9 この恋に先手なし

 彼女の愛を得ることができればループを抜け出せる――そんなことはありえないと言い切れるだろうか?

 もしこの現象が何か大いなる存在――例えば神と呼ばれるようなもの――の意思によってもたらされているとしたら……それは俺に何をさせたいのだろうか? 未来の情報を駆使して世界を救えとでも? 無職の冴えない男、しかも過去に戻った時点で無力な中学生になる人間にそんな大役を任せるとは思えない。

 俺をループさせる意味は? 俺が何かをするのを待っている? だとしたら、それは俺が悲願を成就すること――即ち美香に愛されること以外にないのではないか?

 或いは時間を移動してしまうというこの現象を――例えば「酔歩する男」という中編小説のように――あくまで自分の脳内だけの出来事と解釈するのはどうだろう? この小説では脳のある箇所が破壊されることで時間の流れを認識する機能が失われ、精神がタイムリープすることになった。あの発作によって脳内に取り返しのつかない傷を負ったのだとしたら? それが原因でこんな特異体質になってしまったのだとしたら……

 いや、「酔歩する男」には量子力学のやや難解な説明などもあったが、何もそうした複雑な事象が起きているとを考えなくても、単純にこう解釈することもできる。つまり、二周目以降の世界は俺の脳内にだけ存在するという可能性だ。至極単純に、俺はあの発作の後で昏睡状態に陥っていて、あまりにリアルな夢の世界をさまよっているのかもしれない。その夢の世界で美香の愛を手に入れることができたら、現実の俺も目を覚ます――そんな奇跡はありえないだろうか?

 そこまで考えて、俺はもうこれ以上こうした考察をもて遊ぶのはやめようと思った。結局のところこの現象の正体など、いくら考えたってわかりはしないのだ。俺はただあの映画の、愛し愛されることを知った主人公が時間の檻を脱出するあのビジョンが、頭から離れないだけだったんだ。

 それにループの脱出の可能性とは無関係に、俺が三周目の人生を前向きに目標を持って生きようと思ったら、つまるところやることは一つしかないんだからな。

 そう、二周目と同じだよ。爽也さんと張り合える男になって、次こそは美香の隣に立ってみせる。


 頼りがいのある人間になるため、我ながら安易な考えだったとは思うが、今回の人生では文武両道の「武」の方に力を入れてみることにした。「武」とは元々武道を指すが、現代では当然スポーツ全般を指している。だが俺が目指したのは前者の方だ。

 高校受験が終わるとすぐに、俺はある空手道場に入門した。一周目の人生でフィリピンに行く前、美香が戯れに言ったことを思い出したからだ。俺は痛いのも汗臭いのも、やたら礼節やら形式やらにこだわるのも嫌いだが、確かに格闘技の試合を見るのは好きだったし、それに高校生活ももう三度目だ。似合わないことに手を出して苦難の道を歩むくらいが、歯応えがあってちょうどいいというものだ。

 とはいえ、元々運動が不得意でひ弱な俺が今から空手に打ち込んでも、剣道で全国大会まで行った爽也さんのような実績を残すことは不可能だろう。今更集団競技を始めるよりはまだ上達が早そうだが、俺に殴ったり蹴ったりの才能があるとも思えない。だがそれは問題ではない。大事なのは、何か一つのことに真剣に打ち込んだという事実と、それがもたらす自信だ。美香に自分の想いを伝えるには、それが絶対に必要だった。

 さて、ここで俺が入門した流派についてざっと触れさせてもらおう。とはいえ俺はお前が格闘技には何の興味もないことはよく知っている。それにもしお前が一気にこの手記を読み通そうとしているなら、この時点でそれなりに時間が経っているだろう。だからここから先は何ならしばらく読み飛ばしてもらっても構わない。

 一口に空手といっても色々種類があるんだが、詳述するとキリがないから手短に説明すると、俺が始めたのは伝統派空手と呼ばれていて、有名な極真に代表されるフルコンタクト空手とは違って、重い打撃の連打ではなく素早い一撃を決めることを念頭に置いた競技だ(勘違いしている人間が多いが、少なくとも試合に出て勝つことを目指す時点で、伝統派もフルコンも武道であると同時にスポーツなのだ)。オリンピックの種目になっている空手もこちらの伝統派の方だ。

 もしかしたら世間的には、空手といえば伝統派から派生したフルコンタクトの方をイメージする人の方が多いかもしれないが、それでも伝統派を選んだ理由は、第一にほとんどのフルコン空手では顔面への突きパンチが禁止されているという事情がある。実戦ではどうこうなどという、一端の武道家かガキのようなことを吠えるつもりはないが、やはりこの点は格闘技として致命的な弱点だと感じざるを得なかった(頭部へのパンチがルール上にあるかないかで、有用な技術体系はまるで違ったものになるということくらいは、当時素人の俺でもわかることだった)。第二の理由は、伝統派空手の技術を利用して本場アメリカの総合格闘技界でトップクラスの戦績を誇っている選手の存在だ。彼の試合を見れば、伝統派を寸止め空手だとか、言うに事欠いてダンス空手だとかと揶揄し、実戦向きでないと叫ぶ輩たちがいかに一面的にしか伝統派空手の技術を理解していないかわかるというものだ。

 しかし通ぶってみたところで、結局のところ伝統派を選んだ一番の理由は、フルコンよりも痛くなさそうだからという甚だ情けないものだった。実は一周目の人生で通った高校のクラスメイトにフルコンの正道会館の道場に通っている奴がいて、どんな稽古をしているのか聞いたことがあったのだが、向き合って互いに下段廻し蹴りを出し合い腿や脛を鍛えるという話は、想像するだけで脚がひりひりするようで、とても俺には続けられそうにないと思った。また、あるとき極真の世界大会をたまたまテレビで見かけたときも、屈強な男たちが胸をぶつけそうな距離まで接近して、真っ向から骨を砕かんばかりに胸や腹に突きを繰り出し合っている姿に、「うひゃー、こんな連中に関わりたくねー」と思ったものだった。だからいくら冒険心が芽生えたところで、フルコン空手の道場の扉を叩く気概は全く生まれなかった。

 そういうわけで伝統派の、比較的通いやすい位置にあった松濤館流の道場に入門したのだが、もしこの手記を松濤館流の人間が読んだ場合(といってもお前以外に読ませる気は更々ないが)容易に想像できるように、数分で自分の考えの甘さを思い知らされた。あまり事前に情報を集めて、こんな厳しい練習には耐えられないかもなどと尻込みしないように、あえて評判を調べず見学に飛び込んだのだが、そこでは軟弱者の決心を揺るがすのに十分な光景が繰り広げられていた。寸止め空手などと呼んだ奴は誰だと怒りが湧き上がるほど、当たり前のように上段突きが当たっている。初日には見ずに済んだが、時には失神する者まで出る。考えてみれば素早く動き回る相手に綺麗に寸止めするのが難しいのは自明の理だが、実は試合の際に、ほとんど当たる寸前で止めない限り判定で有効と見なされないという事情があるから、必然練習でも試合でも止め切れなかった拳が顔面を打つことになる。

 これはえらい所に来てしまったと少しばかり後悔したのは確かだ。しかし自分を鍛えるためには逃げるわけにはいかない。スポーツと無縁だった俺は体験入門の一か月で既に疲弊しきっていたが、そのまま入門して稽古を続けた。いかに自分が格闘とか武道とかいったものに向いていないかを、骨の髄まで思い知らされる日々だった。痛みに弱く、緊張してすぐに身体が固くなってしまい、劣勢になると混乱して冷静な判断ができなくなり、相手が飛び込んでくると腰が引けてしまい(お前も知ってのとおり、俺は「ボールが飛んでくると目をつむってしまうタイプ」だ)、距離感を掴むのが苦手だから(一周目の俺の危なっかしい車の運転を……お前は知らなかったな)遠間から放つ突きも蹴りも空しく空を切る。高校入学前に入門したというのに、なんと半年もの間、中高生の部で誰にも、一度も組手で勝つことができなかった。ああ、呪わしき才の無さよ。しかし大切なのは負けないことより負けても立ち上がることだ。

 ほとんど毎日通い続けて一年経ち、中学生には五割以上勝てるようになった。大会にも出場するようになり、散々な成績ではあったが公式戦での初勝利も味わった。高校三年になった頃には、高校生の門下生九人の中で三番目に強かった。ちなみに高校にも空手部はあったのだが、そこは俺の目から見てさえお遊びのような部で、ろくに練習もしていないようだったから入部は考えなかった。

 高校を卒業する頃には、中高生の部で俺より強いのは一人だけだった。高一の彼は松濤館流の全国大会でも結果を残している強者で、数十回組手して勝てたのはほんの数回だった。俺は高二の時点で練習だけは一番ハードにやっていたが、彼が高校入学を機にこちらの道場に移ってきて(彼が入学した進学校には俺の高校と同じく弱小空手部しかなく、しかもそこは松濤館流ではなかったので、比較的学校から近いこの道場に入門した)からは、彼に合わせて練習の質と量を上げた。

 大学受験に集中するため一時的に道場をやめるまで、実力ではずっと彼に敵わなかったが、自分と同じ練習をこなす俺に対して一目置いていてくれたらしく、俺が去るときは随分寂しそうにしてくれた。

 そして今度は彼が大学受験のために道場をやめた後、俺は松濤館流の大会の学生・社会人の部で(組み合わせに恵まれたこともあって)、遂に全国大会まで進むことができた。結果は初戦敗退だったが、実力を出し切っていい試合ができたことには満足している。


 長くなってしまったが、三度目の人生にして、多くの中高生に共通して訪れる試練である受験勉強以外で俺が真剣に打ち込んだと言えるものを、親友のお前についひけらかしたくなったことを許してもらいたい。

 さて、そうして空手の実力とそこそこ見栄えのいい筋肉を身につけ、自信をつけた俺は、いよいよ美香への告白を計画した。

 難しいのは、爽也さんといかにフェアプレーで戦うかということだ。

 松濤館流の教訓おしえの一つに「空手に先手なし」というものがある。まあ字面で何となく意味は伝わると思う。だが恋愛はどうか。先手必勝――手段を選ばないなら、先に動くのが定石だろう。二度の人生で恋愛について学べたことなど何もない俺でもそのくらいはわかる。

 だが二人が知り合う前に俺が想いを打ち明けるのは、爽也さんに対しても美香に対しても誠実ではないと感じていた。

 まだ付き合ってはいないにしても美香が既に彼のことを知っていて、もしかしたら惹かれているかもしれない時期。そのときに想いを伝えなければ。そのとき美香が爽也さんではなく俺を選んでくれるのでなければ、美香にとってきっと爽也さんと一緒になる方が幸せのはずだ。

 頭が固すぎると思うだろうか? 俺は別に自分を潔癖だとは思わない。これは意地の問題だ。

 三度の青春時代を通じて、世間的に評価されるだけの学歴と鍛えられた肉体を手に入れはしたが、俺にとって誇りなのはそれら自体ではなく、それらを得るために費やした年月、ひたすら美香だけを愛し続けたことだ。そしてその愛を真に貫き続けるために必要なことは、爽也さんと出会う前に美香の心を手に入れようと画策することではないはずだ。

 そう思ったからこそ、今度も俺は美香と同じ大学に行くのはよしておいた。何がきっかけでバタフライエフェクトが発生し、美香と爽也さんが出会うきっかけがなくなるかわからないからだ。元々俺は学究の徒なんて柄じゃない。学力を証明できれば、別にどこに進学したって構わなかった。

 だがいざ美香と爽也さんが出会った時期を過ぎ、これから二人が付き合い出すまでの間に行動に出なければという段階になると、俺の頭にある疑問が浮かんだ。

 美香はバレーボール部でキャプテンをやりながら、爽也さんは後に剣道で大学ベスト三十二に入ることになる実力を磨きながら、勉学にも手を抜かなかった。それでいて友好範囲も広く、気配りも利いて誰からも好かれる。たった一度の人生で、それだけのことをやってきた。きっと一度しかないからこそ、一秒だって無駄にしないで生きてきた。

 三度青春時代を繰り返して自分に自信をつけたところで、彼らと肩を並べることができたと言えるだろうか。

 誰もが一度きりの人生をその人なりに生きている。向上心もなく無為に過ごす者もいれば、全力でひたむきに生きようとする者もいる。俺はどちらかと言えば前者の方だった。歪な運命の悪戯で誰とも違う時間の流れに身を置くことになり、生き方も変わったが、一度目の人生を本気で生きていなかった事実は消せない。そんな俺に、爽也さんを押しのけて美香の隣に立つ資格があるのだろうか。

 こうして悩んだことについて、今なら違う見方もできる。そのときはどこかで、身を引くという選択が持つ自己犠牲の精神に酔っていたのだと思う。そしてそれ以上に、やはり俺は恐れていたのだろう。単純に美香に振られることを、ではない。傷つくのはもう慣れていた。心も身体も、繰り返された人生の中で十分痛みに対して強くなっていた。一世一代の大告白の結果が撃沈だったら、控えめに言っても人生最大のショックに襲われることは容易に想像できたが、きっと今の俺には耐えられると思った。その先生きていけないほどじゃないはずだと。

 耐え難いと思うのは、彼女に困った顔をされることだ。俺の告白を聞いて、美香が一度も俺に向けたことのないような、困惑と悲哀の混じった表情を見せるのではないか。それを思うだけで胸が張り裂けそうに痛んだ。

 だがいつまでもそうして迷っているわけにはいかない。俺には爽也さんと同じように美香に想いを告げる資格があると自分を納得させた。一番大事なのは彼女への想いの強さだ。それだけは爽也さんにだって負けていないはずだ。

 俺は美香を誘って出かける約束を取り付けた。忙しい彼女が予定を空けられたのは三週間後の週末で、その時期はもしかしたら先に爽也さんが告白しているかもしれなかったが、それでも構わないと思った。この勝負は早い者勝ちにはさせない。二人を天秤にかけてじっくり選んでもらえればむしろ本望だった。勝つにせよ、負けるにせよ。

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