4 リスタートの準備

「美香と付き合いだした頃、言ってたんですよ。『あたしは男子に人気がありすぎたせいで男性不信になりかけた』って」

「あいつ自分でそんなこと言ってたんすか」

 そういえば高校で部活を引退した頃、俺と孝太郎にも「バレーやめて髪伸ばしたらますますモテてモテてしゃーない」と冗談めかして言っていた。

「まあ、事実ですからね。こうも言ってましたよ。『勇助と孝太郎がいなかったら完全に男性不信になって、あなたと付き合うこともなかったと思う』って」

 虚を突かれた思いだった。俺と孝太郎がいなかったら、二人は結婚していなかったかもしれない。そんなことは考えたこともなかった。驚きだけが去来して、他の感情はすぐには湧かなかった。だが遅れて様々な感情の奔流が思考を満たしても、喜ぶべきなのかどうかがわからなかった。

「だから僕は二人に感謝してるんです」

「そんな。あいつはちょっと大げさに考えてるだけですよ」

「僕はそう思いませんね。あなたも見てきたと思いますけど、美香に対しての周りの男たちの態度といったら……大学生にもなれば大半は節度を持った振る舞いをすると思ったら大間違いですよ。特に入学してすぐのサークル勧誘なんかは……まるで狼の群れに囲まれた羊ですよ」

 俺から見れば雲の上のような大学でもそんなものなのか。落胆と安心が入り混じったような心持ちがした。

「あいつ、羊って柄じゃあないですけどね」

「ええ、同感です。でもいくら彼女が強くたって、あれはうんざりしますよ。でも幼馴染の二人みたいな男もいると知ってたから、全ての男たちを色眼鏡で見なくて済んだんだと話してました」

 俺はもう彼の、いや彼女の言葉を大げさだと言うのはやめた。彼女は真剣だった。謙遜すればその感謝の気持ちをしっかり受け止めないことになる。

「美香は最近のお二人のことをすごく心配してます。孝太郎さんは仕事でかなりストレスをためてるらしいし、勇助さんは再就職が上手くいってない」

 結婚・出産と人生の大事な局面にいる美香が、そんな時期に俺と孝太郎のことを気にかけていてくれたことに、感謝よりも先に申し訳なさを感じた。

「僕からしても、勇助さんが――失礼ですが――燻ってるのは勿体ないって思います」

 こんなに立派な人たちが、自分を叱咤してくれている。その期待に応えられるような努力をしなければならない。かつて「人の役に立つ仕事がしたい」などとのたまっていた身として、ここで奮起できないなら、俺はいよいよ彼らに顔向けできるような人間でなくなってしまう。

「わかりました。爽也さん、美香に伝えてください。具体的なことはまだわからないけど、何かやってみると。必ず行動を起こすと。親友にこれだけ発破かけられたら、やらないわけにいきませんから」

「ええ、美香も喜びます。勇助さん、何か僕が力になれることがあったら遠慮せずに言ってください。必ずですよ」


 爽也さんに力添えしてもらうことはすぐに決まった。

 動き出すといっても何をすればいいのかわからなかった俺は、彼が話していた友人の所属する非政府組織(NGO)のウェブページを見てみた。主に海外で医療ボランティアを行っているNGOだが、調べてみると医療関係者以外の人員も募集していた。診療所の修繕や病室の増築、物資の運搬等、専門的な知識を必要としない作業に従事する人員だ。

 これだ、と思った。調べてみると東南アジアと西アジア、アフリカで活動しているようだが、俺が目を付けたのはフィリピンだ。あそこは確か昔アメリカの植民地で、英語が通じやすい。日常会話程度の英語さえ身に着ければ、何とか現地の住人ともコミュニケーションが取れるのではないか。

 しかし冷静になってみると、盛り上がった気分を萎えさせる考えが次々に湧いてきた。このNGOでの活動をどのくらいの期間続けるつもりだ? 一、二週間なら大学生の自分探し旅行と変わらないだろうし、かといって数か月も慣れない環境で暮らせるのか? 就職活動さえ満足に続けられない男が? 就職といえば、フィリピンで数か月ボランティアに参加したからといってそれが就職と結びつくわけではない。今はそんな寄り道をするより職探しを急ぐべきではないのか? そもそもあんな蒸し暑くて、巨大な虫が跳梁跋扈していそうな地に赴くなんて、虫嫌いの俺に耐えられるのか?

 だがそうした情けない考えは捨てることにした。俺は美香に顔向けできる人間になるため、とにかく一歩を踏み出すと決めた。そして幸運にも歩いてみたい道がすぐに見つかった。ならそれが歩きにくい道で、しかも遠回りの道だとしても、躊躇せず進むべきだ。

 後日、俺は爽也さんに連絡を取り、彼の休憩時間に病院で会う約束を取り付けた。忙しい中無理を言ったのに、彼はうれしそうに応じてくれた。

「すいません、なんだかコネを頼るようで情けない話なんですが……」

「いや、向こうだってかえって助かると思いますよ。聞いた話では、こういうのに応募してくるのが必ずしも熱意に溢れて勤勉に働く人ばかりだと思うのは大間違いだそうですから。僕の紹介なら彼も安心するでしょう」

 専門知識を必要としないスタッフは応募も多い。既に半年近くも無職の俺が普通に応募しても、一顧だにされない可能性は大きかった。

「これで、精いっぱいやるしかなくなりましたね。まあ向こうで怠けたりなんかして美香に知れたら鬼のように怒るでしょうから、元より頑張るしかないんですが」

 話がまとまったところで、俺は前日思いついたある仮説をぶつけてみた。

「もしかして爽也さんは、俺がこうすることを予想してNGOの友達の話をしたんじゃないですか」

 思い返せば、あの夜わざわざ俺と二人きりになってから語ったことも、俺をここまで導くためではなかったか。「すぐに就職に結びつかなくていい」なんて、正にこのことを言っていたように思える。

 彼は悪戯っぽい笑顔を見せた。そういう表情をすると若々しく見え、まだ研修医にもなっていない医大生のようだった。

「……こうなればいいな、くらいには思ってました。でもまさか本当に勇助さんが興味を持ってくれるとはね」

「ケニアの話を聞いてるときは、まさかそんなことを考えてたなんて思いもしなかったですよ。気を回してもらったみたいでありがとうございます。にしても、普通はこう上手く誘導できませんよ。さすが、美香が選んだ人だ」

 何度かこの台詞は言ってきたが、初めて卑屈な気持ち抜きで、純粋な敬意から口に出せたような気がした。

「勇助さんこそ、さすが美香が尊敬し続けてる人だ。人の役に立ちたいって気持ちを、ずっと持ち続けてた」

「そんな立派なもんじゃ……ただ俺は変わらなきゃって」

「そういうときにこそ、再出発のための一歩にこそ人の本質は表れるんじゃないですか? ところで滞在はどのくらいの予定で? 子供が生まれたら、会いに来てくださいよ」

「思い切って、長くいようかと思うんです。最初の数週間さえ乗り切れば、後は辛くないような気もするし」

「じゃあ出産のときも向こうにいるかもしれないんですね。もしそうなったら、動画を送りますよ」

「すいません、何から何まで」

「いいんですよ。その代わり、そっちからもたまに連絡ください。美香が心配しますからね」


 一週間も経たずに採用の返事が来た。ケニアで勤務している爽也さんの友人からではなく、フィリピン担当の職員からの手紙が、日本の事務局を通じて送られてきた。二か月後にちょうど学生が一人帰国して人手がほしくなるから、同封した資料をよく読んで準備を整えてくれとのことだった。

 出発までの期間は英会話学校に通った。アルバイトで貯めた金がまだけっこう残っているから、月謝代は楽に工面できた。不安だった体力面については、夜中走ることにした。半袖で走れば気持ちいい季節だったが、フィリピンの暑さにほんの少しだけ近づけるためにジャージ上下を着込んで走った。

 母さんと父さんに関しては、喜び半分、心配半分ってところだったな。俺がとりあえず一歩踏み出したこと、それが人の役に立つ仕事ってことに関しては喜んでくれたが、海外旅行さえ行ったことのない俺が東南アジアに働きに行くことと、帰ってきてから就職をどうするのかってことは不安みたいだった。

 美香はもちろん喜んでくれたよ。俺が派遣される地域は決して治安の悪い場所じゃないって知ると安心してくれた。出発の日には、うちの母さんと一緒にわざわざ空港まで見送りに来てくれた。

 母さんと美香が並んでいるのを見るのはなんだか妙な気分だった。母さんは、俺には一度も言ったことはなかったけど、きっと美香がうちに嫁に来てくれたらなんてことを俺たちがガキの頃から考えていたに違いないからだ。それは実現するはずのない夢想だったが、こうして旅立つ俺を見送る二人の姿は、端から見れば息子・夫を送り出す母と妻に見えたのではないか。いや、俺と美香では釣り合いが取れなさすぎて、やはりそういうふうには見えなかっただろうか。

 こうして俺は日本を後にした。そのときは、あんな形で故郷の土を再び踏むことになるとは思いもしなかった。

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