第9話

「どうですか」


 卓上の鏡で、プリンカラーから黒一色へ染め直された髪をチェックする。

 塗料の質の問題なのか、いくらか不自然な印象は否めない。けれど、案外悪くは無いと思った。こういう路線も、アリかもしれない。

 髪の長さは、私も一果も中学時代から変えていない。これで制服を着れば、かなり「一果らしく」なるだろう。

 私は頷いた。


「いいと思う」


「じゃ、早速着替えてもらえますか」


「ごめん。その前に、お腹空いたんだけど」


 胃袋の辺りに手を当てる。事実、空腹だった。

 加えて、染料が充分に乾いているかも分からない。他人の服を着る以上、きちんと時間を空けたかった。まして、着るのは純白のブラウスなのだし。

 はこべがベッドサイドのデジタル時計を見て、むむう、と唸った。お預けを食らった仔犬のようだ。そんな可愛いキャラではないが。

 視線が冷蔵庫に向く。


「何か作りましょうか?」


「いいよ、コンビニでパンでも買ってくるから。冷蔵庫、空だし。てか、さっき買えば良かったな……」


「じゃあ、私も行きます」


「いや、一人が行けばいいでしょ。外暑いよ。何かリクエストある? セブンだけど」


「それならお金、」


「いらんわ」


 ただでさえこの前の鍋の材料費は、はこべ持ちなのだ。コンビニのパン程度では、むしろ釣り合いがとれない。


「えっと、じゃあ、サンドイッチで」


「オーケイ」


 スマートフォンを手に玄関へ向かう。後ろから、はこべが付いてきた。鍵を締めるためだろう。

 スニーカーを履いて、振り返る。

 フローリングの廊下に、はこべが立っている。

 何となく、この状況に相応しい言葉があるような気がした。

 玄関に立ったまま正解を探っているうちに、はこべが片手を上げて、控えめな角度で左右に振った。

 ぎこちなく微笑む。


「あの。い、いってらっしゃい」


「……い、いってきます」


 お互い、初見の英単語みたいな発音だった。なんだこれ。

 そう思いながら、重い扉を開ける。炎天下が再び、私の全身を焼く。


  †


「ただいま」


「おかえりなさい」


 だから何だこれ。

 はこべに卵と胡瓜が挟まったサンドイッチを渡し、私はもそもそとスティックパンを齧った。ついでに、ハッピーになれそうな粉が振り掛けられた楕円形の煎餅も齧った。ちょっとハッピーになった。

 口の中を麦茶で洗い流して、冷感ラグに寝転ぶ。


「さて、じゃあ動画でも」


「駄目です」


 誤魔化せなかった。

 折り畳まれたブラウスとスカートが、ぐいぐいと突き出される。真っさらなブラウスの上に置かれたリボンタイが、あたかも地面に落ちた花のようで、なんだか妙に生々しい。

 他人の制服。それも、今、目の前にいる少女が、毎日袖を通している制服。

 指の腹で生地に触れると、つるつるしていた。

 本当に着るのか、これを。

 固い唾を飲む。


「……分かった。じゃあ、洗面所で着替えてくるから」


「それも駄目です」


「え?」


 立ち上がろうとする私の手首を、はこべが掴んだ。

 はずみで髪が揺れて、毒々しいブルーが垣間見えた。桜色の唇が、きゅっと引き結ばれる。

 絶対に離さないと宣言するかのように、手首を握る手は力強い。


「ここで着替えてください。私の前で」


「はい?」


 思わず、空いている手で胸元を隠す。


「こ───ここで?」


「はい」


「あんたの前で?」


「はい」


「え、えろいのはナシって、」


「いえ別にえろくないです」


 切羽詰まったみたいに、更に強い力で手首を握り締めてくる。普通に痛い。いや必死か。そんなに見たいのか。


「制服に着替えるだけですよ。更衣室で着替えるのと同じです。全然えろくないです」


「いやいやいや」


 そんな訳が───ない、のか? 

 言われてみると大したことが無い気がしてくる。一応、透け対策でカップ入りのキャミソールを着ているし。下は普通にショーツだが。

 大した色気はない。

 本当に? 本当にそうか?

 背筋を汗が伝う。備え付けのエアコンが、いつの間にか停止していた。不調だろうか。あるいは、コンビニに出掛けている間に、はこべが止めたのか。

 じりじりと体感温度が上昇していく。


「あの、そんなに見たい? 大したもんじゃないよ」


 Tシャツにプリントされた英単語の上から手を当てて、自らの膨らみを確認した。うん、ほどほどだ。早瀬川のように、目を見張るサイズではない。

なんだったら、多分はこべのほうが大きいだろう。

 けれど、はこべは真剣だった。


「見たいって言ったら、見せてくれますか」


「いやそれは、」


「見たいですけど」


 あまりに率直な台詞に、言葉が詰まる。


「めっちゃ見たいです、けど」


 真っ直ぐな視線が、胸の曲線へと突き刺さる。

 目に見えない透明な手で、素肌をまさぐされているような、そんな気分だ。衣服の下の素肌がざわつく。

 けれど、不思議と不快ではなかった。

 むしろ、まあそこまで言うのなら、という気分になっている。ちょろくないか私。大丈夫か。


「一果の、見たことあるんじゃないの?」


「……いえ」


 視線が逸れる。予想外の反応だった。過去のやり取りから、てっきりそう言う段階まで踏み込んでいると思っていたのだけれど。

 はこべは、横を向いたまま、ぼそりと呟く。


「言ったじゃないですか。手を繋ぐのも精一杯だった、って」


「ああ」


 そういえば、そんなことを言っていた。ただ、言葉どおりの意味とは思っていなかった。そうか。そうなのか。

 まだ見てないんだ。

 なんだか肩から力が抜けた。


「分かった。別に見てもいいけど、キャミ着てるからね」


「えっ。……あ、はい。そうですよね」


「おい」


 露骨に萎れるなよ。この思春期女子高生め。


 

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