第8話
冷房の効いた部屋で、びしょびしょに汗をかいた麦茶のキャップを捻る。
不揃いなコップに、冷凍庫を占領しているロックアイスをひとつずつ落とした。カラカラと涼しい音が鳴る。
背後を振り返って、一応尋ねた。
「マグとグラス、どっちがいい?」
「えっと」
「ちなみに中身は同じ。麦茶」
「じゃあ、マグで」
一人用のローテーブルに、薄ピンク色のマグを置く。涼しい顔をしていても、やはり喉は乾いていたらしい。はこべはいそいそと取っ手を掴んで、くいくい呷った。
いい飲みっぷりだった。
上下する白い喉を、ぼうっと眺める。
今日の彼女は、ゆるいカットソーにデニムスカートを巻いていた。カットソーには、ネコのような謎の生き物がプリントされている。よく見れば、いつもスタンプで送ってくるキャラだ。私の知らないどこかの界隈で、流行っているのかもしれない。
「先に言っておくけど」
私はあらかじめ用意した台詞を告げた。
「写真とか動画は無しだからね」
「えー」
「えー、じゃねぇわ」
撮る気だったのか。これ以上、脅迫のネタを増やすつもりはない私である。
「てか、どんな服持ってきたの」
「やだな、健全なのを一着だけですよ」
「へえー」なんだ。
私の反応を見たはこべが、にんまりと唇の端を吊り上げた。
「不健全なのを期待してましたか?」
「うるさい馬鹿。そんなわけあるか馬鹿」
そう言いつつ、正直、ちょっと勢いを削がれた気分だ。はこべに撮らせるつもりはないものの、モノによってはこっそり自撮りして(加工して)SNSに公開しようと思っていたのに。
「なんのコス? ソシャゲ?」
「高校の制服です」
「ほう」
それコスプレか? まあコスプレか。女子大生が女子高生の服を着るわけだから。なるほど制服ね。盲点だった。
制服。制服?
ボストンバッグから、丁寧に折り畳まれたブラウスとチェックスカートが現れた。
見慣れた藍色と水色のチェック柄。ただし、自分で着たことはない。でも、良く知っている。この服は、かつて私が望み、叶わなかった無数の夢のひとつだ。
「その制服って、」
「美浜大附の制服です」
はこべは淡々と補足した。
「つまり、私の制服ですね」
変な声が出そうになって、どうにか堪える。
リボンタイの後に、黒いスプレー缶が現れた。手軽に髪を染めるための、ワンデイ用のヘアカラー。就活生が、面接前の黒染めに使うような品だ。用意のいいことに、黒い紙ポンチョもある。
美浜大附の制服。黒のヘアカラー。私はようやく、これが「何の」コスプレなのかを理解した。怖気に近い感覚が背筋を駆け上がる。
高校時代の一果は、黒髪だ。
「ウィッグも調べたんですけど、しっくりくるのが無くて。思ったより高いですし」
はこべの言葉が遠く聞こえる。私の顔を見て、はこべが、ためらうように言った。
「あの。やっぱり駄目、ですか」
「……いや、まあ。駄目ではない、けど」
「なら、お願いします」
私を見つめる目はどこまでも本気で、真剣だ。大真面目に狂っている。
だから思わず、頷いてしまった。ほっとしたように、はこべが小さく息を吐いた。
「じゃあ、始めましょうか」
はこべが立ち上がり、私の前に手鏡を置いた。背後に回って、頭からポンチョを被せてくる。紙の素材が、首周りに擦れてこそばゆい。
耳の後ろで、シャカシャカとスプレー缶を振る音がした。
「動かないでくださいね。他人の髪弄るの、初めてなので」
他人の、という言葉で気がついた。
「その髪、自分で染めてるんだ」
「そうですよ」
シュウ、と塗料が噴射された。鏡の中で、はこべの指が、私の髪を丁寧に梳いていく。
別にスプレーを使っての黒染めくらい、人の手を借りなくても出来る。なのに、自分でやる、と言い出す気にならなかった。
はこべの細い指が髪に触れる感触は、意外なほど気持ちよかった。
「インナーカラー、いつから?」
「高一の秋……ですかね。二年前」
「不良だ。怒られた?」
「美浜大附って、その辺自由なんですよ。髪とか服とか。成績さえよければ、みたいな」
そういえば、一果もそんなことを言っていた気がする。
「でも案外、誰もはっちゃけないんですよね。附属だから、みんな美浜大に推薦はしてもらえますけど、希望の学部に行けるかは内申次第ですし。あと、根が真面目な子が多いので」
「じゃあ、目立つでしょ」
「それはもう」
言葉の響きの奥に、苦いものがあった。
「めっちゃ浮いてます」
だろうな、と思った。本音を言えば、仕方がないとさえ思う。
学校というコミュニティには、逸脱を許される立ち位置だって存在する。ただ、はこべがその椅子に座れるタイプとは思えなかった。
この見た目でこの性格なら、地雷ちゃん扱いが関の山だろう。
「でもいいんです。私が好きで染めてるので」
本当に自身の意思だけで染めているなら、何も掛ける言葉はない。私は教師でも保護者でもない。自由にすればいいと思う。
なのに、そう言えなかったのは、色の選択に思惑を感じたからだ。
深く鮮やかなインディゴブルー。
一果の好きな色。
「一果さんが、綺麗だねって言ってくれたから。それでいいんです」
「……あっ、そ」
隠し持った宝物を自慢する子供のような声に、何故かイラっときた。底意地の悪さが顔を出す。どうせもう、その青い髪を誉めてくれる相手はいないのに。捨てられたくせに。何を未練がましく。
「別れたのに、戻さないんだ」
髪を撫でていた指先が、ぴたりと止まった。
「てか、そういうとこが、フラれた理由じゃないの。重いっていうかさ、面倒臭いって」
「うるさい」
思わず首を捻って、はこべを見上げた。
いつも涼しげな彼女の顔から、あらゆる感情が削ぎ落とされていた。黒い瞳だけが揺らいでいる。ひりつくような苛立ちが、その奥でぐらぐらと煮えていた。
固い唾を呑む。
ややあってから、深く息を吐きだして、はこべは言った。
「あの……ごめんなさい」
「いや、その、私も」
染髪の手を止めたまま、はこべは、ぽつぽつと話し始めた。
「次乃さんの言うとおりです。私は重くて面倒臭くて、きっと、それがダメだったんです」
「……ダメってのは、違うでしょ。それはあんたの個性で、相性の問題だよ」
そうなんですかね、とはこべは私の肩に手を置いた。指先に力が籠る。爪が食い込んで痛かったけれど、我慢した。
「私には一果先輩だけでしたけど、先輩はそうじゃなかったんです。私は、それに耐えられませんでした」
「浮気された、ってこと?」
「違います。そういう具体的なことではなくて……なんていうか、重さが全然違ってて。気持ちの」
「なんとなく分かるよ。一果は、確かにそういう奴だから」
ほう、とはこべの唇から吐息が漏れた。
「伝わるんですね、こんな説明で」
「何年あいつと双子やってると思ってんの。それなりに、あいつの被害者は見てきたよ」
東雲一果は太陽だ。
眩く輝き、その光は照らす相手を選ばない。そして当の本人は、照らされた相手のことなんて気にも留めない。
求められれば応える。けれど、けして一人のものにはならない。執着や嫉妬といった仄暗い感情とは、無縁の場所にいる。誰からも慕われていて、男女問わず懐に入るのが上手い。
そういう女だ。
「なんていうかな。教室の隅で本読んでる女の子がいたら、迷わず声をかけるタイプなんだよね。あいつ一人だけ、グループとか、しがらみとか、全部無視できる特権を持ってる感じ。何なんだろうね、あれ。オーラでも出てんのかな」
「めっちゃ分かります」
「そんで、勧められた本とか漫画とか読んで、感想言ったげてさ。おまけに一緒に帰ってあげたりするわけ。そんなの好きになるよね。あ、変な意味じゃなくてね」
「はい」
「でも、それが一果の普通なんだよ。誰に対してもそういうことをする。もちろん、苦手なタイプもいるし、そういう相手は避けるけど、多分、大抵の人よりずっと許容範囲が広い」
「それで公平」
「そう。公平で平等」
見方によっては八方美人だ。それでも、一果は人の輪から外れない。
割を食うのは、むしろ照らされた日陰者のほうだ。日なたの暖かさを知ってなお、一人で影に潜み続けるのは心が折れる。
折れて、一果に詰め寄ってしまう。時には非難し、なじったりもする。
どうして自分に優しくしたのかと問い詰める。
『だって、斉藤君が寂しそうだったから』
小学生のときだ。一果にそう告げられて、泣き出してしまったクラスメイトを見かけたことがある。
多分、彼は恋をしていたのだろう。
別々の高校に入ってからは、お互いに学校の話はあまりしなかった。太陽人間は引退したのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「質の悪い女だよね、一果はさ」
怒るかと思ったのに、鏡の中のはこべは、むしろ微笑んでいた。
「知ってます」
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