第7話
ざばざばと俄雨の降る夜だった。
私は水色のニットパーカーを引っ掛けて、ローテーブルに据え付けたコンデンサマイクに語りかけていた。
「え。みんな本気? 本気で見たいと思ってる?」
『見たい』
『思う思う』
「大惨事にしかならないと思うが……」
コメントを流し読みながら、私は萌え袖で頬杖をついた。投げ銭が飛んだ。何でだ。
コスプレの話である。
『コスプレいいね』
『なんのコスプレするんですか?』
「いやするとは言ってないからね。一言も」
雑談配信で、そんな話が出た。
時折話題に出しているソシャゲがアニメ化したので、その話の流れだ。コメント欄に、SpiralーDestiny-Recordという流行りの擬人化美少女育成ゲームに登場するキャラクターの名前が雑然と流れていく。
コスプレね。配信の企画としては悪くないかもしれない。ただ、相応のコストはかかりそうだ。私に裁縫やモノづくりのスキルはない。である以上、金銭で代替えすることになる。
『いきなりSDRのコスは敷居が高い。小道具どうすんだ』
『メイド服とかならビレバンに売ってますよ』
『メイド服見たい』
『今、令和ぞ』
『個人的には制服が見たい。高校時代の』
「や、さすがに制服はなぁ。特定されちゃうじゃん」
『そりゃそうだ』
ほどほどの盛り上がりと、強制にならない程度の期待。これくらいが丁度いい。ぬるい温泉に腰まで浸かっているような多幸感が、胃のあたりから湧いてくる。
画面の向こうにいる彼らにとって、私はただの「ねくねく@」だ。ここでなら、私は東雲一果の妹でいる必要はない。この居場所を維持するためなら、コスプレくらいやってあげてもいい、と思う。
とはいえ、先立つものはどうにもならない。私は適当なところで話を切り上げて、次の話題に移った。
『今度、コスプレして貰えますか』
何言ってんだこいつ。
シャワーを浴びて戻ると、スマートフォンにメッセージが届いていた。送信者は、「はこべ」。既読がついたトークルームを見ながら、反応に困った。
というかこいつ、私の配信を毎回見ているのだろうか。
思い悩んでいるうちに、次のメッセージが届いてしまう。
『衣装はこちらで用意するので』
どうしたものか。
抵抗があるかと問われたら、そこまではない。見たいと請われたなら、まあ、見せてやっても良い。そんな感じだ。衣装の程度にもよるが。
『別にいいけど、なんで?』
『個人的に楽しむ為です』
一番不穏な回答だった。楽しむって何。なにを。どうやって。怖い。
『えろいのは着ないからね』
貼った予防線に、やれやれと首を振る、謎にファンシーな生き物のスタンプが返ってきた。こういうセンスが、いちいち小憎たらしい。
ベッドにスマートフォンを放り投げて、自らも身を投げた。
直後に、ピロンと軽快な通知音がした。まだ何かあるのか。そう思って、画面を確認する。
違った。
送信者のアイコンは、白い花ではなく、藍色の夜空だ。鮮やかなインディゴブルー。
それは、高校時代から変わらない、私の双子の姉のアイコンだった。
窓の外、ガラスを打ち据える雨の向こうで、遠雷が鳴っていた。
ほんの僅かな間、既読をつけることを躊躇った。目を閉じる。
息を吐いて、アイコンをタップした。さっと目を走らせる。
大した内容ではなかった。近々ルームメイトと小旅行に行くから、お土産のリクエストを聞きたい。行き先は石川県金沢市。その程度の、ありふれた内容だった。
『甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?』
金沢と聞いても、何も思い浮かばない。北陸だっけ? ネットで検索を掛けると、和菓子や金箔、のどぐろ(という魚)が引っ掛かった。
甘いものなら和菓子だろう。しょっぱいものなら、干物だろうか。
『どっちでもいいよ』
『それ一番困るやつ』
『じゃあ甘いので』
『おっけー、了解』
ふと、悪辣な考えが湧いた。このトークルームに、はこべのことをぶち撒けたらどうなるだろう。はたして一果は、元カノの奇行にどんな反応を返すだろうか。
平均的な感性の持ち主なら、嫌悪を示す筈だ。はこべの執着に。あるいは、それを受け入れた私に。
でも一果なら、と想像して、不毛な思考を打ち切った。どの道、姉にはこべのことを相談するつもりはない。だから、この仮定に意味はない。
ぼんやりとトークルームを眺める。
ルームメイトと小旅行、か。
ルームメイト。これまでは、何も意識していなかった。今となっては、やけに存在感のあるワードだ。
一果は、高校卒業前からルームシェアを計画していた。
シェアの相手は高校の同級生で、女同士だから何の心配もいらない。家賃が浮く分、仕送りは最低限でいい。そう両親に掛け合って、許可を得ていた。
もちろん本当に、ただのルームメイトなのかもしれない。
でも。
もしかしたら、一果は今、はこべの代わりに選んだ誰かと暮らしているのかもしれない。
あの一果がたった一人を選ぶなんて、どんな相手だろうな。
ふと、そんなことを思った。
†
コンビニの陳列棚を前に、指が迷う。
ティーバッグとドリップコーヒー。どちらが好みか考えて、馬鹿馬鹿しくなった。どうして私が、あいつの好みを気にしないといけないのか。
結局、2リットルの麦茶が詰まったペットボトルを手に取った。温い水道水でもいいか、と思ったが、さすがに止めた。他に常備している水分といえば、早瀬川の日本酒くらいだ。どうしようもない。
ついでに、お菓子も買った。ハッピーになれそうな粉末をまぶした煎餅と、徳用の個包装チョコレート。しめて六五二円。
「袋、要らないです」
家から持ち出したビニル袋に詰めながら、果たしてここまでする義理があるのか、自問自答した。
答えは出なかった。
コンビニを出ると、七月の白い日差しが目を灼いた。オーバーサイズのTシャツが肌に貼り付く。家に着くまでチョコレートが持つか、怪しいところだ。
歩きながら、スマートフォンで時刻を確認した。そろそろ十一時になる。
親指で、顎を滴る汗を拭った。抜けるような空に向かって、心の中で悪態をつく。全く、太陽め。今からこのザマで、八月はどうするつもりだ。
陽炎を踏み越えて、ようやくアパートへ辿り着いた。年季の入った外階段を昇る。かん、かん、かん。真夏の三階は、天国のごとく遠い。
けれど今日は、いくらか足が軽い、ような気がした。靴底が弾むみたいに。
なんだ。まさか浮かれているのか、私は。
初のコスプレが楽しみだったりするのか。
それとも───
あほか。
錆の浮いた階段を登り切ったとき、スマートフォンが鳴った。受信ではなく、着信だった。LINEの無料通話。
発信元は、白い花のアイコンをしていた。
「もしもし」
『下です、下』
階段の手すりに身を寄せて、歩道を見下ろす。
ボストンバックを肩に掛けたはこべが、日傘を傾けて、私を見上げていた。
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