覚あったんだ……」
「いやまあ」
元カノ(女子高生のすがた)のコスプレをしろ、というのは、客観的にみても相当イカレたお願いだ。
はこべの見た目が良いから気持ち悪さが中和されているだけであって、そうでなければとっくに逃げ出している。
「次乃さんは、優しいですね」
顔だけは良い女が、雪解けで現れた花みたいに微笑んだ。
そうだ。はじめからそうだった。
私は、今更気がつく。
白頭はこべは、とても美しいのだ。
そのことを再確認した瞬間、身体のどこかが、ほんの少しだけ傾斜、あるいは落下した。
慌てて全身の感覚を確かめる。姿勢はどこも崩れていない。足も床についている。
なら、どこが傾いたのだろう。
分からないまま、言葉だけが口を衝く。
「別に、大したことじゃない、し」
「そうですか」
桜色の唇が弧を描く。何故か、そこから視線を離せない。
「じゃあ、次はもっと甘えてもいいですか」
「な、内容に寄る、けど」
くすりと微笑む。
では、とはこべの手がドアノブを掴んだ。
その瞬間、無意識が腕を動かした。指先が、はこべの着ているカットソーの裾を掴む。
すぐに猛烈な後悔が追いかけてきて、あっという間に頭を埋め尽くした。
「あの?」
「あ、いや」
はこべが怪訝そうに振り返る。
何か言わないと。熱を帯びた頭で考える。何か言わなくてはいけない。出来るだけ不自然でない言葉を。なにかなにか早くなにか。
焦りは思考を惑わせる。そういうとき、往々にして人は一番良くない選択肢を掴んでしまうものだ。
例えばこんな風に。
「し───知ってる?」
後先を忘れて、私は言った。
「一果って今、高校の同級生と同棲してるんだよ。だから、」
言葉が喉につかえる。
だから。だから?
順接の接続詞の後に、私は何を繋げようとしたのだろう。
途切れた先の答えを探しても、霧に包まれたように見つからない。
「もちろん知ってますよ」
裾を掴む私の指先を丁寧に振り払って、はこべは重たいドアを開けた。夏の午後そのものの、燦々と降る陽射しが射し込み、その表情を逆光で覆い隠す。じわじわじわ。蝉時雨が、遠くに聞こえる。
淡々と、はこべが言った。
「その同棲相手、私の姉なので」
扉が閉まり、蝉の声が途絶える。
取り残された私は、部屋に戻って個包装されたチョコレートの袋を破った。
熱にやられた油脂と糖分の塊は、どろりと溶けて、すっかり元の形を失っていた。
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