14 お前がいてくれたから

 人生を繰り返す度に、喪失も繰り返し味わうことになる。俺は遅まきながらそれを悟った。だが後悔はない。美香の親友として、彼女の信頼に恥じない行動を取れたからだ。

 敬意に誠意で応えることは、愛し合うことと同じように価値あることなのだ。

 ある者はこんな生き方は呪縛に他ならないと考えるだろう。信頼という言葉にがんじがらめに縛られて、自分のために生きる自由を失ってしまったと。或いは空回りしている愛の哀れな虜囚だと笑う者もいるかもしれない。幼馴染への盲目的な愛に囚われて、幸せになる機会を手放してしまった愚か者だと。だがお前は、お前だけはこんな俺を笑わないはずだ。

 お前には感謝してもしきれない。俺が彼女を裏切らずにいられたのは、お前の存在があればこそだったから。

 お互い口に出したことはなかったが、きっとわかっていると思う。いつの頃からか――中学生になる前くらいからか――、男子たちが美香を見る目が露骨に変化していった。向けられる感情が友情や尊敬から劣情に変わり、多くの生徒が――中には教師もいたか――美香の関心を買おうと媚びへつらうか、間違った強さをアピールしようとして変に悪ぶって見せたりした。彼女が内心うんざりしているのを見て取った俺は、俺たちは、せめて自分たちだけは性別も思春期も関係なく今までどおり対等な友達でい続けようと決めた。わざわざ宣言しなくても伝わっていたさ。お前の優しさも、俺の意地も、せめて自分の中では誇っていいはずだ。

 もしお前がいなかったら、俺は彼女に対して真に誠実でいられただろうか。タイムリープを利用して、彼女の愛を手に入れるために卑劣な方法を使うこともいとわなかったかもしれない。彼女の本当の幸せが何かなど考えもせず、己の願望を満たすためだけにこのリプレイを生きたかもしれない。

 俺がそうせずにいられたのは、彼女への愛を、友情を貫こうとしているのが自分ひとりではないと知っていたからだ。でなければ俺は折れてしまったかもしれない。同じ立場の孝太郎に対しても恥じないようにという思いがあったからこそ、過ちを犯さずにいられたんだ。


 俺はそれまでの人生を後悔しないようになった。自堕落に生きてきた日々があったからこそ、一日を大事に使って充実した時間を過ごすことの大切さがわかったし、自分を磨くことで得られる自信は決して消えることのない財産になった。二周目、三周目の人生は決して失うばかりの人生じゃなかった。現に一周目の結婚式のときも式場にいたはずの麻里子さんが、三周目の俺にだけ好意を持ってくれた。それは本当に光栄なことだ。

 確かに運命を受け入れたことで諦めざるをえなかったものはあまりにも大きい。しかしたとえどれだけ強く誰かを愛しても、人生はそれが全てではない。命がけの恋が終わってしまっても、人生は続いていく。

 大学を卒業した俺は、感傷旅行に出るかのように日本を離れ、アメリカで仕事を転々とした。悲しい話ばかりするのもどうかと思うから、この頃のエピソードを一つ紹介しよう。

 渡米して二年目にロサンゼルスに流れ着いた俺は、空手教室のインストラクターのアルバイトを始めた。そこでアマンダという三つ年上の生徒と親しくなった。

 彼女が空手を始めたきっかけは、元夫によるDVだった。個人的には筋力の弱い女性が空手をかじった程度で護身の役に立つとは思っていないが、武道を習うことによって他者からの威嚇や暴力に萎縮してしまうのをある程度抑えることは可能だと思っている。

 実際彼女は勇敢な姿を見せた。俺は日本の文化に強く興味を持つ彼女に誘われて何度か一緒にバーに飲みに行っていたのだが、その日は偶然招かれざる客がやって来た。離婚した今も彼女に付きまとっている元夫とその仲間二人だ。絡んできた三人に対するアマンダの振る舞いは毅然としたものだった。その姿は俺に、よく知っている女を思い出させた。

 それだけでも、身を呈して守るには十分すぎる理由だった。

 とはいえ争いを避けることもできたはずだ。だが正直俺の心にはずっと一つの渇望がくすぶっていた。即ち、「ただ暴れたい」という欲求だ。

 この数奇な運命を受け入れたとは言っても、自分が置かれた状況の不条理と、繰り返し失うことで一層強く心に刻まれることになった喪失感に、時には声が枯れるまで叫び続けたいような夜もあった。なぜ俺がこんな目に遭わなければいけないのか、一体あと何度退屈な中学・高校生活を繰り返すという責苦を味わわされるのか。もっとこれに相応しい人間が大勢いるはずだ。一片の同情の余地のないような連続快楽殺人犯や、百万単位で犠牲者を生んだアジアや中南米の独裁者。奴らには死と同時に死刑執行前夜や革命前夜へ送り返され、何百何千回と殺され続けるというループが似合いだし、或いは真に世界をよりよく変えたいと願う者にループという奇跡が訪れれば、彼/彼女にはそれを実現するためのこの上なく強い力が与えられることになる。だが現実は、終身刑に値するような罪は一つも犯したことはなくこれからも犯す予定はない男の下に、世界を変革するどころか幼馴染に愛の告白さえできない男の下に、この奇跡はやって来た。その理不尽に対するやり場のない怒りは、健康的に空手の稽古に打ち込むだけで全て発散できるものではなかった。

 DV野郎を含めた三人はいかにも弱者を威嚇していそうな強面では決してなかったが、俺の見た目が強そうに見えないものだからか(アメリカでは当時の俺くらいの体格はマッチョのカテゴリには含まれない)、完全に舐め切った態度で凄んできた。その上でアマンダを庇って前に出た俺を数にものを言わせて一方的に叩きのめそうとしてきたわけだから、こっちも容赦しなかった。

 DV野郎が振り下ろした拳を払い落とすと、全力で中段の逆突き、順突きと二発叩き込み、身体を折ったところに膝を顔面に突き刺して沈めた。泡を食ってビール瓶を振り上げた仲間の懐に飛び込み間合いを潰すと、足払いをかけて腹を踏みつけた。

 そのとき三人目が怒号を上げて、腕を突き出した。その手に握られていたのは、シルバーの光沢を放つ拳銃だった。よもや日本で暮らしていたときは、こんなものが自分に向けられるようなことが起こるとは考えられなかった。しかし銃大国アメリカに来た以上、こういう事態あってもおかしくはない。

 一、二秒は頭の中が真っ白になって立ちすくんでしまったが、すぐに冷静になった。こいつは撃てやしない。問答無用で射殺する気なら既に撃っている。至近距離だから動かない的なら外さないだろうが、逆に考えればこっちも一瞬で距離を詰めることができる。反射的に引き金を引かれる前に、腕を掴んで銃口を逸らすことは可能だ。

 仮に撃たれたとして、急所に弾が当たったって俺が本当の意味で死ぬかどうかなんてわかりゃしない。血だまりの中で倒れても、気付けば中学生に戻っているかもしれないのだから。そう考えると、恐怖で身体を強張らせることなくスムーズに動けた。手首を掴んで銃口を逸らし、顔面に拳をぶち込む。銃を手放してからも数発殴り、すぐに銃を拾うと、戦意を喪失するまで殴り続ける。立ち上がった他の仲間に追撃するのも忘れない。

 そうして鍛えた身体と技と、死への恐怖が薄い特殊な精神状態が生み出す思い切りのよさで三人を無事撃破した俺は――警察での事情聴取やらの諸々を終えたその足で――アマンダの自宅に上がり込み、そこで一夜を明かした。

 主観時間で四十年以上生きてきて初めて性的な接触を持った相手が外国人だというのは自分でも意外だった。だが俺がやがて帰国することを承知している彼女との関係は、罪悪感に悩まされることなく楽しめる恋愛――或いはそれに似たもの――で、また一つ人生の新しい楽しみを知った気分だった。

 とはいえ今だけの割り切った関係を気取っていても、初めての交際相手と言えるアマンダに情が移ってしまって、ついつい帰国の予定を先延ばしにしてしまうなんてこともあったんだが……まあ家族同然のお前にこれ以上俺の気恥ずかしいロマンスの話はもういいだろう。何はともあれ大失恋の後でも、やることはやって楽しく生きていったってことを知ってほしかったんだよ。


 さて、帰国した俺は考えなきゃいけなかった。三周目の終わりをどう迎えるか。まず思いついたのは、発作が起きるはずの時間が来る前に睡眠薬を大量に服用して、眠っている間に全てが終わるようにするという計画だ。或いは麻薬や何かで恐怖と苦痛を紛らわすという手も考えた。

 あの尋常じゃない頭の痛みを思い出せば、何の対策もせずにただ意識が途切れるまで耐える気はしなかった。しかし結局俺は薬に頼ることはやめておいた。意識が正常じゃない状態であの発作が起きたときに、もしかするとタイムリープできない可能性があるのではないかと危惧したからだ。前回、酒に酔って寝ている状態でその時を迎え、発作の激痛に叩き起こされるという経験をしていたにもかかわらず、睡眠薬を過剰摂取した自分が二度と目を覚まさず、リプレイすることもなく、眠ったまま真の死を迎えるという不吉な想像をどうしても笑い飛ばすことができなかった。

 意外に思うかもしれないが、こんな状況に置かれても俺には死を願う気持ちはまるでなかった。来たる四周目を、強がりでもやけくそでもなく純粋に楽しみにしていたからだ。

 アメリカでの暮らしで実感した。世界は広く、まだまだ行くべき所や見るべきものがいくらでもある。

 だからやがて訪れるはずの苦痛を思い出して憂鬱な気持ちになることはあっても、一日の大半は穏やかな気持ちで、最後の日々を過ごすことができた。

 そしてその日が来た。発作に襲われたときも、この苦痛は長くは続かないと自分に言い聞かせれば、それほど絶望的な気分にならずに済んだ。また視界が赤・緑・青に塗り潰され、そこで三周目は幕を下ろした。

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