6 グリムウッドという名に聞き覚えは?

 鏡がなかったから自分の顔は見られなかったが、ひどい顔をしているのはわかった。数秒間美香の顔を見つめて絶句しているときも、俺を見る他の生徒の顔は一様に怪訝そうだった。

 心を落ち着かせるため前に向き直って、ひたすら考えた。俺はフィリピンで異常な頭痛に襲われて意識を失って、気付けばここにいた。目を覚ましたという感じではない。五感を失い思考が途切れたブラックアウトから空白を置かずに、この中学校の教室に意識が飛んできたような感覚だ。視界の暗転と、その直後の黒板と生徒たちの後頭部という教室の光景がはっきり連続しているように感じた。

 これは夢だ、とまずは考えた。倒れた俺はそのまま眠ってしまったか、嫌な想像だが昏睡状態にでも陥っているのか。いや、そもそも昏睡状態になっても夢を見ることはできるのか。

 自分が死んだという可能性は考えないことにした。俺は死後の世界というやつを信じていないし、ここが俺の天国だというなら――まるで中学三年生が人生の絶頂期だとでも言われているようだ。そしてそれをきっぱり否定できないのも確かだ。

 この一年は美香と同じクラスになれた、そして同じ学校に通えた最後の日々だからだ。

「さっきどうしたの? とんでもない顔でこっち見てたけど」

 混乱を抑え、おとなしく座って授業をやりすごすと、予想どおり美香が怪しんできた。俺は適当にごまかしてその場を切り抜けた。これが夢なら別に当時の自分を演じる必要はない。だが俺にはある予感があった。軽率な振る舞いはせずに、あくまで中学三年生のときの自分らしい行動を心がけた。

 ぼろが出ないようになるべく口を開かずにいようと思ったが、次の授業が終わって給食の時間になると、その方針はすぐに捨てた。だってそんなの、あまりにもったいないだろう? 教室という空間と、クラスメイトたちの言動。その全てが夢とは思えないようなディテールで俺の周りに存在している。よほど暗黒のような中学時代を過ごした人間でない限り、郷愁を刺激されるのは当然だろう。正直に告白すると少し涙腺も刺激された。目にゴミが入ったと言ってごまかさないといけなかったよ。

 給食時間と昼休みに何人かと話してみてわかったのは、ここが紛れもない俺の過去そのものだということだ。中学時代を舞台にした夢というには出来すぎている。三十四人のクラスメイト全員が記憶と一致するし、授業の内容も受け持つ教師にも矛盾はない。隣のクラスにいた孝太郎を捕まえて話したときも同じ印象だった。見た目も素振りも話す内容も、俺が知っている孝太郎そのものだ。そして美香も。

 改めて見ると、美香の器量が当時から飛び抜けていたことをしみじみと思い出した。意志の強さと知性を感じさせる大きな瞳やすっと通った鼻筋、少し大きめだが形と色艶のいい唇といったパーツが、滑らかな肌というカンバスに非の打ち所なく配置されて、完璧な曲線が作り出す輪郭という額縁に収まっている。そこには既に完成した美があった。

「なんか今日は妙にこっちを睨んでる気がするんだけど」

 美香が訝しげに眉をひそめた。こんな表情でもきれいだなあと呑気なことを考えながら、

「いや、なんか目の調子が変で」

 と言い訳した。実際目に違和感はあった。裸眼でもよく見えるという違和感が。俺が急に視力を悪くしたのは就職してからだった。外見だけではなく、身体の機能も確かに中学生の頃に戻っているようだったが、俺はもう驚きはしなかった。この頃には薄々状況を理解していた。


 授業が終わるとまっすぐ帰宅して、若い両親を新鮮な気持ちで眺め、久しぶりに母さんの手料理をたらふく食った(何せ俺の主観では五か月もフィリピンで満足とはほど遠い食生活を強いられていた)後、柔らかいベッドで横になって考えた。目覚めてもこの見知った天井の下にいたら、いよいよ認めるしかないと。

 そして翌朝、予想していたとおり目が覚めてもそこにいた。顎に指を這わせると、全くひげの感触がない。つるつるだが、やや脂っぽい中学生の肌だ。

 はっきりと事態を受け入れざるを得なかった。

 これはタイムリープというやつだ。SFでよくある、精神が過去に戻るというあれだ。信じ難いが、どうやら俺は十五歳から人生をやり直すことになったらしかった。


 精神だけが時を遡り、若い頃から人生をやり直すという物語はフィクションにおいては珍しくない。この手の話で最も有名かつ後世に影響を与えたものの一つが、ケン・グリムウッドという作家が書いた『リプレイ』だ。覚えているか? 昔この小説の筋をお前に話して聞かせたことがあるんだが。

 主人公である四十代の男は、心臓発作のような症状に襲われ意識を失い、目を覚ますと大学時代に戻っている。精神は四十代のままでだ。その信じ難い現実を受け入れ混乱が収まると、彼は新しい人生を豊かなものにしようと画策する。最初に取る行動が結果を知っている競馬や野球の試合に賭けることというのは、倫理的な問題を感じなくもないが、異常な状況に置かれても前向きに生きようとする姿勢は見習うべきだろう。

 俺の身に起こった現象は、この『リプレイ』に近いが、当時の俺はこの小説の存在を知らなかった。それでも似たような話は一つか二つ目にしたことがあった。どの話でも共通しているのは、主人公が未来から持ってきた知識を駆使して二周目の人生を一周目よりも満ち足りたものにしようとするところだ。

 当然のことだが俺も真っ先に未来の知識を活かそうと考えた。『リプレイ』は読んでいなくても、莫大な金がいとも簡単に手に入る方法はすぐに思いつく。お前も知ってのとおり俺はギャンブルに興味がないからその年の競馬でどの馬が勝つかは知らないが、今後十年間の世界の動きがわかっているのだから、株を使って確実に大金を得るのは難しくない。中学生の身分では金を自由に動かせないが、抜け道は見つかるだろう。

 だがそこまで考えて、自分が真にやりたいことは楽に金を稼ぐことでも、働かずに遊んで暮らせる生活を手に入れることでもないと気付いた。人生をやり直せるというなら、前の人生で後悔や心残りがあったことを変えてやるべきだ。そして俺にとってのそれといったら、美香のことに決まっている。

 といっても、俺は美香が爽也さんと結婚したことは嘘偽りなく祝福している。あの二人が出会えて、上手くいってくれて本当によかったと思っている。爽也さんにも何の悪感情もない。お前に釘を刺す必要はないかもしれないが、一応断っておこう。では何を後悔しているか? 美香に一度も自分の気持ちを伝えなかったことか? たぶんそれも違う。

 俺がそのときになって初めて後悔していると気付いたのは、あの日ウェディングドレスを着た美香の隣に、幼い頃からずっと一緒にいた自分ではなく爽也さんがいることを、さも当然のこととして受け入れてしまったことだ。そこに自分が立っていないという事実に、何の違和感も抱かなかった。なぜなら、俺は美香の隣に立つための努力を何一つしてこなかったからだ。俺が許せないのはそれだ。


 男子と女子の区別もなく仲良く駆け回っていたガキの頃でも、美香は俺や孝太郎とは決定的に違うのだということは理解できていた。性別のことを言ってるんじゃない。非の打ち所なく優秀な子どもで、大人も子供も注目せずにはいられない美香と比べて、俺は平凡極まりない、集団の中であっさりと埋没してしまう子供だった。だから幼いなりに気づいていた。このままでは美香はいずれ違う世界の住人になってしまうと。それが嫌ならどうするべきか。スポーツも苦手で芸術センスがあるわけでもなく、他に特技もない子供が認められたいなら、学校の勉強を頑張るしかない。

 だが俺の現実はどうだったか。入学した高校も大学も、世間の人が名前を聞いても特に何の反応も返ってこないような、取り立てて高くも低くもない偏差値の学校だ。

 高校も大学もそれなりに楽しかったし、母校を悪く言いたくはない。だが美香のそばにいたいと思ったら死に物狂いで努力する必要があるとわかっていながら、精々が人並程度の勉強しかせずに、自堕落な少年時代を送ってしまった結果がそうした進路であるのは事実なのだ。

 それを、まずは正さなくてはならない。それさえできないうちは、美香に想いを伝えるなど論外だ。

 かくして、十年の時を遡って中学三年生に戻った俺が始めたのは、周りの生徒たちと同じ行為――即ち受験勉強に精を出すことだった。


 しかし、放課後自宅で中学の勉強を復習するにつれ、二度目の高校受験が思ったほど簡単ではないと気づかされた。

 思っていた以上に習ったことが記憶からこぼれ落ちていた。そしてそれ以上に想定外だったのは、明らかに当時よりも物覚えが悪くなっているような気がして仕方ないということだった。

 俺が置かれた状況を科学的に考察してもどうせ説明がつかないことだらけだが、単純に考えれば身体が若いのだから、頭には真綿のように知識を吸収する若い脳みそが入っているはずではないか。だがもしかしたら、タイムリープした瞬間に十年分の記憶がこの脳に刻み込まれたのかもしれない。それで「空き容量」が減ってしまったと考えれば、正真正銘の中学生だったときよりも記憶力が落ちているのも納得できる。

 だがそれでも半年受験勉強に精を出したおかげで、美香と同じ高校に行けるくらいの学力は十分に身に付いた。一緒の高校になれば、一周目の人生よりも長く美香と過ごせる。そうすれば二人の関係も違ったものにできるかもしれない。

 だが、俺はその道は選ばないことに決めた。

 美香のその後の人生に何がしかの影響が発生することを危惧したからだ。

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