第6話
「ただいま」
「おかえり」
アパートに戻ると、早瀬川は、Tシャツ一枚のしどけない姿をしていた。裾から伸びた、剥き出しの太腿が眩しい。シャワー借りたよ、の声に頷いて隣に座る。
濡れた髪から、ふわりと石鹸の香りがした。泊まりのとき、早瀬川はいつも石鹸を持参する。こだわりがあるのかもしれない。
実際、彼女の髪はとても綺麗だ。背中まで届く黒髪は、光に透けると、うっすら琥珀に似た色になる。染めた色が抜けかけた、私のブリン髪とはモノが違う。
ぼうっと見ていると、酎ハイの缶を渡された。何か誤解されたらしい。
「で?」
「で、とは」
「いや、何なんだい。あの子」
「あー」
プルタブを持ち上げると、爽快な音がした。一口ずつ、舐めるように呑む。夜風に吹かれて、すっかり酔いは醒めていた。
「はん。まさか君が女子高生を誑かすような輩だったとはね」
「人聞きが悪すぎる」
「じゃあ説明しなよ」
「う」
はじめは、そのつもりだった。そのためのアルコールで、時間だった。
彼女は双子の姉の元カノで、私の個人情報を盾に関係を強要してくる犯罪者です。
いや、「関係を強要」は語弊がある気がする。でもキスされたしな。ハグは……どうだろう。
とにかく、愚痴を聞いてもらうつもりだった。打ち明けて、相談に乗ってもらうつもりでいた。
でも、今は。
白頭はこべを悪様に罵るための語彙が、私の中に見当たらない。
早瀬川は、行動力のある人だ。ありのままを伝えれば、きっと、何がしかのアクションを起こす。多少、強引な手も厭わずに。
私は本当に、そんな解決を望んでいるのだろうか。
ちらりと早瀬川の顔色を伺う。誤魔化しや酔ったフリが通じる雰囲気ではなかった。真剣に心配されていることがわかるから、逃げられない。
「一果の元カノ」
結局、事実の断片を切り取ることにした。
早瀬川の目が丸くなる。
「一果って、君の双子のお姉さんの?」
「そうだよ」
「元カノ」
もとかのかぁ、と繰り返す。
「君のお姉さんって、どこの高校だっけ」
「美浜大附属」
「共学じゃん。じゃあ、本物かもな」
「偽物とかあんの?」
「あるよ。私は女子高出身だからね」
あるのか。あるのかもしれない。本物があれば、偽物だってがあるのが世の常だ。光があれば影がある。映画のごとき真実の愛があるのなら、偽物の恋愛だってあるだろう。
私とはこべの関係だって、そのバリエーションだ。少なくとも、本物が放つ輝きからは程遠い。
光っているかどうかさえ、怪しいくらいだ。どちらかといえば、ブラックホールとか、底なし沼のほうが近い気がする。
早瀬川が、水を呑むかのように日本酒を呷った。その仕草が、なんだかお芝居じみていて、ひどく様になっている。
セーラー服を着る、彼女の姿を想像した。クラシカルな紺色に、赤いスカーフを結んだ早瀬川。額の右側で丁寧に分けられた黒髪が、春の風に靡く。
私が後輩なら、チョコレートのひとつも持っていったかもしれない。
「早瀬川、モテたでしょ。女の子に」
「どうかな」
あたりめ三本をまとめて食い千切り、更に酒を呷る。それでも顔色一つ変わらないのだから恐ろしい。
「まあ実際、五回くらい告白されたけど」
「すげえ」
やはりあるのか、女子高。
告白なら、私も一度だけ受けたことがある。高校ではなく、中学校で。相手は普通の男子だったけれど、咄嗟に怖くなって断った。
付き合うことが怖かった、というわけじゃない。恐れたのは、訂正されることだ。
ごめん、一果さんと間違えた。いい気になって承諾した後で、そんな言葉が飛び出てくるんじゃないか。そう思うと、怖くて首を縦に振れなかった。
馬鹿げた話だ。いくら双子だからって、告白する相手を間違えたりはしないだろう。けれど中学生の私にとっては、真剣な問題だった。一果ではなく私を好きになる人がいるなんて、信じられなかった。全く同じ顔をした上位互換がいるのに、どうしてわざわざ私を好きになる必要がある?
恋愛に関するエピソードなんて、それくらいだ。だからその手の話になる度、語れるネタが無くて頭を抱えることになる。
言い換えれば、「話のネタが無くて困る」ということ以外では、困ったことがない。色も恋も、どこか遠くの出来事だった。
自分は、生きる上であまり色恋沙汰を必要としない人間なのだろうな、と思う。
「付き合ったの?」
「内、二人とはね。まあ、友達の延長線上みたいなもんだ」
「へえ、へえぇ」
「カラオケ行ったり、水族館行ったり」
そう聞くと、あまり友人関係と変わらないように思えてくる。
「まあ、ごっこ遊びだよ。仲良く手を繋いだり、ハグしたりね」
「それはやっぱり、女相手だから?」
「意外と踏み込むなぁ。うぅん、そうだね」
ウェンリントンのフレーム越しに、早瀬川の瞳が私を捉えた。彼女の瞳は色が濃くて、いつもつやつやと濡れたように光っている。
すぐに視線は逸れて、酒の水面に落ちた。
「この世の中は往々にして、一番欲しいものこそ、手に入らないんだよ」
明晰な早瀬川にしては珍しい、噛み合わない解答だった。
それ以上は答える気がないようで、彼女は残ったあたりめを全部口の中へ放り込み、黙々と海産物を噛み締めながら、カーテンの隙間に覗く夜空を見ていた。
私は曲げた膝に頬を乗せて、目を閉じる。
瞼の裏に、はこべの姿が浮かんだ。代替物を必要とするほど一果を欲している彼女は、別れを告げられたとき、どんな顔をしたのだろう。
一番欲しいものは、早々手に入らない。
白頭はこべの一番は東雲一果だけれど、東雲一果にとってはそうではなかった。それは仕方のないことだ。あいつ顔は良いけど変質的だし。
まあ、でも。
星の数ほどある組み合わせの中で、互いの一番が重なるなんて、途方もない奇跡みたいなものなんだろうな。
そう思った。
三本目の酎ハイを干した後、私もシャワーを浴びた。安アパートなので、湯船はない。
時計を見たら、まだ(?)十一時だった。
早瀬川が持参したタブレットをWi-Fiに繋げて、名前だけは聞いたことがある海外ドラマの一話と二話を鑑賞した。それなりに面白かった。
そうして、二人でベッドに寝転んだ。
「狭いよぅ」
「我慢しなよ」
「この胸が良くない。敷地面積を取り過ぎてる」
「んなわけあるか」
シングルベッドのパイプを軋ませて、身を寄せ合うように眠った。早瀬川の胸元からは、やっぱり、清潔な石鹸の匂いがした。
夢は、見なかった。
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