8 二度あることは

 美香の出産が終わる頃には、恐怖は募る一方だった。フィリピンで突然頭痛に襲われたあの日の日付まで、もうそれほど時間が残っていない。

 その日が一か月後に迫る頃には、常に頭から不安が消えなくなった。やっと慣れてきた仕事も、全てが水泡に帰す可能性を考えるとまるで手につかなくなってきた。

 だが結局俺は、その日の三日前までそれまでどおりの日常を無理になぞり続けた。何事も起こらずその日が過ぎるという希望を捨てきれなかったからだ。自分の身に降りかかることを確信できていれば、会社を辞めるか少なくとも二週間くらい前から欠勤していただろう。

 三日前に、腹を括った。何も起こらないと自分に言い聞かせるのをやめて、起こったときのことを真剣に考えた。時間が惜しかったから会社は欠勤することにした。まず始めたのは身辺の整理だ。そしてここ五年間開催された競馬の大きなレースと、そこで勝ちを納めた競走馬の名前を覚えた。不正な手段で稼ぐのは気が進まないが、どうしても金が急に必要になったときの調達手段を確保しておくためだ。

 それから、美香と孝太郎に会いに行った。美香には二日前に、外せない仕事があった孝太郎には前日に会えた。三人で一堂に会するのが理想だったが、三人では口に出せないこともある。結果的にはあれでよかったと思う。とは言ってもほとんどは他愛ない昔話しかしなかったのだが。

 そして当日、一睡もできなかった俺は朝から酒を飲み、そのせいで昼近くなってから睡魔に襲われ、だらしなく床に寝転がった。

 眠った俺を跳ね起こしたのは、頭に走った鋭い痛みだった。一瞬で意識が覚醒した俺が考えたのは、どうして眠ったまま苦しまずに終わらせてくれなかったのかというやり場のない怒りだった。これ以上苦痛を描写しても無意味だし、お前にまで辛い思いをさせたくないから省略するが、今度もまた視界が赤、緑、青と順に染まっていたことは特筆に値するかもしれない。




 視界が急に開けたとき、目の前にあったのは暗い緑色の平面だった。

 黒板だ。教師の背中。白いチョークでの板書。教室。同級生の後頭部。そして振り返ると、美香。

 俺はまたタイムリープしてしまった。予想どおりに。


 まず考えたのは、この現象に終わりはあるのかということだ。十年後にはまたあの痛みに襲われて、三周目の人生が幕を下ろし、四周目の人生が始まるのか。そして五周目、六周目と続いていくのか。

「勇助、なんか具合が悪そうだけど」

 授業中ずっと思い悩んでいた俺は、相当顔色を悪くしていたのだろう。授業が終わった後の美香の第一声がそれだった。

「ああ、なんかめちゃ気分悪いから保健室行ってくるわ」

 静かな場所で、落ち着いて考える必要があった。とりあえず翌日は学校を休むことに決めた。

 フィリピンで倒れた後に中学生に戻っていたときには、せっかく前向きに生きられるようになった矢先に道を閉ざされた喪失感よりも、十年前から新しく人生をやり直せることで生まれた希望の方が大きかった。だが今回はどうだろう。二周目の人生でも美香に相応しい男にはなれなかったとはいえ、努力して自分を高めることの充実感は得られたし、前途にも希望があった。美香が隣にいなくても実りのある人生を送れるのだと思えてきた頃だった。

 それを突然ぶった切られて、また振り出しに戻されてしまった。今度は何を目的に生きればいいのか。きっとまたあの日が来れば、十年の時を巻き戻され、今日この日へ放り出されることになる。築き上げたものは全て無に帰し、残るのは自分の正気を疑いたくなる記憶だけだ。俺は完全に気が狂っていて、精神病院の片隅で凄まじい妄想を繰り広げ、それを現実だと勘違いしているというのが真相だった方がまだ現実味があるというものだ。精神だけが繰り返し時を遡る話なんて誰が信じるだろう? もし信じてもらえたとして、解決策が提示されるとも思えない。

 どうすれば、無限に続くかもしれない繰り返しの中の三周目を意味のあるものにできるというのか。

 俺が科学に強い関心を持った人間だったなら、このループの謎を解き明かそうと奮闘したかもしれない。だが受験勉強をやり直して高校物理を理解できるようになっても俺は根本的に理系の人間ではなかったらしく、ループから抜け出す方法を見つけることは早々に諦めた。人知を超えたこの現象を解明するのは俺には荷が重すぎる。

 よしんば俺が研究を重ねて時間というものの真理にわずかながら肉薄できたとしても、周囲の環境は十年でリセットされる。実験器具や施設も十年以上は進歩しない。アインシュタインが俺の立場でも謎は解けまい。


 そういうわけで三周目の俺は、にっちもさっちもいかない状況に陥った人間らしく、ただただ自堕落に生きることを選んだ(それを選択と呼べるかはともかく)。まず翌日の学校を休む。十年後に死ぬことが決まっていて、既に二度体験している学校へ律儀に通う理由を見つけるのは難しい。

 次の日も仮病で欠席して、いい加減寝転がっていることにかえって疲れてきた頃、中学時代の自分の部屋を懐かしい思いで漁っていると、美香がうちまでやって来た。母さんは具合が悪いと言い張る俺のために果物やらスポーツドリンクやらを買いに出かけていたから、家には俺ひとりだ。居留守を使うこともできたが、美香に無駄足を踏ませたくなかったので、気は進まなかったが上がってもらった。

「二日休んでた割には元気そうだね。安心した」

 プリントを届けに来たという彼女は俺の顔を見てそう言った。昼頃にシャワーを浴びてさっぱりしていたから、尚更ずっと臥せっている病人には見えなかっただろう。

「ああ、まあそこまでひどいわけじゃないから」

 歯切れの悪さに何かピンと来たのか、美香はちょっと上がるね、と俺を押しのけるようにして二階の部屋にずかずか上がっていった。こうなると止められないのはお前もよく知っているだろう。ため息をつきながら後に続いたよ。

 部屋に足を踏み入れた美香が渋い顔で振り返った。床に置かれたビールの缶のせいだ。

「どういうつもり?」

「……言ってもわかんねえと思うけど、なんか急にありとあらゆることがばかばかしく思えちゃってさ」

「それは哲学的な大発見だったね。あたしも今日すごい発見したよ。幼馴染が大馬鹿者だったっていう発見。こんなわっかりやすいやさぐれ方しちゃってさ。勇助らしくもない。いや、この形だけグレてみましたって感じのわかりやすさはらしいっちゃらしいけど」

 あまりにも見透かされていて思わず苦笑が漏れた。親の留守を見計らって、この頃の味覚では美味いとも思えない酒に手を出したのは、単に心が荒んだ自分を演出したかっただけなのだろう。映画のワンシーンのような、傷つき疲れ果てた男を表す記号。全くもって馬鹿げているが、俺が置かれた状況を思えば愚かなことの一つもしたくなるというものだ

「それでどうするの? 明日も学校来ないつもり?」

「さあ、どうかな」

「あのねえ、勇助なりに何か考えがあってやってることなのかもしれないけどね、どうせすぐ後悔して学校に来ることになるよ」

「なんだそりゃ。将来のことが不安になって、やっぱり学校くらい行っとかないとってか」

 未来なんて俺にはねえんだよ、という言葉を飲み込んだ。

「そういう深刻なことを考えなくてもさ、そろそろおばさんが本気で心配し始めるよ。そしたらおばさんにも同じことを言うわけ? それで悲しむのを見ても平気?」

 確かにそれは頭の痛い問題だった。明日親にどう言って学校を休むかについてさえ、まだいい考えが見つからずにいた。

「それでも学校来ないつもりなら、あたしが連日家に乗り込むことになるよ。もちろんお酒は没収していくし、寝てても寝た振りしてても叩き起こすからね。一日中寝転んでくだらないことを考えるのを邪魔する。部活が終わった後にだって来るからね」

 そこまで言われたらもう諦めるよりほかなかった。俺は明日から学校に出ることを固く誓い、酒も飲まないと約束し、やっと美香にお引き取りいただいた。息子が不登校になって悲嘆にくれる親の姿と、美香の怒りの来襲を想像すると、三度同じ授業を受ける退屈さよりも耐え難い。

 だがすぐに、俺が学校へ通わなければならないもっと重大な理由に思い至った。例のバタフライエフェクトの危険性だ。

 このまま俺が馬鹿を続けて、美香が連日説得に来たとしたら(そしてどうしようもない俺は、美香がしょっちゅう家を訪ねてくるという状況を楽しむことさえしかねないのだが)、それによって放課後の彼女の勉強時間が削られ、学力が落ちて進路を変更するということもありえる。まあ美香のことだからなんだかんだ上手く時間をやりくりするとは思うのだが、可能性はゼロではない。また、たとえ実際にはそう頻繁にうちに来なかったとしても心の片隅に友人を心配する気持ちが居座って勉強に身が入らないということだって考えられなくはない。そうやってもしも進学先の高校が変われば、その先の大学進学にも影響が出る。爽也さんと同じ大学に行かなくなるかもしれない。

 それはまずい。俺が無為に人生を浪費するのは勝手だが、美香の人生に訪れるはずの最良の出会いを潰すわけにはいかない。

 まああそうしたのっぴきならない事情だけでなく、単に精神年齢がとうに三十を超えた身で中学生に説教されるのがいたたまれなかったという面もあるが、とにかく三度目の中学校生活が始まった。


 繰り返される授業の退屈さを紛らわすため、教師の語る全ての言葉を脳内で英語に翻訳した。見やすく美しいノート作りを心掛け、ただ板書を写すだけでなく、工夫を凝らしたノートを教科ごとに作り上げた(後に塾講師のアルバイトをする際にこのときの経験が非常に役に立った)。学力、とりわけ英語力は益々向上し、放課後受験勉強をするまでもなく、前回受験した高校に合格できそうだった。

 余暇ができたから、タイムリープやタイムトラベルを扱った小説や漫画、映画を漁った。いわゆるループものと呼ばれるタイプの作品は探せばかなりの数があり、メジャーな名作からマイナーな小品まで、様々な示唆を与えてくれた。

 そんな中出会ったある映画――ネタバレになりそうだから作品名は伏せるが――を見て、俺は一つの仮説を立てた。

 俺が迷い込んだループは、愛の成就によって脱出できるのではないか?

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