第4話
スマートフォンの予測変換には、日頃の行いが現れる。らしい。私の場合、「あ」の第一候補は「愛」だった。素晴らしい。現代の聖女かもしれない。
もちろん偶々だ。レポートの関係で、そういう名前の作家を調べた。それだけ。だから明日には、悪に染まっているかもしれない。
不動の単語もある。「ね」。「ねくすと@」の一文字目。
「はーい、じゃあねー、お休みなさぁい……っと」
配信停止した私は、すかさずTwitterに自分の名前を打ちこんだ。
配信後のエゴサは、もはや習慣だ。成功することは殆どないけれど、稀に「ねくすと@」への呟きを見つけると、道端で宝物を拾った気分になる。
タイムラインを追いかけながら、IKEAの冷感ラグに寝転んだ。ファン(と言って良いだろう)が贈ってくれたこれも、宝物のひとつだ。1,499円のラグマットには、自己肯定感という付加価値がついている。
右半身を冷やしながら、検索ワードの組み合わせに創意工夫を凝らしていたときだった。
ふと、スマートフォンが振動した。通知を見て、思わず「ぐぅ」と喉が鳴る。
メッセージの送信者は、はこべだった。
『お疲れ様でした。まあ歌は良くなってきたんじゃないでしょうか』
なんだその後方彼氏面。
今日の配信は一時間半程度。雑談の合間に、一曲だけ歌を挟んだ。流れたチャット欄のコメントは比較的好意的、だった気がする。選曲の問題かもしれないけれど。
リップロールはあれからも続けている。効果はある、と信じることにした。どうせなら報われて欲しい。
『最近、ちゃんと食べてますか?』
『なに急に。母親か』
『違います。近くで見て思ったんですけど、次乃さんって一果先輩より痩せ気味なんですよね。もう少し肉つけませんか』
思わず半目になる。こいつのこういうところは、シンプルに気持ちが悪い。
洗面台で、鏡に映る影を見つめた。両腕を横に開いて、それっぽいポーズを取る。
一果より痩せている、だろうか。脳裏に姉のシルエットを描こうとしても、上手くいかない。
大学に進学してから、一果はルームシェアを、私は一人暮らしを始めた。以降、私たちは偶に実家で顔を合わせるくらいの関係になった。それくらいの距離感であれば、私も変な劣等感に悩まされずに済む。
思い切って、一果にはこべのことを相談しようかとも思った。けれど、先回りで釘を刺された。「先輩に私のことを言ったら許しませんから」だそうだ。怖い。
二人の間に、どの程度のコミュニケーションが継続しているかは分からない。「元カノ」という名前がつく関係性には、およそ無限大のバリエーションがある。あえて危険を冒す気にはならなかった。
もっとも、私を「代替品」として求めるくらいなのだから、二人が決別している可能性は高いのだろうけど。
一果とのやり取りは少ない。それでも姉妹である以上、全く無いわけではない。機会があったら、それとなく探ってみてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、はこべにメッセージを返した。
『食事、めんどくさいんだよね』
『普段何食べてるんですか?』
『朝はスティックパン』
『はい』
『昼は学食』
『はい』
『夜は、喉飴とか』
無言で怒りマークを浮かべた猫のスタンプが送られてきた。
だって面倒臭いのだ。コンビニへ買い出しに行くどころか、レンジでモノを温めることすらハードルが高い。洗い物など高みにあり過ぎて、転居時に詰め替え用まで購入した台所洗剤は、未だにほぼ新品のままでいる。
『でも、お酒を飲むときはツマミ用意するよ。ポテチとか』
『へえー、えらいえらい』
その辺りで、ふと我に帰る。
私は何を楽しくメッセージを送りあっているんだろう。これは所詮恋人ごっこで、私とはこべの関係は、脅迫者とその被害者でしかない。例え私がそれに同意したとしても、その関係性そのものが変わるはずもない。
枕を高くして眠る戦国武将のスタンプを投げて、トーク先を切り替えた。一年次からつるんでいる、同期たちとのグループに。
『明日、宅飲み来れる人いる?』
一人捕まった。上出来だ。
†
私には友人が三人いる。黒髪ロング眼鏡と、陰のある元体育会系と、天使だ。
黒髪ロング眼鏡は、名を早瀬川綾といい、むやみに豊かな乳房と強靭な肝臓を合わせ持つ酒豪である。
二限の社会学で顔を合わせた早瀬川は、近づく私にけだるく片手を上げた。倦怠感が肌から滲み出ている。
「また二日酔い?」
「いや、寝不足。レポートに気合を入れ過ぎた」
早瀬川は才媛だ。
昼間からがぶがぶ酒を呑むような女で、けして真面目とは言えないが、学業熱心で地頭が良い。にも関わらず美浜大ではなく海浜大に進学した理由は、「尊敬している教授が在籍しているから」だそうだ。初めて聞いたときは驚愕した。ネームバリューでも就職率でもなく、今日日そんな理由で進学先を決める人間がいるとは思わなかった。
「今日の夜、止めとく?」
「問題ないよ。三限が空いてるから、どこかで寝てくる」
「無理しなくていいけど」
「何言ってんのさ」
赤いウェンリントンの眼鏡越しに、きちんとカールした睫毛が見えた。そこに何か、艶かしさのようなものを感じて、背筋がざわつく。いやいや。
「私が君と飲みたいんだよ。だから大丈夫」
「お、おう……」
いやいや。
気の置けない発言に、友情以外の何かを見出しそうになる原因は、自分でも理解している。半分は、はこべと出会ったせいだ。女が好きな女を間近で見て、変に意識してしまっている。もう半分は、
「どしたの」
この早瀬川という女が大変にえろいせいだ。
性格や行動ではない。見た目だ。身に纏う雰囲気がだ。引き締まったくびれの描く曲線が、ノースリーブのサマーニットから伸びる柔らかそうな二の腕が、何とも言えずえろいのだ。シャープな輪郭に反して、どこか垂れ気味の目尻がえろいのだ。おまけに口元にほくろまで付いている。出来過ぎだ。
しかしいかにもモテそうなのに、浮いた話を全く聞かない。入学以来、何故か私とつるんでばかりいる。
ここまで完璧だと、かえってそういうものかもしれない。
「ありがと。……あ、そうだ。ちょっと意見を貰いたいんだけどさ」
「うん?」
「私、痩せすぎかなぁ」
「いや? スレンダーだけど、違和感はない」
「だよね!」
「ただまあ、もう少し肉付きが良いほうが私好みかな」
「へ、へ」
「なんだそのリアクション……」
「いやごめん。なんでもない」
いけない。うっかり言葉に余計な解釈を与えてしまいそうになる。
初老の教授が教室に入ってきた。隣から、怪訝そうな視線が飛んでくる。私はルーズリーフを開いて、出来るだけ講義に意識を集中した。
宅飲みの機会は少なくない。私の借りているアパートが、大学から三駅の場所にあるからだ。なにより安い。
駅前のスーパーで、酎ハイとお菓子を買い込んだ。缶は私の分だ。早瀬川が呑む日本酒は、私の部屋のキッチン棚の下段に、ボトルキープされている。
「いわばここは私のガールズバーだからね」
などと抜かしながら、いそいそと四つん這いで一升瓶を仕舞い込む尻を見て、つくづくしょうもない女だなあと思ったものだ。類友かもしれない。
イルカのタイルアートで飾られた駅構内を抜けて、藍色の街をのんびり歩いた。
学生向け安アパートの角部屋は、七畳すこしと手狭だが、それなりの遮音性はある。何より、隣室が事故物件だとかで一向に埋まる気配がない。音を気にしなくて良いのはいいことだ。配信にも、宅飲みにも。
ささやかな乾杯をして、ゆるゆるとアルコールを体内に取り込んでいく。
私が一缶を空けたあたりで、燻製にされたイカを齧りながら、早瀬川が言った。
「昨日、配信で歌ってただろ」
「う、見てたんだ……」
「レポートついでのながら聞きだけどね。中々上手かったよ」
「や、へへ」
どうにも照れる。
早瀬川は、配信活動のことを知っている。たまには聴きにきてもくれる。
この聡明で頼れる友人に、はこべのことを相談するつもりでいた。とはいえ、どう切り出したものか。
悩みながら、コーンスナックの袋に手をかけたときだった。
ピンポン。
来客を告げるチャイムが鳴った。二人で顔を見合わせる。
「何だろ。勧誘かな」
「出ようか?」
「だ、大丈夫」
この部屋のインターホンには、何とモニタがついていない。おそるおそる、ドアの覗き窓に目を近づける。
電灯が照らす共用廊下に、私服を着たはこべが立っていた。
「───は?」
手にしたエコバッグから、青々しい長葱が飛び出している。その生活臭が、首元にリボンのついた地雷系っぽいブラウスと、驚くほどに噛み合っていない。
なんで? 頭の中を疑問符が飛び回る。なんで今、はこべがそこにいるんだ。その膨らんだエコバッグの中身は何だ。
呆然と見ていると、彼女は痺れを切らしたようにスマートフォンを取り出した。
私のパンツのポケットで、iPhoneが振動する。
『居るなら早く開けてください』
私はおそるおそる、扉のツマミを回した。
「ちょっと、あんた何しに来たの……⁉︎」
「いえ、次乃さんがあまりにも───あれ」
視線が下を向く。そこにはスニーカーがある。女性にしては長身な早瀬川のスニーカーは、明らかに私のそれより大きい。
「……あ、彼氏ですか」
感情のない声ではこべが言った。
「お邪魔しました帰ります」
「違う違う違う。早とちりだって」
くるりと後ろを向いた肩を掴む。変な誤解をされるのも面倒だった。
掴んでから、その骨の華奢さに驚く。私は筋肉がなくて痩せているだけだが、はこべは骨の造りそのものが細いのだろう。とことん美人な構成をしている。
「いえさすがにそれは帰りますよ」
「違うってば! 早瀬川、ちょっと来て! お願い!」
「何だい」
片手にグラスを持った早瀬川が廊下に顔を出す。
その顔をじっと観察し、それから私の顔を見て、はこべが言った。
「彼女ですか」
「違うわ!」
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