第5話
エコバッグには、長葱の他、豚肉や豆腐、春菊、椎茸などが詰まっていた。あとキムチも。
鍋を作りに来たのだ、という。
「何で?」
「次乃さん、ロクなもの食べてなさそうだったので」
「いやいやいや。せめてアポを取れ!」
「取ったら断られそうなので」
そりゃ断るわ。こちらの憤懣を他所に、はこべは狭い調理スペースへ野菜を並べていく。
「その顔に吹き出物とか作られると、私が困るんですよ。痕が残ったらどうするんですか?」
どういう理屈だ。
ほぼ新品のセラミック包丁を見つけ出したはこべから離れて、早瀬川の向かいに座った。レンズ越しの伶俐な瞳が、探るように私を見つめる。何も後ろめたいことはないのに、責められている気分になった。
「誰」
「いや、その……知り合い」
「何かの手違い、でもなさそうだけど。帰ろうか?」
「いや、むしろ居てほしい。というか、どう考えても帰るべきはあっちなんだけど……」
無理やり追い返すと、何するか分からなくてちょっと怖い。おまけに今は、包丁を持っている。鬼に金棒だ。
「約束とかしてたわけじゃないよ。なんか、いきなり来た。鍋を作りに」
「鍋」
「キムチ鍋」
キムチ鍋かあ、と早瀬川が顎に手を当てた。
「しばらく食べてないな」
「そういう問題?」
「だって君の友人なんだろ」
違う。はこべは友人ではなく脅迫者だ。私を双子の姉の代用品として弄ぼうとしている。
「友だち……ではないな……」
「へえ」
早瀬川の目が鋭くなった。こいつもこいつで怒ると怖い。
「君、そんな相手を家に上げるのか」
「いやだって、いうて女の子だし……」
呆れたように、早瀬川が言った。
「あのなあ。君、男ばかりが危険なわけじゃないぜ」
どん、と手のひらで肩を押された。私と早瀬川では体格もウエイトも違う。いともあっさり、ころんとラグマットの上に転がされた。
なにすんの、と抗議する前に、タイトなジーンズに包まれた足がのしかかってくる。マウントポジション。腰の辺りが押しつぶされて、身動きが取れない。
「ほら」
「何が⁉︎」
「もうちょっと、自分の貧弱さを理解した方がいい。君ごとき、取っ組み合いになったらその辺の女子高生にも勝てないよ」
かがみ込んで、ぐにぐにと頬を摘まれた。早瀬川の長い髪が滑り落ちて、私の首筋をくすぐる。
つい最近も、こんなことがあった気がした。
偏差値の高い顔面が近くて、お腹の辺りから他人の体温が伝わってきて、思わず横を向く。
「や、やめろよぉ」
「だから、そういうところだって。嫌ならちゃんと抵抗する。そうしないと、変な誤解されるぞ」
誤解って、この状況でなにを。
「あの。お鍋、出来ましたけど」
「「あ」」
†
「白頭? 君、姉妹がいたりしないか?」
「あ、はい。いますけど。姉が一人」
「なるほど」
早瀬川が、姓名を名乗ったはこべの顔をしげしげ見つめて、なにやら頷いていた。
それでもう、会話が途絶えた。
普段なら、やりとりの不自然さを指摘して話を膨らませるところだ。姉がいたというのも新情報である。
けれど今は、上手く舌が回らない。初対面同士が顔を合わせたときに発生する、お互いの間合いを探り合う緊張感がこの場を支配している。
「い、いただきます」
間を繋ぐように、鍋に箸を伸ばした。鍋と言いつつ、器はフライパンだ。鍋じきもないので、雑誌で代用している。
はこべのキムチ鍋は、なんというか、健全な味がした。美味しさよりも、きちんとしたものを食べている、という満足感が先に立つ。
私が最初の一口を飲み込むと、それが合図だったかのように、二人も手を動かし始めた。
「美味いな」
早瀬川が、感心したように言った。具を食べ、茶碗に残った鍋汁を日本酒に注いで呑んでいる。なんだその呑み方。玄人っぽいな。
とりあえず、当たり障りのない質問をはこべに投げた。
「あの。はこべ、今日どうする? もうすぐ八時だけど」
「どう、とは?」
「いやもう夜じゃん。早瀬川は泊まるけど、あんたは終電とか」
はこべの割り箸が止まった。
「その人、泊まるんですか?」
「その人て。早瀬川だよ」
「泊まるんですか」
「と」「泊まるよ」
何故か早瀬川が答えた。
今は、明らかに私が答える間合いだったと思うのだけど。
「しょっちゅうだからね」
「そうなんですか?」
はこべの視線が私に向く。何故か責められているような気分になる。なんでだ。
「まあそうだけど。宅飲みの後に雑魚寝なんて、珍しくないよ」
「そうなんですか……」
はこべが、持参したペットボトルのお茶に口をつけた。
彼女はずっとお茶しか飲んでいない。三人で鍋をつついている訳だし、転がっている酎ハイの一本くらい、好きに飲めばいいのだけれど。派手な色に髪を染めているわりに、不良という訳ではないらしい。
まあ、お酒は駄目か。高校生だし。駄目だな。
飲もうとしたら止めよう、と心に決める。
「大学生って、そう言う感じなんですね」
はこべの発言に、早瀬川が咎めるような視線を投げてきた。おい、高校生かこいつ。はいそうですごめんなさい。
開き直って、はこべに尋ねてみた。
「高校生活、どんな感じ?」
「そうですね───」
そこからは、自然な会話が始まった。後から振り返っても何一つ話の内容が思い出せないような、そういう会話だ。
はこべの箸使いは丁寧で、意外と健啖だった。インナーカラーを好む女なんて全員少食だと思っていたけれど、これはさすがに偏見だったらしい。小さな口で黙々と咀嚼を繰り返す姿には、妙な愛嬌があった。端的にいって可愛い。
顔が良いというのは得だな、と思う。
九時を回った辺りで、はこべが帰ると言い出した。三人ともシメのうどんまできっちり頂き、すでにフライパンには汁の一滴も残っていない。
「駅まで送るよ」
ローファーを履く背中に声を掛けた。どうも、と小さく返事が聞こえたので、私もスニーカーを引っ掛けた。
アパートを出る。七月の生温い夜風が、アルコールで火照った頬を冷まして通り過ぎていく。
駅へ続く道は、車道沿いの大通りと裏道の二種類がある。夜だから、念のために大通りを選んだ。時折、自動車のテールランプが、はこべの横顔をぼんやりと赤く照らした。
道の半ばの辺りで、はこべが唐突に口を開いた。
「次乃さんて、友達、いるんですね」
「いないと思ってたのか……」
「配信で承認欲求満たそうとする人なんて、大概そんなものだと思ってました」
「辛辣ぅ」
「じゃあ、どうして始めたんですか。配信」
普段なら受け流す類の質問だった。正直な言葉が出てきたのは、酔って口が軽くなっていたせいだろう。
「大した理由じゃないよ。大学受験で、第一志望に落ちたんだ。それで、自分に何か価値があるかを確かめたくなって───って、これはつまり、承認欲求を満たすためってことになるな……」
「第一志望って」
「美浜の法学」
僅かに息を呑む音が聞こえた。当然知っているだろう。
美浜大学の法律学部は、一果が在籍している学部だ。
「一果がどんなやつかは、よく知ってるでしょ」
「……はい」
「姉がああいう感じだと、妹は肩身が狭いんだよ。特に双子の場合はさ」
一卵性双生児の姉と妹。同じ設計図で作られた半身同士。二つに切られた、オレンジの片割れ。
一果のぴんと伸びた背筋と、真夏の太陽みたいな笑顔を思い出す。一体、どこで私たちの明暗は分かれたのだろう。
最初からならまだ救われるのに、そうでないことだけは明らかだった。
「あの、」
私のシャツの裾を掴んだはこべが、斜め下のほうを見ながら言った。
「顔だけなら、次乃さんも負けてませんよ」
「……そりゃどうも」
知ってる。
ただ、それも疑問だ。もう少し年齢を重ねたら、知性とか表情筋とか生活習慣とかの差が、顔の造形に現れてくるかもしれない。
幼い頃、姉は私の半身だった。物心がついてしばらくの間、それは私の一番の自慢だった。お喋りが上手で、かけっこが速くて、いつも友達に囲まれている一果ちゃん。彼女と全く同じ遺伝子を持っていることが、私の誇りだった。一卵性の双子なのだから、私たちはあらゆる意味で同等なのだと信じ込んでいた。
とんだ勘違いだ。一果と私が同等?
思い返せば、勉強もスポーツも、何一つとして一果に勝てた記憶がない。私はいつだって、「一果ちゃんの双子の妹」であり、「じゃない方」だった。
中学校へ入学するころには、私は少しずつ自覚していた。私と姉の間にある、どうしようもない格差を。
高校受験を終えたとき、とうとう劣等感が姉妹愛を上回った。双子の姉が合格した美浜大附に、私は落第した。
そして思春期の最後に、どうにか追いつこうと足掻いて、やはり失敗した。
それをきっかけに、配信活動を始めた。東雲一果を知らない誰かに、私を見て、評価して欲しかった。相対評価ではなく、絶対評価が欲しかった。
思い切って始めてみれば、歌やトークが微妙でも、それなりに人を集めることが出来た。なにせ顔と声だけは、あの東雲一果と瓜二つの出来なのだ。本物を知らない市場なら、劣化コピーにも需要がある。
「ここでいいです」
はこべが前に出て、くるりと振り返る。いつの間にか、駅前についていた。構内から放たれる白い光が、後光のように彼女の輪郭を淡く照らす。
「うん。じゃあ、」
「私は、次乃さんが配信を始めてくれて嬉しいですよ」
お別れを告げようとした喉が詰まる。
嬉しい、という感情が確かに沸いて、自分で自分をぶん殴りたくなった。勘違いするなよ。こいつが見たいのも、求めているのも私じゃない。一果だ。
これまで出会ってきた、多くの人と同じように。
「それ、脅迫のネタが出来たからでしょ」
はこべは何も言わずに、ゆるく微笑んだ。藍色の髪がちらつく。笑顔の意味が分からないほど、私は馬鹿じゃない。
「ねえ次乃さん。私と次乃さんって、どういう関係でしたっけ」
「脅迫者と被害者」
「そうですね。ご主人様と奴隷ですね」
「違うよ⁉︎」
「えー」
えーじゃない。百歩譲って、私ははこべの元カノの妹で、その代理だ。
「じゃあ、元カノ代理さん。それっぽくお別れしてもらえませんか」
「それっぽくって何」
「キスとか、ハグとか」
「……握手でどう?」
「だめです」
はこべが、迎え入れるように両手を広げた。どこかの寿司屋で見たポーズだな、と間の抜けたことを思った。脳が現実逃避を開始している。
「じゃあ、まあ、ハグで」
「はい」
はこべが近づいてくる。微かに甘い匂いがした。バニラの香り。香水ではなく、彼女自身の体臭なのかもしれない。
左右に視線を投げた。この時間でも、駅前には人通りがある。構内から降りてきた背広の男性が、ちらりと私たちを見て目を見張った。
気づかないふりをして、息を吸う。
ええい、と身を投げ出すように腕を広げた。別に普通だ、このくらい。自分に言い聞かせる。友達同士で抱き合うなんて、慣れっこだし。
互いの腕が背中に回る。
それなりに慣れているはずの行為に、ひどく緊張した。まるで、生まれて初めて誰かと抱き合うみたいに、胸が高鳴って息苦しい。
甘いバニラの香りが、鼻孔を満たす。
夏向けの、生地の薄いブラウス越しに、体温が伝わってくる。
呼吸が聞こえる。それが自分のものか、相手のものか分からない。
「ひゃっ」
背中に回ったはこべの手が、するりと私の背骨を撫で上げた。上へ、下へと繰り返す。なんてことのない仕草なのに、そこに何がしかの意図のようなものを感じた。
平たくいうとえろかった。手つきが。
「おい」
「なんですか」
「いや手つ、きひゃっ」
再び変な声が出て、手のひらで口を抑える。
はこべの指先が、腰の皮膚をくすぐっていた。
「ちょっ、おまえ……!」
「やっぱり、少し痩せ気味ですね」
また、ご飯作りに行きますね。
耳元で囁いて、身体を離す。甘やかな体臭が薄れて、湿った夏の夜の匂いが取って代わった。
私が睨みつけても、はこべは平然としている。
「ただのハグであんな声出すの、どうかと思いますよ」
「蹴っ飛ばされたい?」
「やです。暴力反対!」
こちらが身構えると、きゃあきゃあと手の届かない所へ逃げていく。ひらひらと舞う花弁のようで、掴みどころがない。
「あんたさ」
「なんでしょう」
「一果にも、そんな感じだったわけ?」
ぴたりと動きが止まった。
そろそろ私も理解していた。白頭はこべの急所は、いつだって東雲一果なのだ。
その証拠に、さっきまでおどけていた目が、瞬く間に寂寥で染まっている。
ふと、カラオケルームで見た涙を思い出した。あのときの彼女もこういう目をしていた気がする。ショーウィンドウの向こうにある、けして手に入らないものを愛おしむ目。
はこべは靴の踵で地面を蹴って、星を見上げるように言った。
「───まさか。手を握るのも精一杯でしたよ」
ぞくりとするほど、大人びた声だった。諦観と郷愁を秘めた声。
失恋どころか、恋さえまともに知らない私には、かける言葉のひとつも思いつかない。
僅かな沈黙を経て振り向いたはこべは、もういつもの彼女だった。
「本命には臆病なんです、私。そういうの、可愛いと思いません?」
「……全然」
ひどいなあ、と笑う。そうしてはこべは、駅構内から放たれる光の中へと消えていった。
取り残された私の二の腕を夜風が撫でる。もうアルコールは抜けていた。肌の火照りも冷めている。うっすらと汗ばむ身体に、この冷たさは毒だ。きびすを返して、帰路に着いた。
道中、一果と抱き合うはこべの姿が、白昼夢のように脳裏へ浮かんだ。
ただ、一果と私は同じ顔をしているから、それが本当に一果なのかはどうかは、まるで定かではないのだった。
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