15 風にも負けず
この手記も残り少ない。最後に四周目の、つまり今お前が生きているこの世界での俺の人生を振り返っておこう。
たぶん中三の秋、三人で映画を見た帰りの出来事は、相当お前の印象に残ったと思う。あれは正にバタフライエフェクトの恐ろしさを思い知らされる出来事だった。
実は一周目から三周目ではあの劇場にもっと長い時間留まって、映画の感想を語り合っていた。だが四周目にしてさすがにそれに飽きてしまった。それに知ってのとおり俺たちは三人ともシリーズ三作目のあの作品に色々と不満が多く、ネガティヴな感想の方が多く飛び出すことになっていた。そのことにうんざりしていた面もある。完結編の四作目を見た後なら――いや、やめておこう。お前は近いうち自分の目であの結末を確かめることになるから、余計な先入観は持つべきじゃない――とにかく俺は劇場をさっさと出るようにさりげなく促したわけだが、そこで更なる運命の分岐が訪れた。
美香が劇場を出てから右の方向に歩き出したのだ。一周目から三周目ではアーケード街を向かって左側に歩き出したのに。特に目的はなく気紛れだったのだろうが、劇場に留まる時間の違いがきっかけになった可能性は大いにある。
ターンレフトがターンライトに。それだけの違いが厄介なトラブルを呼び込んだ。
穏便に済ませるのが一番。基本的には揉め事に対してそのスタンスで生きてきた。バタフライエフェクトを警戒していたからだ。人から余計な恨みを買うとどういう影響があるかわからない(アメリカではもはや美香や孝太郎の人生に影響を与えないから好きに暴れさせてもらったが)。
だから絡んできたクソガキ二人にも頭を下げて謝罪した。ところが美香の奴が……まああれも友達を悪く言われて許せないあいつの人柄だからな……。
とはいえ俺が黙って耐えていれば、おそらく大きな揉め事にはならず、適当なところで解放されたと思う。奴らはそこまでたちの悪い不良には見えなかった。無抵抗の俺たちを殴りつけたり、まして美香を無理やり連れて行こうとしたりといった蛮行に及んだとは思えない。だが奴が気安く美香の肩に手を触れようとしたのが我慢ならなかった俺は、咄嗟にその手を掴んでしまった。
暴力沙汰になるのは気配でわかった。
振りかぶってきた最初の拳をバックステップでかわした。そこから相手がムキになって二発目のパンチを出すまでの二、三秒、俺はたぶんお前が想像もしていないくらい思考をフル回転させていた。
まず断っておきたいのは、実はあの状況で、俺に余裕なんてものは一切なかったということだ。
四周目が始まって最初にしたことは、中学三年生時の自分の身体能力を改めて確認することだった。
結果は想像以上だった。想像以上にひどすぎた。
とにかく全ての動作が遅く、か弱い。身体の使い方をわかっていても、突きも蹴りも悲しくなるほど威力がないのが型稽古でも明らかだった。
それから再びトレーニングを始めたとはいえ、秋の時点での腕力は平均以下だった。
二発、三発と相手が振り回すパンチをサイドステップでよけながら、俺は努めてポーカーフェイスを貫いていた。怯んだ様子を見せればより勢いよく攻めてくるかもしれない。組み付かれたら腕力のない今の俺は簡単に路上に転がされてしまう。強引に突進してきたところにカウンターを決めるのも、こののろまな身体じゃ失敗しかねない。
足の位置取りに失敗して、次のパンチがタイミング的にかわせないのがわかった。慌てて上体を沈めてよける。ボクシングのダッキングの下手くそな物真似。パンチが髪の毛を掠めた。これ以上は避け続けられない。
相手が回し蹴りとも言えないようなへっぴり腰のキックを放ってくれたのは僥倖だった。これなら簡単に捌ける。だが右手首の骨を相手の脛に当ててしまい傷めた。なんて打たれ弱い肉体だ! 三周目の人生の高校時代に叩き込まれた教訓――この棒切れのような身体が素手で殴られることにどれだけ耐性がないか――を忘れてしまっていた。もしガード越しでも相手の強振をもらってしまったら。細く筋肉のついていない腕は骨を軋ませ、体重が軽く足腰も弱いせいで簡単に体勢が崩れる。少年時代の肉体に戻ってしまった弊害は、攻撃以上に防御に顕著だった。
こうなったら弱い攻撃でも反撃するしかないか――
そのときあいつが動いた。俺が蹴りを捌いたことで半ば後ろを向く格好になってしまった相手の、その金的を美香が蹴り上げた。
全力で足を振り上げた感じではなかった。良識の範囲で加減したらしい。しかしあの状況で不良の股ぐらを蹴れる女が世の中にどれほどいる? その場の他の全員と同じく俺も唖然としたよ。
もう一人の奴が思わず美香に手を上げようとした瞬間、飛び込んで逆突きをカウンター気味に決められたのは運がよかった。間に合わなかったら美香が、いや美香を庇おうとしたお前が殴られるところだった。
戦意喪失するほどの威力が出たとは思えないが、とにかく相手が怯んだ隙に逃げ出すことにした。念のため奴らに聞こえるように偽名を叫んだ後、お前と美香の手を引いて全力で走った。
美香の急所攻撃がなかったら――もしあの場面でもう一人が加勢してきて一瞬でも一対二の状況になっていたら、俺は成す術なくやられていただろう。
俺が渡米後に学んでいた空手には、試合では使えない護身用の危険な技もあった。手段を選ばなければ二人相手でも切り抜けることはできたかもしれない。だがあそこでそんな技を使っていたら警察沙汰は免れなかった。そこまで大事になるとバタフライエフェクトの効果も計り知れない。ちょうどフィリピンで見かけた巨大なアゲハ蝶が羽ばたくようなものだ。
いつの間にか足の速い美香が俺を追い抜いて、俺を引っ張って逃げる形になっていた。傷めた右手をしっかり握られる痛みと共に俺は痛感していた。これだけの月日を生きても、まだ俺は美香に守られてしまうのか。
俺の手を引いて走る美香の背中が、あまりに眩しかった。
もしかしたらこいつは、蝶の羽ばたきが起こした竜巻の中を、逆らって駆けていけるくらい強い女だったのかもしれない。
それでも爽也さんと出会うまでは、俺があいつを守っていくんだって――たとえ錯覚だとしても――思い続けるくらい、許されたっていいだろう?
遅く、軽い打撃しか使えない身体。しかしそんな条件だからこそ、自分の技の真価が問われる。そもそも武道とは、本来そうした不利を覆すために存在する。得物持ちと素手。大男と小男。男と女。大人と子供。後者が前者に対抗するための技術こそ武の神髄だ。
結局のところ俺の修練が足りなかったということだ。三周目の大学卒業後の日々は空手教室のインストラクター時代以外は剣道に打ち込んでいたのだが、またいずれ空手の練習を再開させようと思った。
だが高校では剣道一筋でいかなければいけない。
入学するまでは剣道の道具を揃える口実がないから、単純な筋力トレーニングを続けていた。剣道部に入部してからも、最初は周囲に初心者に見せかける必要もあったので、実戦的な練習はできなかった。
それでも三周目に学んだ技術と、トレーニングや食事で効率よく己の身体を鍛える方法を知っていることは有利に働いた。空手で培った勝負勘というものもある。高校から大学にかけて、俺は順調に実力をつけていった。
美香を諦めた今、もう俺には文武両道の賢く強い人間を目指す理由はない。それでも本気で剣道をやり続けた理由はたった一つだ。
お前にはもうわかっているかもしれないな。
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