第3話

 久しぶりの全力歌唱は、何一つ楽しくなかった。

 高音が出ていない、というお決まりの指摘に始まり、音程、姿勢、声量に表現力まで、白頭はありとあらゆる角度から私の歌唱力を批判してみせた。


「リズム感地獄ですね」


「お尻を締めてお腹に力入れてください。……うわ、え、道端に腹筋落としたんですか? 拾ってきましょうか?」


「原曲聴いたことあります?」


「リズム感地獄ですね」


「喉の調子悪そう」


 辛辣が過ぎる! 五曲目を歌い終える頃には、心身ともにげっそりしていた。お前も歌え、とマイクを押し付けると、これがそつなく上手い。苛立ちだけが降り積もる。

 やけになって調子外れのタンバリンで煽ったら、道端のゴミを見るような目で見下された。怖い。

 満身創痍になりながら更に三曲を歌い切った私に、白頭は、裁判官のごとく言い放った。


「不合格です」


 いや何にだ。


「なので、ボイトレしましょう」


「えぇー……」


「私は、一果先輩の歌が聞きたいんですよ。声だけ同じでも、これじゃ意味がありません。身バレ炎上したいですか?」


 白頭が、自らのスマートフォンを人差し指でコツコツ叩く。歳上を軽率に脅迫するんじゃない。私は渋々頷いた。

 しかしボイトレとは一体。言い出した白頭も、具体的な案は無いらしい。彼女はたぷたぷとスマートフォンを操作し始めた。


「えっと。この、リップロールってやつを試しますか」


「なんそれ」


「これです」


 こちらに向けられたiPhoneの画面には、「ボイトレの基礎! リップロールの効果とやり方」と表示されていた。うさんくさい、書き手の分からないまとめ記事。


「息を吐いて唇を震わせる練習みたいです。声が出やすくなるので、プロもライブ前にやってるとか」


「えぇぇ、意味あんのそれ……」


「いいからやってください。その声で高音出てないのイヤです気持ち悪いです」


 そう言って、彼女はソファにどかっと座り直した。私はしぶしぶとブラウザをスクロールした。

 リップロール。口を尖らせて勢いよく息を吹き、上下の唇を震わせるトレーニング、だそうだ。小学生男子がクラスメイトを煽るときに活躍しそうな技術だな、と思った。

 やってみると、これが出来ない。ぷふー、と虚しく息が吹き抜けていく。絵面は、間抜けなことこの上ない。


「ふっ」


「あんた今、笑わなかった?」


「笑ってないです。いや、こう……こうですよ」


 白頭も、桜色のグロスが塗られた唇を尖らせた。息を吸う。吹く。

 ぷふー。


「……鳴りませんね」


「あんたも出来ないじゃん」


 それからしばらく二人で「ぷふー」と息を吹いていた。なんだこれ。何の時間だ。

 先にコツを掴んだのは、白頭だった。ぷるるるる。水気の多そうな唇が、ぷるぷると振動する。そのままちょっと音階をつけてみせたりする。


「確かにこう、腹式呼吸でないと上手くできない感じありますね」


「ええぇ、やってると思うけどな」


「ちょっといいですか」


 白頭が、立ち上がってローテーブルを回り込んだ。手が、私の頬を押さえる。バニラの匂いが鼻孔に触れた。

 その甘さに、ほんの少し息が詰まる。


「こうすると、やりやすいそうです。さあどうぞ」


 出来るか。あと顔が近い。いちいち距離感がおかしい。そんなに至近距離で私の間抜けヅラをみたいのか。


「自分でやるから、離してよ……」


 手を振り解いて、自分で頬を押さえた。みぞおちに力を込めて息を吐く。

 ぷふー。ぷふー。ぶるるる。

 出来た。

 コツを掴めばそう難しいことはなかった。ただ、確かに腹に力を込めて息を吐かないと上手く鳴らない。

 無心で唇を震わせていると、デンモクを差し出された。


「すぐに変わるってこともないでしょうが」 


 それはそうだ。まあでも、練習した後は試したくなる。

 タッチパネルを指でなぞって、入れる曲を考えた。カラオケでウケを気にするなら、大原則は『好きな曲より声に合う曲』だ。私の声質に合う曲。そして、白頭はこべが聞きたいと思っている曲。

 思考の隅、記憶の端に、真っ白なセーラー服がちらついた。

 いつかの朝が胸をよぎる。潮風でべたつく髪に苛立ちながら、同じ高さの背を追って歩いた、春の海を思い出す。

 あのとき、一果が口ずさんでいたのは。

 手繰った記憶に従って、予約ボタンを押した。

 スピーカーから、アップテンポなイントロが流れ出す。ディスプレイに、並んで公園を歩く男女と、曲のタイトルが映った。

 あ。白頭が、小さく声を上げた。

 数年前にメジャーデビューした、元地下アイドルのヒットナンバー。実はほんのりオタク気味な、東雲一果の得意曲。

 私は立ち上がり、マイクを構える。イントロが終わった。泥濘を這う日々を嘆くAメロから、淡く光る恋に気づくBメロを経て1サビへ。少女は走りながら叫ぶ。

 片想いだって分かってる。

 好きだなんて言えるかよ!

 リップロールの成果かはわからない。それでも、気持ちよく高音が伸びた感覚があった。間奏を待つ間に、どうだ、という気持ちで背後を振り返った。

 そして私は言葉を失う。


 白頭は、泣いていた。

 ぽろぽろと、透明な水滴が、音もなく頬を伝っていた。


 再びAメロが始まる。私はマイクを置いて、白頭に近づく。でも、声の掛け方がわからない。

 何故なら私は東雲次乃であって、東雲一果ではないからだ。

 かつての彼女の恋人ではないからだ。

 呆然と見つめているうちに、涙は止まった。白頭は指の背に雫を乗せ、ぐずぐずに湿った声で呟いた。


「……ごめ、なさい」


「ああ、いや、うん……」


 化粧、直してきます。ハンドバッグを掴んで、はこべが静かに席を立つ。

 別に、直すほど崩れてなんかいない。そう言おうとして、声が喉につかえた。

 後ろ姿から、微かな嗚咽が聞こえる。頼りない背中が防音扉の向こうに消えた。

 新曲を宣伝する男性ユニットの、出来の悪い漫才みたいな掛け合いが、薄暗い室内に反響する。

 視線を落とす。

 ドリンクメニューの上で、透明な宝石が砕けている。

 

 延長はせずに、カラオケを出た。結局、料金は割り勘にした。

 宵の口を迎えた空は、沈むように深い藍色をしていた。インディゴブルー。空と同じ色の髪を隠した女は、行きとは逆に、私の半歩後ろをついてくる。

 赤信号の手前で、横に並んだ。


「───最後の歌」 


 隣を見る。日傘に隠れて、その表情は伺えない。


「あれは、少しだけ良かったです」


 子供みたく泣いていたくせに、よく言う。


「でも、まだまだですから。音階の取り方も、声の伸びも、一果先輩にはほど遠い」


 改めて思う。こいつの一果への執着は、やっぱり異様だ。

 この美しい少女が、別れた恋人の代替品を求め、その妹の住所を突き止め、脅迫めいたメッセージを送ってきたのだという。 

 はたして一果は、どこまで私のことを伝えたのだろう。大学名は聞いたと言っていた。では住所は? さすがに教えないはずだ。なら、広大なキャンパスから私一人を探し出して、跡をつけたのだろうか。高校の授業だってあるのに?

 夏の放課後、日傘を片手に大学の校門を見張る白頭の姿を想像する。

 かなり狂ってるな、と思った。

 砂漠に落ちた一本の針を探し求めるような、そういう狂気だ。行き過ぎた情熱は、端的に言って気持ちが悪い。

 私は言った。


「あのさ。私にどうして欲しいわけ?」


「もう言ったと思いますけど」


 日傘が傾き、表情が露わになる。涼しげな顔の薄皮一枚下に、計り知れない熱を感じた。迂闊に触れたら、芯まで焼き尽くされてしまいそうな熱量。


「先輩の、代わりになってください。私には、あの人が必要なんです。例え偽物でも」


 生温い夜風が髪を揺らして、鮮烈な青がちらついた。


「代わりになってくれるなら、何だってします。次乃さんが望むなら、努力も奉仕も、何だって捧げます」


 ようやく私は理解する。

 こいつは本気だ。どうしようもないくらい真剣に、私を東雲一果の代替品にしようとしている。

 つまりこれは、白頭はこべなりの降霊術なのだ。

 東雲次乃を媒体に、かつての恋を蘇らせようという狂気。

 どうしようもなく不毛だ。確かに私と一果は同じ遺伝子を持っているけれど、所詮は良く似た別人でしかない。第一、それを一番理解しているのは当の白頭本人だろうに。

 所詮私は、東雲一果の劣化コピーだ。これまでも、これからも。


 でも。

 けれど彼女の願いは、荒れ野のごとく不毛であるからこそ、美しいと思う。

 この執着が、気持ち悪さが、恋でなくてなんだろう。


 白頭から視線を逸らす。

 いつの間にか青色に変わっていた信号機を見つめて、言った。


「嫌だって言っても、脅すつもりでしょ」


「それは、まあ」


 否定しないのかよ。本当に悪魔みたいだ。

 でもまあ、いいか。多分、あの涙を見てしまったときから、私の心は決まっていた。


「いいよ。一果の、元カノの代わりになってあげる」


 色素の薄い目が、丸く見開く。なんだ。こんな脅迫まがいのことまでしておいて、このパターンは想定していなかったのか。


「……いいんですか? 私、結構めんどくさい女ですよ?」


「知ってるよ」


 むしろそれくらいしか知らない。


「でも、今日みたく無理やり襲ってきたら、警察に駆け込むから」


 右手を差し出す。

 ややあってから、握り返された。想像よりもずっと強い、道に迷った子供が、やっと出会えた親にしがみつくみたいな必死さで。

 ところで、と白頭が言った。


「今日みたいに、ってどこまでですか」


「え」


「一果先輩の代わりになってくれるんですよね。どこまでなら許可してくれますか」


「ど、───どこまで?」


 どこまでって何だ。どこがスタートで何がゴールだ。

 咄嗟に、先ほどの光景がフラッシュバックする。肌を触られた感覚が、鮮やかに蘇る。

 私が拒否を示さなかったら、白頭は一体どこまで踏み込むつもりだったのだろう。


「だから、その、そ、そういうことはナシってことだよ!」


「分かりました。でも、これくらいはいいですよね」


 握手をしていた手が、なめらかに組み替えられた。指と指の合間に、他人のそれが侵入する。

 そのまま腕を引かれて、強引に引き寄せられた。足がたたらを踏む。全身が、白い日傘の下に呑み込まれる。食虫植物に囚われた昆虫みたいに。

 視界が肌色で埋まった。よく見れば、それは白頭の顔だった。


 私はキスをされていた。


 唇も、バニラの香りがした。身体は石になったみたく動かないのに、嗅覚だけはその甘さを鮮やかに伝えてくる。

 唇が離れる。その間際に、ぬるりと前歯の上を舐められた。


「ひゃ、」


「へえ」


 同じ傘の下、睫毛の本数さえ数えられそうな距離で、白頭が呟く。


「匂いだけじゃなくて、味も同じなんですね」


「こ、この……!」


 拳を振り上げる。きゃあ、と頭を押さえるフリをして、白頭は横断歩道を駆けていく。点滅を始めていた信号機は、彼女が向こう側へ辿り着いた直後に、赤へと変わった。

 行き場を無くした拳を下ろす。信号待ちしていた自動車が、ゆるゆると動き出した。見られたかもしれない、と思った瞬間、頬が焼けるように熱を帯びた。


「またね、次乃さん!」


 車線の向こうで、日傘を下ろした白頭が大きく手を振る。プリーツスカートの裾が、生温い夏の風に揺れていた。


「私、一果先輩にシたかったこと、出来なかったこと、ぜんぶ次乃さんにするつもりなんで! 覚悟してくださいね!」


 口の脇に片手を立てて、叫ぶ。おそろしく身勝手な宣言だった。でも。


「あと、『はこべ』でいいですよ!」


 今、この一瞬だけを切り取れば、彼女は呆れるくらいに清冽で、健全だった。


 止まっていた車両が全て捌ける。その頃には白頭は───はこべはもう、姿を消していた。

 再び信号が変わるまでの間、私はぼんやりとその場に立ちすくんでいた。

 まだ呼吸が浅くて、胸の上の辺りが苦しい。

 思わず呟いた。


「なんなんだ、あいつ……」  


 変質的で、狂気的で、気持ち悪くて、けれど夏空みたいに澄み切った、涼しげな歳下の高校生。

 きっと彼女は、夏の魔物だ。そう思った。

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