第2話

「次乃さん。今日、何時までですか」


「……四限だから、十六時半終わりだけど」


「そうですか。じゃ、十七時に駅前集合で」


「な、なんでよ」


「あとLINE交換するんで、スマホ出してください」


 聞けよ人の話。

 そう思っても口には出せない。十段重ねで届くピザの幻影が、脳裏にチラつく。ネットに拡散される恐怖は、果てが無いから恐ろしい。


「ほら、早く」


「……わかった」


 どうせ名前も住所も暴かれているのだ。今更連絡先くらい、と思った。

 不承不承、友だち登録をした。白頭の登録名は、平仮名で「はこべ」。アイコンには、米粒みたいな花弁をつけた白い花が写っていた。

 この花が、名前の由来なのだろう。春の七草。嫌味がなくて覚えやすい。名前に至るまで、いちいち隙がなくて腹が立つ。

 さっそくスタンプが飛んできた。猫とも狸ともつかない謎マスコットが、「よろしくー」とハートを飛ばしている。私の知らないキャラだった。こんなやり取りの行間に、相手が二歳年下だということを意識してしまう。

 そんな相手に脅されている、自分のみじめさも。


「よろしくお願いしますね、次乃さん。あっ、」


 目に、悪戯っぽい光が宿る。肘をつき、椅子から身を乗り出した白頭に、斜め下から覗き込まれた。


「もしかして、『せんぱい』って呼んだほうがいいですか?」


 青いリボンが揺れる。白いブラウスの襟に結ばれたそれは、清潔さの象徴そのものに見えた。

 私は手元のスマートフォンを操作して、スタンプを送信した。「その首貰った!」と刀を振り回す戦国武将が、トーク画面に躍り出る。

 スタンプだけでは物足りない。ありったけの拒絶を視線に込めて、睨みつけた。


「じゃあ、次乃さんで」


 白頭は芸術的に微笑んだ。くたばれ。

 

 結局、午後の講義も身が入らなかった。

 隣で講義を受けている胸のでかい黒髪ロング眼鏡が、ため息を繰り返す私を怪訝そうに伺っていた。


「どうした」


「何でもない……」


「そうかい」


 それ以上、彼女は何も尋ねてこなかった。そういうところが、彼女の好ましい特性だ。

 人付き合いは距離感に始まり、距離感に終わる。どこかの女子高生にも、是非この真理を学んで頂きたい。

 

  †


 四限の一般教養を聞き流して、学部棟を出た。

 十六時を過ぎても、黄金色をした太陽は衰えることを知らない。色が落ちてプリン状態になっているボブカットの下で、うなじがじりじりと焼けていく。三二〇円の日焼け止めが、頭皮から滴る汗に耐えてくれることを、ただ祈った。

 じわじわじわ。

 キャンパス内の植樹で、油蝉が求愛していた。聞いているだけで暑苦しい。自分が真っ直ぐ歩けているかどうかさえ、自信がなかった。道端に停められた自転車が揺らいでいる。けれど、それが陽炎なのか眩暈なのかも判然としない。

 いずれにせよ、うだるように暑い午後だった。

 この暑い中、何をしているんだろうなあ、と思う。

 Tシャツが背中にべっとり貼り付き、不快感を煽る。行く先に待つのが脅迫者で、姉の元恋人で、インディゴブルーの髪をした高校生だと思うと、一層足が重くなった。

 じわじわじわ。蝉の鳴き声が、夏を強調する。

 帰りたいな、と思った。思っただけだった。


 帰って冷蔵庫の酎ハイを飲みたいなあ、と思ううちに、駅へ着いてしまった。

 構内に続く入り口を遠目に伺う。海浜大と美浜大、二つの大学キャンパスの最寄駅ともあって往来は絶えることがない。高架線のホームへ続くエスカレーターが、ひっきりなしに学生らを飲み込んでは吐き出している。

 それでも。

 それでも、文庫本を片手に立つ白頭の姿は、浮かび上がるように鮮やかだった。

 立っているだけで絵になるのが美人だ。ホームから降りてきたマッシュヘアの海浜生(あるいは美浜生)が、誘蛾灯に引かれる羽虫のように彼女へ近づき、ちらりと覗いたインナーカラーにぎょっとした。罠に気づいた子犬のようだった。

 そそくさとキャンパス方面へ逃げ出すマッシュヘアを見て、私は少しだけウケた。あの髪には、威嚇の機能もあるらしい。

 そんなふうに観察していたら、スマートフォンが振動した。


『見てないで早く来てください』


 ため息が溢れる。近づいて、よろりと正面に立つ。白頭は、不服そうに音を立てて本を閉じた。私でも知っている大文学者の筆名が、今風の表紙に印刷されていた。


「次乃さん。五分前行動って知ってます?」


「知ってたよ。高校生のときまではね」


 視線に軽蔑の色が混ざった。かすかに気温が下がった気がする。エコロジー万歳。くたばれ。


「じゃ、行きますよ」


「……どこに?」


「着いて来れば分かります」


 そう言って、白頭はハンドバッグから折りたたみの日傘を取り出した。青みがかった黒い生地にレースをあしらった、フェミニンなやつだ。生意気なことに小道具まで洒落ている。

 導かれるまま、再び日なたへ踏み出す。

 空を見た。

 まだ落ちない太陽が、目を灼いた。


  †


 海浜美浜駅は、東京湾の潮風が香る学生のための駅だ。東西を二つのキャンパスに挟まれているのだから、まあそれはそうなる。国立の美浜大と私立の海浜大。髪を派手な色に染めているのは大体海浜生だ。何事にも例外はあるけれど。今、目の前を歩いている女子高生とか。

 美浜生と海浜生の素行の差を表すかのように、駅前の風景は東西で姿を変える。美浜大がある東側には、中規模ショッピングモール、ポエムが似合う高層マンション、プール付のスポーツジム、小洒落た地中海風レストラン等が鎮座し、海浜大がある西側には中規模カラオケショップ、お風呂付のマッサージ店、異国風創作料理居酒屋、小洒落た地中海風ラブホテル等が立ち並ぶ。

 白頭は、雑然とした西側の街をさくさくと進んでいった。私はゾンビみたいにその後を着いていく。

 横断歩道に赤信号が灯って、白頭が立ち止まった。追い付いた私も、白線の前で足を止める。

 動いていないと、かえって日差しの強さを意識してしまう。

 隣を覗くと、整った横顔が日傘の影で涼しげだった。

 日傘か。

 涼しそうではある。


「次乃さんも、入りますか」


 心を読まれたとしか思えないタイミングだった。

 呆けている私に向けて、白頭が涼やかな顔で傘を傾けた。


「どうぞ」


 どうぞ、って。

 思わず、日傘の直径を目で確かめた。明らかに、ビニル製の雨傘よりも狭い。では、東雲次乃と白頭はこべの適切な距離感は? この直径よりも狭いのか?

 そんな訳がない。こいつの間合いの詰め方がバグっているだけだ。

 でも日陰は涼しいだろう。


「あ、その、」


 戸惑う間に、歩道の信号が青へ変わった。たった今の提案が無かったかのように、白頭は歩き出した。

 そして歩道の半ばで振り返り、舌でも出しそうな調子で、平然と言った。


「冗談ですよ。決まってるじゃないですか」


「な」


 なんなんだこいつ!  

 混乱しているうちに、チェーンのカラオケ店に連れ込まれた。パールブルーの財布から真新しい会員証が出てきて、その女子高生らしさが少しだけ面白い。

 ピンマイクに話しかける受付店員を横目に、肘で肘を小突いた。


「あんた、カラオケ好きなの?」


「いえ特に。人前で歌うのはあまり」


 じゃあ何で来たんだ。

 ただ、警戒していたほど奇抜な行き先ではなかった。偶には悪くない。私はストレスを大声で発散できるタイプだ。現在進行形でストレスを溜め込んでいる今、ちょうどいいのかもしれない。もっとも、同伴者がその原因なわけだが。


「ワンドリンクの飲み物はいかがなさいますかー?」


 店員の言葉を受けて、ちらとメニューを覗く。正直アルコールには惹かれたけれど、ぐっと堪えた。万が一にも隙を見せたくはない。オレンジジュース、と答えて引き下がる。

 白頭は、青く着色された炭酸水にパイナップルが刺さったソフトドリンクを頼んでいた。もちろん彼女にアルコールの選択肢は無い。

 私は今年の春で二十歳になった。姉の後輩だったという白頭は、十七歳か十八歳だろう。

 そういうことを考えて、こいつ歳下か、と改めて思う。

 狭いエレベータの中で、横顔を観察した。よく見れば、頬の輪郭はまだあどけない。もっとも私だって、本物の大人が見れば大差ないのだろうけど。

 数年前まで、一歳の差は明確な壁だった。大学生になって、その壁は急激に薄くなった。本当は、最初から壁なんてないのかもしれない。

 それでも、年下は年下なわけで。


「……料金、払うからね」


 そう言うと、白頭は目を丸くした。

 彼女は顎に手を当てた後、アルバイトの面接官みたいな目つきで私を見上げた。

 視線に耐えかねて腕を組む。上半身を守るレモンイエローのダボいTシャツは、誰もが知っているアパレルブランドの逸品だ。お値段なんと七九〇円。

 こちらの懐事情を見透かしたように、白頭の唇が緩む。


「へー。奢ってくれるんですか?」


「いや割り勘。そっちが勝手に連れてきたんでしょ」


「冗談です。私、出しますよ」


「いい。一応先輩だし」


「学校違うじゃないですか」


 やり合っているうちに、部屋に着いた。重たい防音扉を開くと、ドバッとクーラーの冷気が吹き出してくる。六畳くらいだろうか。汗に濡れた布地が一気に冷えて、二の腕に鳥肌が立った。ついでに頭も冷えた。

 本当に何してるんだ、私は。

 ショルダーバッグをテーブルへ投げる。

 ソファに腰掛け、ディスプレイの下に備え付けられたタブレットを掴んで、白頭に差し出した。


「……なんか歌う?」


「それは後でいいです」


 完全に不意打ちだった。

 差し出した手首を掴まれ、そのままのしかかられた。タブレットが鈍い音を立てて床に転がる。全身が固いソファに押しつけられていて、もがいても抜け出せない。

 気がつけば、柔らかなものが下腹部に乗っていた。スカートに隠れて見えないが、それはおそらく太腿であり、お尻だった。

 視線を上げる。白頭が、私の腰をまたいで座り込んでいた。


「え、なに⁉︎ 何⁉︎」


「面倒なんで、あんまり暴れないでください」


「ちょ、ちょっと……放せ、馬鹿!」


「嫌です」


 涼しげな顔が近づく。熱を帯びた軟体生物が、ねろねろと首筋を這いずった。ちゅぷ。水っぽい音に、ぞわりと背筋が震える。

 おそるおそる見下ろすと、赤い舌が薄い皮膚を舐めていた。リップ音を立てて、唇が離れる。初めて味わう種類の刺激に、声が出そうになる。

 白頭の鼻が、ボブカットをかき分けて、耳の裏へと侵入した。すんすん、と空気の擦れる音。


「ああ、やっぱり先輩と同じ匂いですね。さすが双子です」


「どこ嗅いで、いや何言ってんの⁉︎」


「感想ですけど」


 当たり前のような顔で言う。


「恋人になってくださいって、私言いませんでしたっけ」


「オーケーしてないし、そもそも性急過ぎるだろ! 男子中学生か!」


「そうですか。知りませんけど」


「あんた頭おかしいんじゃないの⁉︎」


 白頭の手が、するりとTシャツの下へ滑り込んだ。手のひらが脇腹をなぞる。炎天下の今日、上半身に着ているのはシャツと下着だけだ。指先の低い体温が、ひどく生々しい。

 その手がみるみる上ってきて、ブラ越しに私の乳房を掴んだ。親指が脂肪に食い込む。二度、三度と指が動く。思わず、鼻にかかった声が出た。カッと頬が熱を帯びる。へえ、という感嘆が、淡い色の唇から漏れ聞こえた気がした。

 その辺りで、ぷつんと何かが切れた。


「いい加減に……!」


 脇腹に膝を捻り込んで、強引に身体を引き剥す。テーブルに敷かれたドリンクメニューの上に、華奢な身体が転がった。

 ぐえ、と苦しげにうめく声が聞こえて、正直いい気味だと思った。


「いたた……」


 ゆっくりと身を起こした彼女は、テーブルを降りて、悪びれもせず向かいのソファに腰掛けた。何事も無かったみたいに、涼しい顔をしている。

 私は上着の裾の乱れを直して、思い切り睨みつけた。


「死ね!」


「罵倒のセンスが小学生すぎません?」


「うるさい死ね。あのね、こういう鍵の付いてない場所でそういうことしたら、公然猥褻罪になるからね。店にも迷惑だし、何より私に露出願望はない」


 あと死ね。

 私の罵倒に、白頭は目を丸くした。なんだそのしれっとした反応は。何か変なことを言っただろうか。


「へえ」


 形の良い唇が、愉快そうに歪む。


「襲われたのに、そんなこと気にしてたんですね」


「……それは。いや、まあ、」


 言われて初めて、自分が置かれた立場を自覚する。

 異性だろうと同性だろうと、同意なく身体に触れられたのだ。脅されていようがなんだろうが、悲鳴の一つも上げて、とっととこの場を逃げ出すべきだった。普段の私なら、そうしたはずだ。悠長に犯人へ説教なんかするはずがない。

 なのに私は、ここを立ち去る気にならなかった。

 何故かと言われたら、それは。

 それはおそらく、この白頭という少女が美しいからだ。

 美しさには暴力性がある。力づくで伸し掛かられたのに、真っ先に嫌悪や不快ではなく理性と善悪が頭をよぎったのは、彼女の容姿が理由としか思えなかった。


「と、とにかく、さっきみたいのはナシ! どこに何を晒されても、それだけは許さないからね!」


「そうですか」


 さしてこだわる様子もなく白頭は言った。指先で、自らの髪の毛をいじる。毒々しい青と清楚な黒が入り混じる。

 ややあって、唐突に彼女は言った。


「じゃあ、歌ってください。カラオケですし」


「え、なに急に。歌?」


「はい。一果先輩の歌、好きだったので」


「歌、ね……」


 白頭が、過去を愛おしむように目をすがめた。


「先輩は、歌、すごく上手かったですから」


「……あいつは、何でも上手いよ」


 舌先に、覚えのある苦味が広がった。子供のころから幾度も味わって、すっかり馴染んでしまった苦味だ。

 あくまで主観だけれど、私は別に音痴じゃない。ただ、それは、平均点を取れるというだけの話でしかなかった。

 一卵性双生児はあらゆる面で比較される。身長、体重、髪の長さ、足の速さ、通信簿の評価、カラオケの点数。

 何もかもが遺伝子どおり、同じ高さであればいいけれど、私たちはそうではなかった。唾を呑み、生傷に蓋をして、私は言った。


「音痴ではないと思う。けど音域狭いし、一果みたくは歌えないよ」


「配信で歌ったりしないんですか?」


「……一回だけ歌った。アーカイブ残してないけど」


 わざわざ卓上コンデンサマイクを通販で取り寄せ、「まあいけるだろ」と配信開始ボタンを押した日の黒歴史が蘇る。

 一曲目のボカロ曲は悪くなかった。ボロが出たのは二曲目からだ。密かに自信があった、最近推している男性ロックバンドの曲。そのサビあたりで、『喉の調子悪そう』『これはぶっちゃけ選曲ミスw』『体調大丈夫?』等のコメントが流れたことを今も覚えている。動揺のあまり、間奏中によく分からない言い訳を垂れ流したことも。


「とにかく歌ってください。似てないとこは言います」


 言わなくて良い。そう思ったけれど、口には出さなかった。

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