11 ハッピーエンドのためにできること

 自分が死んだ後の世界をどう考えるか? グリムウッドの『リプレイ』においては、主人公は初めのうち、ループする前の世界――例えば三周目の人生を生きているときの、一周目と二周目の世界――は消滅してしまったと考える(だから三周目に突入してすぐ、二周目の世界で生まれた愛娘が世界のどこからも永遠に失われたのだと思い悲嘆に暮れることになる)。だが中盤には考えが変わっていて、一周目の世界も二周目の世界も、自分が死んだ後にも変わらず時間は流れ続けていて、枝分かれした平行世界として存在し続けていると信じるようになる。

 俺もこちらの説に賛成だ。精神が時を遡ると同時に、俺の記憶以外の全存在が水泡に帰すのではなく、この俺の意識が上書きされる別の俺が生きる別の宇宙が存在していると考える方が納得できた。

 だから美香の願いを聞いた俺は、彼女と生きる未来を能天気に夢想することなどできなくなった。本当はもっと早くそのことに思い至るべきだったのに。

 俺が発作に襲われて時を遡った後、美香は俺のいない世界で生きていく。

 もし俺がウェディングドレスを着た美香の隣に立てたとしても、数年経たずに美香は若くして未亡人だ。

 彼女ならきっと悲しみからも立ち直って強く生きてくれるだろう。だがいずれ彼女を深く傷つけるとわかっていて一緒になろうとするのは、傷つけようとするのと同じことではないか。

 それでも俺の利己的な部分は無理やり自分を納得させようと叫び声を上げる。この先何度も何度も繰り返されることになるかもしれない人生。せめて一度くらいは美香と一緒になろうとしても許されるのでは?

「ねえ、何か大事な話があったんじゃない?」

 軽口の後で黙り込んでしまった俺に、彼女が真剣な顔で訊いた。

「え?」

「二人で会うのなんて、すごい久しぶりじゃない? 孝太郎がいたらまずい話でもあるのかなって」

 少し慌てたように彼女が目を逸らす。急にある考えが頭に浮かんだ。彼女は俺の気持ちに気づいているのではないか。そして俺の口からそれを聞きたがっているのでは。

 もしかしたら、ガリ勉だった二周目の俺や、自慢できるものなど何も持っていなかった一周目の俺に対してさえ、本当の気持ちを告白してくることを待っていたのでは。俺のことを異性としては見ていないにしても、何も隠し事のない親友同士としてはっきりさせておきたかったのではないか。

 或いはもっと別の感情からではないと本当に言い切れるだろうか? ……あれは気のせいだったろうか。いつもと違って俺の目を真っ直ぐ見ようとしない彼女が、僅かに頬を染めたように見えたのは。洒落た喫茶店の照明のせいでそんなふうに見えただけか。

「……そういえば、まだ言ってなかったことがあったよ」

「うん」

「卒業したら、アメリカに行こうと思って」

「え?」

「仕事も探して、しばらくは帰らないで向こうで暮らすつもりで」

「なんで?」

 美香は理解できないというように眉をひそめている。

「せっかく英語勉強したからさ。若いうちに海外を放浪して色々見ておくのもいいかなって。アメリカの後は東南アジアの方へ行くことも考えてる」

「ちょっと安易じゃない? 日本にいたって見聞を広めることはできるでしょ」

「かもしれないけど、今は特にやりたい仕事もないしな。それに新卒のときに内定もらわなくたって、何年か海外で過ごしてから戻ってきた後にでも就職先の一つや二つ簡単に見つけてやるさ」

「それ、就活で苦労してる学生に聞かれたら殺されるよ」

「俺に言わせりゃ、内定が取れない程度のことを気に病むような心の弱さが、就職活動を失敗させるんだよ。図太くなりゃいいんだ。別に内定取れなくたって死にゃあしねえって」

「人それぞれ事情があるでしょ。なんとしても収入の安定した就職先を見つけなきゃいけない理由がある人だっているし。勇助の考えは乱暴すぎるよ」

 案の定美香は怒り始めた。

「まあとにかく卒業したら日本を出るよ。退屈したくないからな」

「子供みたいなこと言って……どうして突然冒険したくなったわけ? 服装さえ冒険できない男が」

「服のことはもういいだろ。……昔、まるで冒険のない人生を送ってたからだよ」

「空手始めたのだって勇助からしたら十分冒険でしょ? 安い自分探しの旅なら、学生のうちにやっちゃえばいいじゃない。長い間海外に住まなくたって、十分冒険になるよ」

「いや、そんなんじゃ足りない。行ってみたい所がいっぱいあるし、それにただ冒険したいだけじゃないんだ」

 一連の浅はかな発言はすっかり美香を呆れさせたことだろう。もう十分だ。

「自分がやるべきことが見つかるような気がするんだよ」

「それは日本では見つからないわけ?」

「この国でサラリーマンになったって、大抵は仕事の奪い合いをするだけになるような気がするんだよな。自分がやらなくても誰かが代わりにやる仕事を、生活のためだけにやる。で、辞めたら代わりが雇われる。椅子取りゲームに参加してるだけなような」

「だったら誰も代わりができないような仕事をやれるようにがんばればいいじゃない」

「生憎そこまでの熱意はない」

 特に避けられない死が近くで待ち受けていることを知っているから尚更。

「じゃあ海外で何をするっての?」

「貧しい国とか、戦災復興が必要な国とか、そういう所に行けば、人手が必要なことはいくらでもあるんじゃないか? で、そこで何かできることが見つかれば、それは少なくとも俺がやめても誰かがすぐ代わりをやってくれるような仕事じゃあないはずだ。つまり、自分にしかできないことだ」

「人助けをしに行きたいってこと?」

「それもあるってこと。単に旅したいってのも本当」

「何それ? 冒険家になりたいのか正義の味方になりたいのかはっきりしてよ」

「人生は長いからな。どっちにだってなれるさ」

 美香はこれ見よがしに長い溜息をついた。

「止めても無駄みたいだね。もうアメリカでもアフリカでもどこにでも行っちゃえば! あたしにも孝太郎にも会えなくて寂しくなって、ホームシックで泣いてればいいよ。それで結局すぐに帰ってくればいいんだ」

 辛辣な言葉だが、口調は冗談めいていた。呆れはしたものの、それほど怒ってはいないといった感じだ。このくらいがちょうどいいかもしれない。

「それで終わり? 大事な話っていうのは」

 そう、ここで終わりにしなければならない。

「ああ、具体的なことが決まったらまた連絡するよ」

 美香は黙って窓の外を見た。やがてぽつりと呟いた言葉に、俺は耳を疑った。

「……てっきり、一緒にアメリカに行かないかって言われるかと思ったよ」

「まさか、言うわけないだろ」

 ただの幼馴染に、という言葉を飲み込んだ。美香の台詞が俺をどれだけ動揺させたか、お前には想像に難くないだろう。今まで彼女の口から、俺たちの幼馴染という関係を少しでも揺さぶるような言葉が漏れたことは一度としてなかったのに。

「うん、そりゃそうだよね」

 どぎまぎする俺をよそに、彼女の表情に笑顔が戻った。その笑みが少し寂しそうに見えたのは、きっと気のせいだ。彼女の呟いた言葉にも深い意味なんてない。そう思うしかない。「もし一緒に来ないかって言ったらどうした?」なんて、訊くことはできないのだから。

 店を出て、いつもどおりの他愛ない話をしながら家路に着いた。彼女と別れて一人になると、俺は道端にしゃがみこんだ。

 いくつかの記憶が鮮明に脳裏によぎる。大学合格を一緒に祝った美香。空手の全国大会への進出を喜んでくれた美香。そして今しがた、別れ際に「腕が太くなって、自信過剰になって、でも肝心なところは本当に変わんないねえ、勇助は」と言ったときの、彼女の笑顔を。

 しばらくその場でうずくまり、自分に言い聞かせた。自分は正しいことをしたのだと。やるべきことをやったのだと。だから泣く必要などないのだと。

 一周目の世界と二周目の世界にいた二人の美香を思った。フィリピンで、或いは自宅のアパートで死んだ俺のために涙を流してくれただろう。俺の死ぬ日が彼女の妊娠期間と被らなくて本当によかったと思う。子供が無事に生まれた後なら心配ない。美香が動揺し、悲嘆に暮れていても、爽也さんが支えてくれるし、幼馴染みを失った悲しみは孝太郎と分かち合える。二人の美香はきっと大丈夫だ。

 そしてこのまま俺がただの幼馴染でいる限り、三人目の美香も不幸にしなくて済む。

 千の平行世界に千の彼女がいるとして、俺はその誰一人として不幸にしたくない。

 だからそのときも、そしてそれからもずっと、美香のことは爽也さんに任せるしかなかった。俺は彼女がおばあちゃんになるまで隣にいることはできないのだから。

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