7 蝶を翔ばさないために

 バタフライ効果エフェクトという言葉を知っているか? 同名の映画があるからそれで知っているかもしれないな。蝶の羽ばたきによって地球の反対側で竜巻が起こるという、カオス理論を説明するときに使われるたとえ話だ。初期条件の小さな違いが複雑に作用して結果を大きく変えるという効果のことだが、これはフィクションにおいてはタイムトラベル/タイムリープが登場する作品に散見される(直接バタフライ効果という言葉が出ていないものでも)。例えば、タイムマシンで恐竜ハンティングに行った際の些細な手違いで生命進化の歴史が狂ってしまう「サウンド・オブ・サンダー」、幼馴染のトラウマの元を断とうとしてタイムリープした結果、別の不幸が生まれてしまう「バタフライ・エフェクト」、数文字のメールを過去に送っただけで街の様相さえ変貌させてしまう「シュタインズ・ゲート」、などなど……

 カオス理論を説明するための言葉ということからわかるように、つまりこの効果を正確に予測することは事実上不可能ということだ。過去を小さく改変することで未来にどれだけ甚大な影響を及ぼすかは、どれだけ注意深く色々な要素を検証しても把握し切れるものではないし、時には人間の予想の範疇など大きく超えるとんでもない事態だって起こり得るだろう。

 まあこうしたSF作品に触れて、俺が置かれた状況の危うさを改めて注意深く考えたのはもっと後になってからだったが、そんな知識はなくても、少なくとも大学に入ってしばらく経つくらいの時期までは、元の人生以上に美香に近づくことを避けるべきだと決めていた。

 例えば俺が美香と同じ高校に入ることで、彼女の高校生活がほんの少し変わることになったら――それによって、美香の志望大学が元の人生と変わるようなことになったら。本来同じ大学で出会うことになる爽也さんとは接点がなくなってしまう。それだけは避けなくてはならない。

 そう、俺は美香の前から爽也さんを排除する気は一切なかった。

 もちろん考えなかったわけじゃない。彼と出会わなければ、美香が俺に振り向いてくれる可能性は高くなるかもしれないと。

 だがそれは、美香が俺に寄せてくれた友人としての信頼を裏切る行為だ。

 自分の親友を幸せにしてくれるとわかっている人間との出会いを妨げる。それが親友のやることか? どこの世界に友達の幸せを邪魔する奴がいる?

 あの二人が出会わないよう工作などしたら、俺には美香の友達でいる資格なんてなくなる。

 俺がやるべきことはそんな卑怯な企みではなく、爽也さんと正正堂堂勝負できるような男になるための努力だ。

 美香が爽也さんと出会った後でも俺を選んでくれるような、そんな人間になるために。


 だが結局、俺が二度目の人生で味わったのは圧倒的な敗北感だった。

 高校で散々勉強したにもかかわらず、俺は美香と爽也さんのいる大学に合格できなかった。そしてその時点で、爽也さんに勝つことを諦めた。美香は予想どおり爽也さんと出会い、二人が並んだ姿を見た俺は、自分がそこに割り込む資格などないことを痛感した。

 文武両道の美男美女。羨望の眼差しを浴びる彼らがいかに努力してその地位を築いたか。その一端が理解できたからだ。

 一度目の人生よりもずっと勉強したおかげで、学歴というものの持つ意味がわかった気がした。学校の勉強ができても社会に出れば何の役にも立たない。高学歴でも仕事のできない奴なんてたくさんいる。そんなことをしたり顔で言う連中がいる。なるほど、それはそのとおりかもしれない。だが高学歴の人間というのはその多くが、少年時代に遊びたい時間を犠牲にして勉強に励んできたのだ。勉強が好きな奴なんてほとんどいない。彼らは、目標のためにやりたくもないことを頑張り続けた結果、世間が言ういい高校やいい大学に合格するのだ。学歴がいいということは、嫌なことでも投げ出さずに頑張れた人間だということの証明だ。そしてそれこそ以前の俺にはできなかったことだ。

 志望校に落ちて美香のことを再び諦めた結果になった俺が、なんとか絶望の中で生きていけたのは、努力したということ自体に価値を見出し、辛かった日々そのものを財産として考えられたからだ。そしてそれは美香がいてくれたからこそ手に入れることができたものだ。

 とはいえそれを悟るまでの、第二志望の大学での最初の一年は、失意の中で死んだ魚のような眼をして過ごした。ふさぎ込んだ俺を見た美香と孝太郎には、随分と心配をかけてしまった。単純に志望校に落ちたことが原因だと思われていたようだが、もちろん実際に俺を絶望させたのは、奇跡の超常現象が起きて人生をやり直すことができたのに、また美香を諦めなければならなかったことだ。

 だが時間は全てを解決してくれる。初恋が破れても人生は続いていく。

 第二志望の大学とはいえ、最初の人生と比べれば遥かに難関の大学に合格したのだから、腑抜けになっているのはもったいなさすぎる。大学受験で学ぶことの大切さを知ったのだから、大学でもやるべきことは一つだ。

 俺が入学した学科は英文学科だった。フィリピンにいたとき、もっと英語が話せたらと思っていたのが単純に志望のきっかけになったのだが、せっかくなので学生のうちに英語を完璧に話せるようになろうと決めた。一年次こそぎりぎり留年しない程度にしか単位を取らなかったが、次の年は語学にかかわる授業はなるべく受けるようにした。学生生活も半分を過ぎた頃には、ハリウッド映画を難なく字幕なしで観られるようになったし、英語圏の小説も原書で読めるようになっていた。

 三年次にはアメリカの大学に半年間留学したが、そこでの授業や日常会話にも全く困ることはなかった。前の人生と同じように就職活動が上手くいかなかったら、海外で職を探してみるのも面白いかもしれないと思った。

 しかしいざ気乗りしない就活を始めてみると、思っていたよりも簡単に内定が取れた。それも前の人生で就職したような誰にでも内定が出てその癖多くが数年で辞めていくような会社ではなく、名が知れていて悪評も少ない健全そうな企業だった。書類選考の際に目を引く書き方やら、面接官に受けのいい回答やらを特に研究したわけでもなく、前の人生とそれほど変わらない心意気で臨んだのだったが、何だかんだ学歴の力というのが大きいのか、それとも自分では意識していなかったが、周りの学生より実質的に十年近く長生きしているために落ち着きや風格のようなものが出てそれが評価されたのか、とにかく呆気なく仕事は決まった。

 そうなると心残りは一つだけだった。

 孝太郎はその時点で内定が出ておらず、就職活動を続けていた。前の人生の俺が知る限り、その後無事内定先を得た孝太郎は、元々志望度の高くなかったその会社で働くことになるが、俺が辞めた会社より幾分かマシとはいえなかなかの労働環境の悪さだったその職場での日々にストレスを募らせていくことになる。

 余計なお世話かもしれない。孝太郎は何だかんだ言いながらも俺と違って仕事を続けていた。あいつなりに頑張っていたんだし、自分で選んで掴み取った人生だ。だがもし親友がよりよい未来を掴むための手伝いができるのなら――

「面接では緊張しないで話せてるつもりなんだけどなあ」

「自然体で行けるのはいいけど、あんまり暢気(のんき)な感じだと、真剣味が足りないと思われるんじゃねえかな。こうビシッとハキハキと、覇気のあるところを見せてかねえとな」

「覇気って俺に一番ないものじゃん。そういえば勇助はなんかこう、昔より堂々とした感じになったよなあ」

「高校で勉強漬けだったからな。あれに耐えられたんだから、仕事が辛くたってやり遂げられるぜ!って自信にはなったわな」

 とはいえ俺にできるのは面接の練習に付き合って、有益なのかどうかも怪しいアドバイスをすることくらいだった。

 俺自身どうして面接に受かったのかよくわかっていない部分はあるにせよ、やろうと思えばもっと実用的なことを教えることだってできた。面接というやつには、ある程度採用側と受験者側の嘘つき合戦のような側面がどうしたって存在する。やり直しの人生の中で、バタフライエフェクトを回避すべく(勉強時間を長くする以外は)以前の人生となるべく同じように生きてきた俺は、ある意味で嘘の達人だった。一度経験したこと全てを初めて体験するかのように振る舞い続けてきたのだから。そんな俺にとって孝太郎に上手い嘘の付き方を教えるのは容易いはずだった。

 けど孝太郎は面接の場で平気で嘘を突き通せるような器用な人間ではないし、俺は幼馴染のそういうところが好きだった。だから小手先の嘘に頼らない面接突破法を不器用なりに二人で考えて、試行錯誤しながら数社の面接試験に臨んだ。

 その甲斐あって、元々孝太郎が入るはずだった会社より目に見えて条件のよさそうな企業から内定が取れた。美香も呼んで三人で祝杯を上げたよ。

 俺の進学先以外で、一度目の人生と大きく変わったのは知る限りではこれだけ――孝太郎の就職先だけだった。蝶を羽ばたかせないことに成功したってわけだ。


 最大の目的は遂に果たせなかったとはいえ、二度目の人生はそれなりに有意義なものになっていた。俺は数奇な運命に感謝して、前向きにこれからの人生を生きていこうと思っていた。

 だが、グリムウッドの『リプレイ』を読むまでもなく何年も前から胸の奥でくすぶり続けていたある予感が、俺に楽観的な人生を送らせてくれなかった。不安は日増しに強くなり、それを忘れられたのは美香の結婚式の日だけだった。

 一度目と変わらぬ感動を与えてくれた素晴らしき披露宴。今もありありと思い出せる壇上に並んだ二人の姿は、圧倒的なまでの「正しさ」を俺に感じさせてくれた。正に彼らは、ここに立つべくして立っている。誰もそれを邪魔するべきではない。

 三次会の後、孝太郎と二人で酒を酌み交わした。あれは一つの青春の終わりの儀式だった。そうして二人で秘めた想いを吐き出すのも、俺にとっては二度目の出来事だった。

 ――俺の不安とは、それが二度で終わってくれないのではないかというものだった。

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